事件は港からやって来た……横浜・神戸 二都物語
2005
21
Sep
Posted by 田中良平 on 21:00 / Category : 横浜・神戸二都物語
■窓をあけて
 神戸の西端、白砂と松林の美しい舞子の浜辺に立って、間もなくやってくる船影を待つのが、月に一回の私の楽しい行事でした。
 やがて視野の左からゆっくりとあらわれ、周囲に散らばる鯛やいかなご漁の小船を圧倒する巨大な客船が、父が事務長(パ―サー)として乗り組む近海郵船の天津航路。真っ黒な船体に喫水下の赤が鮮やかで舳(へさき)の白い文字の船名は『北嶺丸』と読めました。前進半速(ハーフスピードアヘッド)で淡路島との間の明石海峡をゆっくり西を目指しています。
 船が私の左視野にあらわれ、右の靄の彼方に消えるまでの約半時間、私は手を振り「パパ、バイバイ! 行ってらっしゃい! 」と、声を上げつづけました。
 出航後一時間の事務長は忙しさのピークでしょうが、父は必ずブリッジから双眼鏡で、手を振り大口をあけて叫んでいる少女の笑顔を、倍率をいっぱいにして見つめていたそうです。
 幼稚園の少女の私に漢字はまだ読めないのですが、この船名とメリケン波止場の文字と、航海の専門用語は意味も分からないままに、父から教えられて憶えたのです。
 正午に神戸のメリケン波止場を出航、門司に寄港して片道五日間で北支の国際都市天津の外港塘沽(タンクウ)に到着。現地での休養滞在を含めて半月後の午前九時ころに神戸港に帰港、メリケン波止場に接岸して一航海を終わります。
 実際には外国航路の発着は隣接の突堤ですが、ハイカラな響きが好きでわが家では神戸港全部をメリケン波止場と呼んでいたのです。波止場を唄い込んだあの歌も母のお好みでしたから。
 父が帰港のときには母といっしょに波止場で出迎えるのが嬉しいお出かけ。兄も学校が休みの日には三人で行きます。
 舞子駅から省線電車に乗り瀬戸内海の輝きを右に見ながら元町を目指します。舞子から須磨にかけては省線と私鉄、国道が海に最も接近して波に手がとどきそう、私の大好きな眺めです。
 到着予定の一時間前くらいに舞子駅を出ると、父の船が沖に見えてきて追い抜くこともありますから、私は必ず右側座席に靴を脱いで上がり、窓側に顔を向けた膝立ちで沖を見つめます。
 母が小さな声で「窓をあければ……」と唄い、笑いながら窓をあけてくれると、さわやかな潮風も飛び込んできました。
 元町駅で省線を下りると、メリケン波止場までは歩いても十五分ほど。昔、波止場の前にアメリカ領事館があったので、神戸市民がメリケンと呼び始めたとか。「やあ、パパのお船が帰港だね」と、税関の人とも顔なじみで心がはずみました。
 やがて船が埠頭に接岸して船客が降り、ウインチがうなりを上げて荷役が始まるころに、やっと父の姿がブリッジのドアを押してあらわれ小さなトランクを片手にラッタルを軽やかに降りてきます。
 冬は濃紺で金ボタンのダブルジャケット、袖には金モール。夏は目が痛いほど真っ白な半袖シャツに金モールの肩章。帽子にも金モールを巻き白い覆いがかけられていました。
 幾度見ても私には素敵な父の姿で、誇らしい気分になります。そして父は出迎えの母と私の肩を、両腕に抱き込みます。母の身長の半分にもならない私が下から見上げると、母はいつも恥ずかしそうで、父はいつも照れくさそうな表情をしていました。
 昭和十二年の支那事変、四年後の大東亜戦争開戦前後が、日本人の北支移住や日支間の往来が激しく、近海郵船や大阪商船の天津航路がとても華やかだった時代でした。

