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    <title>10年後の既視感 by 上念省三</title>
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    <modified>2007-06-22T14:11:59Z</modified>
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 <title type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[うしろめたさをめぐる言葉の憂鬱]]></title>
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  <name>Jounen</name>
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 <modified>2007-06-22T14:11:59Z</modified>
 <issued>2007-06-22T23:11:59+09:00</issued>
 <content type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[　もうそれすら何年も前のことになるが、震災から（という時に、世間ではそれを「阪神・淡路大震災」のことだと注をつけなくてはいけなくなったことに驚き戸惑っている<br />
のだが）10年を迎える頃に、ネット上に「10年後の既視感～阪神大震災の記憶のためにII」と題した文章を書き続けていた。ちょうどそのころ、ＪＲ福知山線尼崎駅の事故に関する論評から「サバイバーズ・ギルト」という言葉に出会い、たいそう憂鬱な気持ちになった。<br />
　「生き残った者の罪障感」と訳されることが多いようだが、はっきり「罪悪感」と呼んだ方がよいのかも知れない。そもそもは第二次世界大戦下の強制収容所から「生き残った者」の心的危機を表わした言葉だということだった。強制収容所と震災を同質視することはできないと思いつつ、同じような罪悪感に、自分も含めた多くの人が苛まれていたことに思い至り、なおのこと憂鬱になった。<br />
　アーカイブが12年目を期して開いた「ボランティアという生き方」という催しは、そのタイトルの印象とは違って、三木まさよさん演奏のムビラという楽器を軸に、お互いの思いをシェアしあう、緩く暖かい集まりになって、よかった。しかしながら、多くの人の口から発されたのは、震災当時何もできなかったからとか、私にできることは何もなくてといったような、自分を責めたり貶めたりする言葉だった。中でも、震災の個人的な体験について言葉にするのはほとんど初めてだという水本有香さんの、ためらいがちで口ごもるような姿に、奇妙な痛々しさを感じたりした。当時ぼくと同じ魚崎にいたという彼女は、被災地の中心にいながら何もできなかったと言っておられたようだったが、中心にいたんだから、何もできるわけなかったじゃないかと思いつつ、ぼく自身も同じような「ギルト」を感じていたことを、思い出した、のだ。それら一連のことについてぼくが「うしろめたさ」と発言して、ある種のやりきれなさを洩らしたのだったか、季村さんからそれについて書けと連絡をいただいた。<br />
　われながら、罪障感とか罪悪感とかではなく、うしろめたさと呼んだのは、何だか適切なことだったように思う。常日頃、目の前にそびえ立っているたぐいの問題ではなくて、いつもそこにあるのにふと後ろから声をかけられて驚くような気がかり。とりあえず生きてしまっている以上、日常というものはあるのだから、四六時中そのことに囚われているわけにはいかないが、ふとした時に、自分はここにいるのに、どうしてあの人はいないのだろうと思ってしまうと、たまらない。まずもって、幸いにも死なずにすんだのに、何もうしろめたく思わなくてもいいじゃないか、というのが当たり前の取りなしだろう。じゃあ、どう思っていればいいのか。ギルトの対義語はといえば、イノセントということになろう。罪のない、無邪気な。さて、死ななくて、よかったね、と無邪気に喜ぶということが、震災の後のぼくたちに、継続的な態度として可能なのかどうか。<br />
  「よかったね」という言葉が出ないとしたら、よかったという、その言葉に収まりきらないから、言葉が出せないでいるのだろう。言葉に出してしまうと、自分が、自分の<br />
思いがその言葉に絡げられてしまうから、言葉を出したくない、とか、言葉を出すことで、あのことが自分の外側に出てしまう、とか。それが十年以上も続いていて、これまで言葉にできなかった、そういう人が、水本さんもそのようにか、おられたわけだ。<br />
　いっそ、出してしまいたかったのだろうか、ぼくは。震災について何ごとか言葉を出すことについてのためらい。うしろめたさ。お前など直後からずーっと書いてるじゃないかと、まあその通りなのだが、もう死んだ人は何も言葉を出せないのに、ぼくは生きていて言葉を出し、あろうことか、ちやほやされたりもしている。何をやっているのだろうか。<br />
