仕事を終えて通りに出ると、街灯が夕暮れの舗道に橙色の光を落としていた。今日は遅番だったので、こ...
仕事を終えて通りに出ると、街灯が夕暮れの舗道に橙色の光を落としていた。今日は遅番だったので、こんな時間になってしまった。さて、晩ごはんはどうしようか、帰宅して作るのも億劫だし、どこかで食べて帰ろう、私はそう決めると、駅近くの商店街に向けて歩き出した。
学生が多く住むこの町には定食屋がけっこう残っていた。自炊が主な私は、あまりそういった店に入ったことがなかったが、今夜はなんとなく気が向いた。
ネオンが輝く通りに入ると、居酒屋などに混じって縦長の青い看板が見えた。雑誌で紹介されていた定食屋のチェーン店だった。気軽に入れそうな小綺麗な外観だ。店の入口に陳列ケースがあり、中に各種定食の写真と値段が貼ってある。私はざっと眺めたあと、ドアを開けた。
「いらっしゃいませ、こんばんはー」
レジの向こうで元気のいい声がした。見ると、かわいい感じの女性が笑顔を見せていた。社員教育がきちんと為されているのだろう。これでは独身男は毎日通いたくなるわねと思いながら、焼き魚定食と冷や奴を注文した。そして軽快なジャズが流れる店内を奥に進んで、窓際にあるカウンター席に座った。すぐに若い男が水を持ってきて、食券を受け取った。
お客は若者が大半だったが、そう若くはない私でも特に居づらくはなかった。カウンターには適度な間隔で作り付けの椅子が配置されており、各々の席には調味料と箸が置いてある。
私はあることを思いついて、箸の入ったケースから一膳取り出した。そうして紙袋から本体を抜いて横にし、手前に向けてそっと二つに割った。右手に持って構えると、私の手に槙さんの手が重なって見えた。
槙さんの箸の持ち方は変だ。子供みたいに短く持つわけではないが、決してスマートとは言えない。というか、どことなく滑稽な持ち方である。
天川神社に参拝した日に、私たちは吉野の老舗旅館に泊まった。畳敷きの個室に用意された夕食の席で、私は彼に箸の持ち方の特訓をした。
「ちゃんと食えればいいんじゃないの?」
槙さんがのんびりした口調で言う。
「だめよ、あなたには似合わない。こういうふうに持った方が美しいでしょ?」
私は模範を示した。
彼は素直に真似をするが、すぐ元に戻ってしまう。まだ男女になっていない二人が、これからそうなるかもしれない時にすることじゃないかもと思う一方で、何だか心楽しくなっている自分に気づいてもいた。
「おまたせしましたー」
声がして、カウンターの上にお膳に乗った定食が置かれた。ごはんに、おかずに、おみそ汁に漬け物というシンプルな組み合わせだ。私はさっそく食べ始めた。
人にあれこれ言うくらいだから、私は食事の際の作法に心得があった。子供の頃に左利きだった私を、母は礼法教室に通わせた。右利きにすることと礼法とを結びつけた母の発想を今となっては微笑ましく感じるが、生まれついた資質をそのまま自然に伸ばされていたらと思わないでもない。
冷や奴の上には、生姜と削りカツオと刻んだ大葉が乗っていた。大葉の香りが好きだ。豆腐に箸を入れていると、旅館の朝食の膳にあった胡麻豆腐を思い出した。
私は伏し目がちに、向き合って座る槙さんの箸さばきを見ていた。昨夜の特訓も虚しく、たちまち槙さん流に戻った持ち方で、巧みに柔らかな豆腐を口に運んでいる。お箸を正しく持つことと上手に使いこなすことは別なんだと思いながら、彼の長い指の動きを追った。
ごはんを少し残して食事を終えると、私は袋に箸を戻してお膳の上に置いた。胸の前で合掌して、ごちそうさまでしたと小さくつぶやく。立ち上がって店を出ると、通りを行き交う人が増えていた。カップルや酔っ払いをかわしながら、私は家路についた。
day:
1
week:
4
total:
1049
(since 09/may/2005 15:00) 閉じる ▲TOP