■萬国波止場
 大東亜戦争の戦局が逆転した昭和十八年春に、私たちが愛した北嶺丸が輸送船として乗組員とともに徴用されました。
 ああ堂々の輸送船……と、叙情的なメロディーの戦意高揚歌が流行したのもこのころです。
 台湾やシンガポールへの兵員や軍需物資の輸送と、帰路は現地の資源持ち帰りに忙しく航海をつづけ、母港の神戸へはほとんど帰港しません。たまに帰港するときも日時は軍の機密でしたから波止場への出迎えはできません。
 わずか数回でしたが、波止場までの見送りをしました。
 昭和十八年十二月二十日、風の冷たいメリケン波止場……いえ、このころにはメリケンは敵性語だからと『萬国波止場』に改名していましたが……の見送りでは、なぜか父は出迎え家族の習慣になっていた抱擁を、このときにもしたのです。
 私は女学生で母を超える身長になっていましたから、父と母の表情も目の前です。いつも母が見せた恥ずかしそうな、父の照れくさそうな表情はどちらにもなく、ただ見つめ合っていた二人の眼が印象に深く残り、私の背中にも回された父と母の掌の指先の力が、驚くほどに強かったのを憶えています。
昭和十九年十月、南方洋上で敵潜水艦の雷撃を受けて沈没、船長以下乗組員全員は船と運命をともにされました。と、会社から連絡を受けたのが年末。かつての姉妹船の南嶺丸も、速度や船内サービスを競いあった大阪商船天津航路の船も、ほとんどがこの年、南方海域で撃沈されています。
 遺体も遺骨も還らないのは、シーマンの運命なのですね。

 父の死と前後して兄が予科練に合格、宝塚航空隊に入隊しました。あの時代の若者には、残された一筋の道だったのです。
 母は寂しそうでしたが反対もできず、出発の日は家の前で見送り人の声に合わせて、けなげに万歳の声を上げましたが……
 昭和十八年以降、予科練(海軍飛行予科練習生)募集を急速に増やした裏には、特別攻撃隊の激しい消耗戦があります。
 フィリピン沖作戦から始まった自爆攻撃が、やがて作戦が常態化して敵の防御も万全になり戦果が期待はずれになると、戦争指導部の方針は、出撃回数を増やせ、となったのです。
 このため要員養成に、全国に多数の航空隊が設置されました。飛行場も飛行機もない航空隊です。高野山にも航空隊ができ、宝塚は少女歌劇場の観客席を撤去して隊員宿舎としたのです。
 兄は入隊した年の六月に、同期の桜と唄われた戦友百数十人と、淡路島への出動を命じられました。本土決戦に備える砲台構築と防空壕堀りが作戦内容です。
 メリケン波止場、いえ、萬国波止場を機帆船で出航、四時間ばかりの航海予定が、たちまち米軍のグラマン艦載機の機銃掃射で船は大破沈没。船底に詰め込まれていた隊員は木造船を貫通する機関砲に肉片の痕跡もなく消えるか、海峡の激流に救命胴衣もなく放り出されて溺死。淡路島を目前にして憧れた飛行機に見ることも触れることもできずにほとんど全員が戦死。兄もその一員で十六歳でした。もちろん遺骨は還りません。

 戦後かなりしてから、神戸港に再び外国の豪華客船が寄港するニュースを耳にして、母を連れて波止場を訪ねました。黙っていましたが、私は墓参代わりの思いでした。
 母が泣き出すのではないかなと思っていたら……母は小さな声で唄いだしたのです。それもメリケン波止場を唄った「別れのブルース」ではなく、同じ歌手の淡谷のり子が唄う「雨のブルース」なんですね。
 暗い運命(さだめ)に、うらぶれはてし身は……(野川香文作詞)と、あのフレーズを静かに小さい声でくり返しくり返し。
 日清戦争から昭和二十年の敗戦まで、追いつめられ世界で孤立して絶望的な戦争に引きずりこまれた日本という国の、暗い運命を背負わされた国民は、うらぶれ果てて……母は女学校を卒業していますが特に歴史好きでもなく平凡な女性です。あの歌詞をそこまで深読みはしていないと思いますが、私たちのメリケン波止場に立って、どんな思いを抱いていたのでしょうか。
 そして一昨年、父のことなど詳しくは話していないのに、私の孫が東神戸にある神戸商船大学に進学しました。
 あの大学も神戸大学と合併して海事科学部と名前を変えたそうですね。
 現在の神戸に、メリケン波止場はもうありません。

第二話 了

● 参考資料
支那旅行案内(後藤朝太郎)



今も残る「メリケン波止場」の標識
● 今も残る「メリケン波止場」の標識

現在のメリケン波止場跡
● 現在のメリケン波止場跡

 



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神田雑学大学の三上卓治と申します。
毎週金曜日の定例講演会で、横浜の方言研究家伊川公司先生がお話された中に、メリケン波止場のことがでました。
貴ホームページ中の「メリケン波止場」の画像を転載することを、お許し願いたく存じます。
よろしくお願いいたします。
on 08/14/06 at 22:18:PM
田中良平
三上卓冶様

メリケン波止場の画像を使いたいとのご希望、どうぞお使いください。
この「物語」は昨年のシリーズですから、もうめったに開かないのですが、久しぶりに開きあなたの書き込みを発見しました。
神田雑学大学・・・・どんなサークルですか?面白そうですね。差し支えなければ、内容を教えてください。
on 08/18/06 at 09:11:AM