　それでも、書かないと、自分が崩れてしまうような、そんな思いはあった。崩れてもいいじゃないかとも思うが、それでもぎりぎりのところで書く背を押すのは、結局は何かのためにするのではなくて、やむにやまれぬ自分からの情動なのだろう。「いまも地震と関わっているのは、被災者として十把一絡げにされそうになった、されてしまった、あのころ報道などによって醸された勢いに対する、うらみ、であると思っている」(「風化ということなど」から。初出「瓦版なまず」2号。1998年9月)と、木内寛子さんが「うらみ」という言葉を発見したのは、「兵庫県南部自身に出会って、書いておこうと思った。このようなことはめったにない」(同)、そのめったにない自分への驚きや訝しさについて、ぎりぎりまで考え抜いた末のことだったに違いない。<br />
　神なき時代だからだろうか。生きていることを神仏に感謝する、という態度は、あまりぼくたちになじみがない。誰かが死に、誰かは死ななかったことを、神の手に帰するのでなければ、どうするのか。おそらく、そのあたりからギルトが生じているのだろう。死んだ誰かに罪があって罰されたわけでないことはわかっている。自分が「善き人」だから死ななかったという覚えはない。さしたる根拠なく自分が当たりくじを、誰かが決定的なはずれくじを引いてしまったことを、どのように自他に説明、納得すればいいのか。本当は、震災では生き残った人より死んだ人の方が少ないのに、自分が不当に生きているような気がする。理由なく当たりくじを引いてしまった以上、きっちりとお返しをしなければいけない、という思いが、「被災者」をその後「ボランティア」に駆り立てた源なのかも知れない。罪を犯したのでもないのに、贖罪のような感情である。<br />
　特に地震という自然現象であるからには、悪意や加害者というものが存在しない。もちろん行政の街づくりの責任とか、いろいろなことを言う場合もあるが、地震が起きたこと自体への何かではありえない。どこにも持って行き場のない、怒りの対象を見つけられない被害である。こんなふうに、被害しかないような状態の中に置かれてしまったとき、比較的に被害がなかった者が、被害が大きかった者に対して、加害者であるかのような感覚に襲われ、そうであるかのように振舞うことが、何だか正しいことのように思われる。加害者づら、とは変な言葉だが、そう身を置くことが、より誠実であるように思われる。だからいっそう、自分の被害や苦しさは、言葉にできない。被災の中心地にいながら被害がなかったことの「うしろめたさ」とは、そのように生まれたのだったか。<br />
　十年以上経って、それらをめぐる言うに言われぬ言葉が内部にまだ存在し続け、出せないでいる、そういう人がおられたわけだ。しかしその内部に存在する何ものかは「実にならず腐ってしまう」のではなく、「自らの意思に関わらないところでも」、おのずから繋がっていく(引用は水本有香「「発酵」と「発酵したもの」から。「瓦版なまず<br />
」第2期4号。2007年1月)のではないかと、もういない木内さんの文章から水本さんは触発されて、するするとだったか、ようようにだったか、言葉になってきたのだったか。『ブルーベリーが＜詩＞に入らなかった』(2002年10月、ドット・ウィザード）という木内さんの本に挟まれた便箋の、木内さんの文字を見ながら、言葉が、いつまでも遅れて届くことができるということを改めて知らされ、思いが遠くへ飛ぶ。<br />
　人はいつも、まだ死んでいない。必ず誰かに後れている。木内さんの「うらみ」は、まだここらあたりに残っているのだろうか。木内さんは「書く。だが私たちは何を書い<br />
ているのだろう。結局、記憶を書いているのではないだろうか」とも書いている(「わたしたち、わたし自身へのメモ」から。初出「瓦版なまず」3号。1998年12月)。書くこ<br />
とは、言葉はいつも遅れている。遅れて届くということは、未来に向けて既に書かれていたということではないのですか？と木内さんに言えば、お笑いになるだろうか。その遅れが、数日であるか、数年であるか、十数年であっても数十年であっても、あるいは永遠でさえあっても、後ろを振り向くといつもそこにはあのことがあるような距離であるのかもしれない。早くから言葉を出してしまっているぼくなどは、言葉を出さない人の内部で「発酵」しつつある、その言葉以前の何ものかが詰まっているであろう鳩尾のあたりを覗いてみたい。遅れがいかにやわらかく思いを包み込む歳月の堆積であったか。<br />
　短い人生の中で、こんな大きな災害や戦争、収容所といった死と生の岐路に立たされるような経験は、滅多にあるまい。理由なく、生き残る、生き延びる、生きながらえる…ことになってしまった以上、どう考えてみても、その岐路において死ななかった者は、もう死んでしまった者への負い目を抱いて、うしろめたい思いで、その後の時を過ごすしかないのだろう。せめてもの、という願いや祈り、贖罪のような心映えから、ボランティアという方途を選ぶ人もいる。「ボランティアという生き方」に集まった多くの人が、ボランティアを誰か他の人のためであるより、自分自身のためになっていると、諦念からではなく、実感から来る謙虚な喜びから述べておられたのが、印象的であった。<br />
（2007年5月　震災・まちのアーカイブ「瓦版なまず」のために）]]></content>
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 <title type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[阪神大震災の記憶のために　Ⅱ（17　ゆるやかな忘却）]]></title>
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  <name>Jounen</name>
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 <modified>2006-07-20T07:28:51Z</modified>
 <issued>2006-07-20T16:28:51+09:00</issued>
 <content type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[　この連載の第1回目に、村上春樹の『ノルウェイの森』を引用して、忘却することについて考えた。2005年の2月に京都で上演された糾～あざない～という劇団の『とおとし』は、思い出すこと、思い出されることを主題とした物語だった。「とおとし」という言葉は、もちろん十年という意味だが、作・演出の芳崎洋子は、遠いとか、愛おしいとか、貴いとか、いろいろな意味を込めたのではなかったかと思われる。<br />
　あと数日で震災から十年になるというある場所、舞台中央のプールのような窪みがあって、どうもそこから地上界がのぞけるらしい。そう、ここは震災で命を失った者たちが集まっている場所のようだ。十年の眠りののちに、一週間だけ意識を得られることになっている彼女たちは、それぞれ自分が好きなことや、したかったことをしようとしているようだ。十年分のスナック菓子を食べるんだと、のべつまくなしに手と口を動かしている赤いシャツの女がそうだ。また、ダッシュの稽古を繰り返している黒いシャツのサンガとハルの兄妹や、神の教えを説く女、そういった人々の行き違いや諍いや憤懣は、およそ震災によって生の突然の中断を強いられた無念から来ていると言ってもいいだろう。<br />
　そんな中で、人々が共通して待ち、望み、ふっと和らいだ表情を見せるのは、舞台の上のほうにしつらえられたランプが点灯するときだ。どうも下界で誰かがその人を思い出すと、点灯するしくみになっているらしい。あれから十年という日を三日後に控えて、点く回数も増えてきているらしい。もちろん頻りに点いている者がいると思えば、いっこうに点くことなく、自ら諦めているように見える者もいる。<br />
  震災を大きなきっかけの一つとして芝居を始めたという芳崎は、十年という一つの節目となるこの作品で、なかなか生々しい形で震災を取り上げた。セリフの中には、人は生物として死ぬときと、忘れられるときの、二度死ぬのだというような有名な言葉も語られた。<br />
　さて、思い出すこと、忘れること、忘れないこと、思い出さなくなること、思い出そうとしても思い出せなくなること、忘れようとしても忘れられないこと……このように並べてみると、忘れるとか思い出すということが、実は本人の意思に関わらない、不随意なものだということがわかってくる。十年以上の歳月を経て、新聞で阪神・淡路大震災のことを取り上げられることが稀になったことに憤る人の多くは、忘れたくても忘れられないものを抱えてしまった人なのだろう。誤解を恐れずに正直に言うと、歳月というのは最も緩やかで優しい癒しの術なのだから、歳月とともに忘れていくというのは、最も自然で柔らかな惨事への対処の方法なのだと思う。自分のことを言えば、ぼくは兄や実父にまつわることを、忘れることはもちろんできていないし、自分の中でうまく御していることもできていないようだ。未だにというか、今まさに、自分ではどうしようもできない混乱のようなものが襲ってくるようで、コントロールできなくなることがある。<br />
　もちろん、こういう言い方はあまり適当ではないかも知れないが、わざと思い出すための装置というものもある。手近なところでいえば仏壇がそうだし、亡くなった者にゆかりの物を身につけておくこととか、毎週教会に行って祈りを捧げることもそうだろう。もちろん思い出すことに何らかの甘美な感覚が含まれているのであれば、それが喪失であろうが別離であろうが、かまわない。幸福な現在が過去を美化してくれているのかもしれないし、過去の甘やかな思い出が現在を癒してくれるだろう。<br />
　『とおとし』の登場人物たちは、自分が生きていた頃のことや、命を失った瞬間の無念を忘れることができず、その引きずり具合の濃淡がシャツの色に表われているらしい。劇の最後では、黒いシャツを着ていた妹ハルがもう一人の自分に再会する＝失っていたもう一つの自分を取り戻す。ハルは自分に起きたことを受け容れられず、半身はまだ漂っていたのだが、兄サンガの根気強く思い詰めたような情熱や「ありのまま見つめて受け止めるんや」という言葉に、うつむいて頑なな姿勢のままながらも、次第に変化していったようだった。<br />
　壊れにある自分自身を回復することはできるのか、というのは「風景が壊れている、そして私も…」を書いた私の大きなテーマであった。もちろんどんな人だって程度の差こそあれ、多少の壊れは秘めているだろうが、震災という特異な事態を経験して露わになってしまった自分自身の壊れや歪みや分裂や矛盾といったものを、自分の中で自分の本質として受け容れなければならないのか、それともそれは一時的なものに過ぎず、やがて傷が瘡蓋となってほとんど元に戻ってしまうように、何もなかったこととしてアイデンティティを維持して生き続けていくことができるのか。<br />
　11年と半年を経た今、たとえば私は、この文章を書くことでしか震災とつながっていない自分自身を自覚せざるを得ない。忘れていってしまうのだろうか。それは、あの日の揺れがおぼろになっていくということなのか、あの揺れに始まった昂揚した日々の記憶が薄れていくということなのか、あの揺れに象徴されるいくつもの惨劇が自分のものでなくなっていくことなのか。<br />
　いやそもそも、あの揺れを私はどの程度本当に、体験したのだろうか、という繰り返されてきた反問。いくつもの惨劇はどれも風聞に過ぎず、私はいつもその周囲をうろついていたに過ぎないのではなかったか。いつも私はそのように、事態の周囲で、傍観とまでは言わないまでも、ただただ見ているだけに過ぎない。そういう人生そのものへの振り返り。<br />
　自宅から魚崎駅への数分の道、震災によって生まれた空き地には、とうとうこの春にすべて新しい家が建った。10年目を迎えようとする時期に書き始めることにな<br />
ったこの文章が、20ヶ月を遅々としつつも続いてきたのは、本や舞台といういわば他人の耳目や思考を借りることで、複数の眼で考えることができ、私の中で複数の声が呼び交わす場となることができたからだろう。眼や声を与えてくれた、いくつもの舞台や本に、本当に感謝している。これからも、少しでも自分の中で緩やかさをもって時間が過ぎていくように、見たり聞いたりを続けていきたい。　<br />
]]></content>
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 <title type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[阪神大震災の記憶のために　Ⅱ (16 理不尽)]]></title>
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  <name>Jounen</name>
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 <modified>2006-02-28T00:24:27Z</modified>
 <issued>2006-02-28T09:24:27+09:00</issued>
 <content type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[　いよいよ書きあぐねている間に2006年の1月17日も過ぎていった。今年の1月17日、ぼくは自分でも何だかなー、と思いながら宝塚歌劇『ベルサイユのばら』の新人公演を観ていた。そりゃ別に何をしようがかまわない。なのに、一種の後ろめたさや迷いがあって、松方ホールに『レクイエム』でも聴きに行った方がいいんじゃないだろうかとか、それこそ歌舞音曲のたぐいは慎んだ方がいいのだろうかとか、そんな我ながらつまらないことを思いながら、劇場へ向かったのだった。<br />
　牽強付会と思われるかもしれないが、そして若い劇団員たちに特別な思いもなかっただろうが、彼女たちが懸命に演じる『ベルばら』を観ながら、夢や志を半ばにして倒れた者たちの思いを思っていた。革命の時代にあって、苦悩の後に市民の側に立って戦って落命したオスカル、時代相の変化を読めなかったという重大な過失はあっただろうが悲劇的に断頭台の露と消えたルイ16世と王妃マリー・アントワネット、それぞれがヒロイックに最期の瞬間を迎え、人間の尊さというものを自らも意識しながら、周囲の者にも印象づけながら倒れていった。では役名も与えられていない市民たちはどうだったろうか、そう思うと、震災であまりにも唐突に人生を中断させられた多くの人々のことに思いが及んだりもした。<br />
　実際のところ、この十年余、様々な悲惨な出来事があったが、何を観ても震災と比べたらどうだろうと思ってしまう。悲惨な出来事や事故、災害の報に接するたびに、震災の時はどうだっただろう、いやらしく言えば、震災とどっちが悲惨だろうと比べてみたりしているのかもしれない。もう少し神経質かつ中性的に言えば、人間が遭遇する悲惨さ、惨事というものについて、自分の中に一つの基線を引いてしまったということかもしれない。震災と比較対照することで、ある惨事の本質的な悲惨さを以前より容易に想像することができ、素早く感情移入することができるようになったような気がする。あらわれとしては、涙もろくなった、というだけのことかもしれないが。<br />
　さて、この数ヶ月の間に、劇団赤鬼は美内すずえ原案の作品「a_maze」(アメイズ）を新神戸オリエンタル劇場で上演し、それがどういう経緯で誰の目に留まったのか、大阪のフェスティバルホールで再演することになった。これまたどういう経緯でか無料公演となったその日、2000人以上のキャパをもつフェスティバルホールは、満席になった。ぼくも友人を連れて観に行ったが、観劇ということそのものが初めてだという友人が、そのパワーに感動してくれていた。<br />
　高校時代にみんなして何か大切なものを守ろうとしたこと、それによって喪失してしまった決定的な別のもの、主人公はそのことを数十年秘めながらも責め苛まれ、ややトリッキーな見せかけで自ら命を絶とうとする。ちょっとした行き違いや見込み違い、判断ミスはあったかもしれないが、決定的な過失や罪があったとは思えないことでも、失われてしまった者から突きつけられている、と自分では思ってしまっていること。その罪障感は、実に全く計算の合わない理不尽なものであることが多いようだ。<br />
　たとえば、一番近い例で思い出すのは、滋賀県で２人の幼稚園児が送迎当番の母親に殺害されてしまった事件で、第一発見者となってしまった男性が、もう少し早く通りがかっていたら、助かったかもしれないのに、と悔やんでいたというものだ。これは理不尽だ、理屈に合わないと誰もが思うだろう。しかしおそらく、惨事を目の当たりにしてしまった人が、その見てしまったものを自分の中でどうにか処理するためには、それを罪障感と共に抱え込むという作業が最も適切な方法なのではなかったか。起きてしまったそのことを見てしまったことを、もし自分がこうしていたら、ああしていたら、起きなかったのではなかったか、と仮定的過去の中に思いめぐらすことで、なんとかその事実の重みを軽減する。自分の壊れを回避するためには、それが最も適切な方法なのではなかったか。<br />
　ぼくたちは、どのように喪失を共有することができるのだろうか。劇団赤鬼の芝居が感動を呼ぶのは、ただのいわゆるお涙頂戴物語ではなく、それが喪失をめぐる物語であるからだ。そして、もちろんその底には、震災でのなんらかの喪失体験が深く流れているのだろう。失ったものは、もちろん取り戻すことはできない。それでは、どうすることならできるのか？　思い出すことならできる。そのことの大切さを思い起こさせてくれた、そんな芝居を少し前に京都で観たことを、思い出した。糾（あざない）という劇団の「とおとし」（作･演出＝芳﨑洋子。2004年2月、京都芸術センター）である。<br />
　]]></content>
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 <title type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[阪神大震災の記憶のために　Ⅱ (15 サバイバーズ・ギルト2)]]></title>
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  <name>Jounen</name>
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 <modified>2005-08-19T21:17:20Z</modified>
 <issued>2005-08-20T06:17:20+09:00</issued>
 <content type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[　すべては詮方ないことである。もしああしていたら、こうはならなかったのに…世界は悔恨で満ちている。リーダーがもし自分一人で飾り付けをしてたら自分一人が死んでた、神村と一緒に二人でやってたら、助けてやれたかもしれへん…彼がそのように自分を追い込むように考え詰めていくことが、前回の冒頭にふれたsurviver's guiltのおそらくは典型的な形なのだろう。<br />
　ボールがリーダーに向けて「神村を殺した」と、理不尽ともいえるような発言をしたことについては、そのこと自体の当否やボール本人の性格が問題にされるべきではなくて、そうとでも言わなければ抑えきれないものがボールの中に（おそらくは言葉にも意識にもしなくても他の団員にも）あったことが汲み取られるべきだ。そういう設定である。<br />
　身近な死に対しては、何か直接的な理由を求めないと納得がいかないという思いがある。行方不明という状態が、曖昧で宙ぶらりんの生殺しのようであると同様、死因不明ということも通常は考えられない。「急性心不全」などという、原因ともいえないトートロジーのような見立てでも、私たちはさほど抵抗なく受け容れるわけだから。人は誰かの死の原因を特定させる必要があると考えているものなのだ。<br />
　戦争と災害の最も大きな違いは、加害者というものの存在にあると言っていいだろう。戦争被害者にとって、加害者とは敵国である。しかし実際はそれほどシンプルな話ではない。戦後の日本では、太平洋戦争は「間違った戦争」であったという認識が主流となっているようだが（2005年8月毎日新聞世論調査）、では日本にそのような道を歩ませたとされている「戦犯」の政治家たちやその精神的支柱（以上の何ものか）であった天皇が「加害者」であったという明確な責任論はあまり聞くことがないのは、本当は不思議なことだ。もちろん、敵国であったはずのアメリカ合州国が戦後の日本にとって最大の友好国となったというねじれが起きてしまっているために、敵国を加害者として告発しにくいという事態も起きている。戦後の多くの戦争と同様、戦後の日本にとってアメリカは正義の救世主であったわけで、だから中途半端な形でこの国体（？）が続いている。だから、……そのように私たちのまわりでは、戦争で身近な人が死んだり大きな傷病を得てしまったことも含めて、どんどんいろんなことが不明確になっている。何かしら大きな、大きすぎる事態について、被害は明確に出ているのに、加害は不明確であるということが、不思議ではないこととして受け止められている。……私はあまり政治や歴史といった大きな話をしたくないのだが、被害や加害のことを考えるには、数十年という時間が経った歴史的な事柄で考えた方が、そのねじれがわかりやすいような気がして、少し脇道にそれてしまった。<br />
　地震は自然災害だから加害者はいないが、震災と呼ばれる事態ではどうかということは、以前にもやや異なる形で問われていたような気がする。もちろんこれも複雑で多重的であるために、特定することはできない。消防車が来るのが遅かったから誰かが死んだからといって、遅れてやってきた消防車の消防署員を非難するのはお門違いだ。そう言うのは簡単だ。確かにお門違いではあるが、なのに「なんでもっと早う来てくれへんかったんや」「なんでホースから水が出えへんのや」と掻き口説き泣き崩れる人がいたとして、誰もそれを理不尽だと責めることはできない。その本当の責任の淵源をたずねようとして、消防や防火の制度や設備、行政の取組み、そして法律や市や県や国やらと問いつめていくと、どんどんその加害責任が希薄化していって、「一億総○○」化していく。そうなると結局、地震も震災も同じように誰のせいでもなく、運命として従容と受け容れなさいと言う他はない。<br />
　さて、ボールという血の気の多い青年にとって、受け容れがたかったことはたくさんある。友だちが死んだ。その事態を招いたといえなくもないもう一人の友だちは、すべてを、というのは他者も自己もすべて、放棄してしまったように思える。ボールは、そこで「違うだろ？」と言いたかったのではないか。様々な状況を勘案すれば透明化し加害関係が無化していくしかない友だちの死というものを、どうにかして自分の手許に繋ぎ止めておくためには、リーダーを加害関係の当事者として留め置いて、そのことを自分も共に引き受けて、応援団のみんなで抱きとめ包み込んでいくしかないと思ったのではなかったか。なのにリーダーは、加害を自分一人に引き受けて去って行く。そのことで宙づりにされたのは、自分と友だちの死との関係性であり、自分と友だちの加害性との関わりであり、つまりは彼にとっての、世界だったのだ。ボールは、surviver's guiltさえも共有したかった。神村の喪失という空白を、みんなで抱えていきたかったのに、リーダーは一人で背負って、他者の介入をゆるさない。彼（ら）は神村を失い、リーダーを失い、神村の喪失を共有することからも隔てられる。そのことへの悲鳴が屈折して、逆にリーダーへの攻撃という形で噴出したのではなかったか。<br />
]]></content>
 <id>http://machi.monokatari.jp/jounen:99:2610</id>
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 <title type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[阪神大震災の記憶のために　Ⅱ (14 サバイバーズ・ギルト1)]]></title>
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  <name>Jounen</name>
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 <modified>2005-06-18T14:57:53Z</modified>
 <issued>2005-06-18T23:57:53+09:00</issued>
 <content type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[　実兄が行方不明になったということについては、私の周りでは事実上自殺であると見なされていたが、誰もそうは言わない、そのようなことであった。身内に自殺されるというのは、容易に想像がつくだろうが、けっこう痛い。実父にとっては直接的に身体に響き、死に直結したのだろうし、私は精神のバランスを崩すことになった。他の家族にとってどのような現れがあったのか、私は直接知らないし、詮索する機会も気もない。家族の一人に意志的に死なれてしまい、残る家族は、まさに生き残っている者であり、何かしてあげられることはなかったのだろうか、自分が彼に対してなにか悪かったのだろうかと、思いをめぐらすことになる。<br />
　ＪＲ尼崎駅の脱線事故以後しばらくして、surviver's guiltという言葉が使われるようになった。「生き残った者の罪障感」。この言葉を初めて新聞で目にしたとき、なんと残酷な言葉を、無神経に公にするのかと、腹立たしく、恐ろしくさえなった。大きな事故や事件の後に新しい言葉が現れるのはよくあることだろう。震災の後にライフラインという言葉が新語として流布し、しばらくしてＰＴＳＤというおそらくは心理学か精神医学の専門用語が人口に膾炙した。ＰＴＳＤが、その状態になってしまった人のその状態を淡々と説明する言葉であるのに対し、このsurviver's guiltには、どこか人を責めるようなニュアンスが潜んでいるような気がしてならない。これもまた専門用語であり、その語を翻訳した言葉が｢生き残ったものの罪障感｣なのだろうが、思いや行動のパターンには、言葉にすることによって定着化し再現されることもあるのだから、この言葉を目にした途端に、それまで漠然としていた思いを罪障感として意識し、定着してしまった震災や事故の被災者も数多くいたことだろう。<br />
　６月になって、劇団赤鬼を主宰する吉村シュークリームが企画・作・演出の『そして、神の戸びらはひらく』を観た（11～12日。神戸アートビレッジセンター）。大学の応援団の仲間たち、震災の時は４回生だった。あれから10年、一人の結婚式ということで、かつて部室があった場所に集まることになっている。続々と集まってくる中、最初に姿を見せていた一人の様子がおかしい。花束を抱えていたかと思うと、後で集まった仲間から隠れている。それがリーダー（山口貴史）、団長だった男だ。<br />
　２時間に及ぶ劇は、ほとんど震災のことにふれることなく、応援団の男子学生たちのばか騒ぎや、リーダーとともみ（山口弘美）の言い出しかねている焦れったい恋物語を中心に、1994年の年末から、ベタな笑いを交えて楽しく進んでいく。もちろん情宣などを通じて、震災をテーマにした作品であることを知っているから、リーダーが抱えていた花束が墓参かそれに類したことのために使われるであろうこと、十年後の場面には出てくるが十年前の場面には出てこない男が一人いることなどを通じて、この劇が震災をふまえていることがわかる。その程度にしかあらわれない、あらわさないところが、吉村の企図の大きなポイントだったと思われる。<br />
　今は東京でテレビ局のディレクターをやっているボール（岡本拓朗）が一人、リーダーに苛つき、白い眼を向けている。「よく、のこのこと来れたもんだ」「また逃げんのか」とか、果ては「神村を殺したおまえが…」という不穏な発言まで出て、ある謎が明確に提示されることになる。<br />
　神村（行澤孝）は応援団の大太鼓担当。毛虫を愛でていて、いつもポケットに何匹か潜ませている。べーやん（菊地秀之）といういかにも気が弱そうでいつもカメラを持ち歩いている部員（記録担当？）に毛虫を投げつけては失神させたりする、パックみたいないたずら者。でも（だから？）時々ロマンチックな詩のような言葉を呟く。部室存続運動が受け入れられなかったことがわかった大晦日の夜、「俺は、この街が、好きだ。…山、海、全部。風ようたえ、海よ叫べ。100万光年の夜景よ、今夜もロックな光を解き放て」と叫ぶ。消滅する部室に「覚えとったら、消えへんのじゃ」とエールを送る。そういう男である。<br />
　仲間たちの企みもあって、リーダーとともみは晴れて公認の仲になる。1995年1月16日、ともみの誕生日を翌日に控えて、リーダーはその演出や飾り付けを神村に頼んで、就職活動のために夜行バスで東京（？）に向かう、次の日の夕方には戻ってきて、神村が趣向を凝らしたともみのバースデイを部員みんなで祝おう、という段取りであった。「友だちの彼女のために、こんなに必死になる奴おらんよな」などと言いながら、大太鼓にモールをつけたり、演出を熱くリーダーに説明したりする神村。もうさすがに誰もわかっている。長い暗転の中、ラジオの切れ切れのノイズ音が流れた後、ともみがリーダーに電話口で「神村君が…」と絶句、周りで部員みんな地面をかきむしるように泣いている。スーツ姿のリーダーは、「神村ーっ」と２度叫ぶ。<br />
　そして次のシーンでリーダーは、「いろいろ考えたんやけど、援団やめることにした」と言う。「ともみとは？」「別れ話はもう終わってる」「大学までやめることないやん」「もうここへは戻ってきやへん」「もう一回かんがえられへんかなぁ」というやりとりがあるが、要するにリーダーは、すべてを自分の手で中断させてしまう。]]></content>
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 <title type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[阪神大震災の記憶のために　Ⅱ (13　分かる/分からない)]]></title>
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  <name>Jounen</name>
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 <modified>2005-05-03T05:08:37Z</modified>
 <issued>2005-05-03T14:08:37+09:00</issued>
 <content type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[　細見和之が提起したのは、一見誠実な「分かる」「分からない」の二分法的考え方が、実のところ回避的態度に過ぎないのではないかということである。この考えからスタートすると、私が多くの字数をかけて考えてきた「当事者であるかないか」ということも、同様の回避へ結果するものであることに容易に思いが及ぶ。現実に当時の状況を思い浮かべれば、たとえばテントを張って粕汁を振る舞っているボランティアがいて、私たちは誘われたが、そんなに被害はなかったのだからと辞退しようとしたところ「どっちでもええから、もろといて」と言われるような状況でもあったわけだし。<br />
　その粕汁のおいしさは、今でもその季節になると話にのぼるほどのものだったのだが、もちろん逆に必要以上の排除や選別が行われた場面も、当然存在していたはずだ。ここで一つ前に戻って、私が被災者であるかどうかを考えてみようか。<br />
　「私は、被災者です」と言うことについて、私は何かしら留保する必要があるように思っている。このこと自体が私の「事態」への態度の煮え切らなさを物語っている。四の五の言わずに飛び込んでしまえばいいものを…と。いずれにせよ「風景」で私が壊れを意識したところからずっと続いている宙ぶらりんな躊躇であるといえるだろう。<br />
　繰り返しになるが、自然現象としての地震に遭ったことと、その自分を被災したと認識することとの間には、かなりの懸隔がある。私は、どうだったら、自分を被災者と規定することができただろうか。家が全壊か半壊かしていたら、か。揺れに驚いて上体を起こしたとたん、枕にテレビが落ちてきたという養父の、その上体を起こすのが数瞬遅かったら、か。あるいはたまたま早く家を出ていて、倒れたブロック塀の下敷きになっていたら、か（実際に、もし大学入試センター試験の当日だったとしたら、集合時間に間に合うために、ちょうど5時46分にはいつも通る路地のような細道にいたわけで、もしそうだったら、落命していても不思議ではなかった）。で、私が死んでいたら、その時、私は、被災者ですらないのではないか、どうなのか。<br />
　細見の著書を読んでいて、あまり無責任に私が言及することは避けるべきだと思いつつ、どうしても、では生き残った私が阪神大震災について何らかの言葉を重ねていることは、妥当なのかどうか、ということに思いが及んでしまう。<br />
　それは、ジョルジョ・アガンベンの『アウシュヴィッツの残りのもの－アルシーヴと証人』に引用されているプリモ・レーヴィによる次のようなくだりである。……くり返し言うが、わたしたち、生き残って証言する者は、本当の証人ではない。（……）わたしたち、生き残った者は、わずかな少数者であるだけでなく、例外的な少数者である。……（レーヴィ『溺れるものと救われるもの』の一節。細見「思考とアウシュヴィッツ」から。前掲書所収）<br />
　もちろん神戸では、そういう言い方さえ無意味で無神経に思えるほど、アウシュヴィッツとは全く異なって、生き残った者の方が圧倒的に多かった。あえてこんな言い方をするが、数千人「しか」死ななかった。いろいろなことが決定的に異なっている。それでも、ややシニカルな響きを込めて「いちばんの被災者は死んでしまった人だ」といった類の言葉はたびたび聞かれ、自分に重ねても思い起こしたりした。細見の考察をやや表面的かつ平板に解釈して「本当に証言する資格をもつのは、死んでしまった者だけである」というような排除的な考えに及ぶのはたやすいが、シニカルなアフォリズムとしての面白さは別として、そのような言い方に最終的に違和を覚えるのは、被災の度合いに等級をつけるようなことに対する反発である。<br />
　私がどうだったら被災者といえただろうかなどと考えることは、被害の度合いを測ることでしかない。被災者であるかないかという回答に微妙なグラデーションを施すだけのことで、しかもそのどこかに、たとえば「全壊」「半壊」「一部損壊」のような区切りをつけて分類する。そのようなことが、無意味である以上に、攻撃的な意味で間違っていること、にもかかわらずそうしなければこの世の中は進んでいかないことのダブルバインドを、私たちは一つの態度として学んできたつもりだった。<br />
  そのことと、私が私自身のことを被災者と同定できないこととの間には、やはりさほどの被害を受けずに生き残っていることでの引け目のような思いがあるな、ということに思いが戻る。戦禍でも大事故でも、生きて祝福されるべき者のほうに、かえって負い目、引け目のようなものが残ってしまうという不思議な現象、近年それはＰＴＳＤ（心的外傷後ストレス障害）という言葉で括られたりしているようだが、それとは別に私にとってその感覚は、十代の頃から親しいものだったように思える。<br />
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 <title type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[阪神大震災の記憶のために　Ⅱ (12　共に苦しむ／共に歩く)]]></title>
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  <name>Jounen</name>
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 <modified>2005-04-09T14:34:16Z</modified>
 <issued>2005-04-09T23:34:16+09:00</issued>
 <content type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[　「＋ｐｌｕｓ」のメンバーは、私の文章を読み、声に出して読み、歩くという演技をすることによって、私の文章に自身をかぶせるようにすることができたのかもしれない。他の受講者にとっても、私の文章を読み、友人だったりただ同じ授業を受けているだけの、時空を共にしている人たちがこれに関わって何かをしていることで、ことさらに親近感を持ったのではなかったか。<br />
　さて、当事者という言葉は、関係者というよりずいぶん強い。今さらながらあえてここでの文脈に沿って定義すれば、まず前提として、その出来事と自分が生きていくことが、どれだけ深く強く交差するかということがあるように思う。その上で、出来事とそれに関わる人々を歴史上の一行としてや統計的に処理することなく、その出来事の具体性そのものによって、あくまで個別性として対処しようとする者のことをいうのではないか。<br />
　では、ある出来事を実際に体験しなかった者が、どのようにしてその当事者になりうるのか。体験しなかったということは、一つの事実として揺らぐことがない。しかし、体験しなかった者が、いかにその出来事に深く関わることができるかという例は、おそらく枚挙にいとまがない。たとえば、前にふれた「someday, for somebody　いつかの、だれかに　阪神大震災・記憶の＜分有＞のためのミュージアム構想｜展　2005　冬　神戸」にも深く関わっていた細見和之の『言葉と記憶』(2005年1月、岩波書店）を見てみようか。<br />
　『言葉と記憶』は、ランズマンの「ショアー」、ビョン・ヨンジュの「ナヌムの家」という２つのドキュメンタリー映画の上映会に細見が深く関わったことから、それぞれが扱っているナチによる大量虐殺（「ショアー」とはヘブライ語でホロコーストの意）、日本軍の従軍慰安婦というほぼ同時代に起きた「出来事」（という言葉が的確かどうか、ひじょうに不安だ）そのものに深く関わることになる経緯と、その関わり方を共時的に叙述している。<br />
　私が率直に感動するのは、細見が様々な「出来事」に関わっていく姿勢の、愚直なまでのまっすぐさである。もちろんこの書物には、私の知らない多くのことが書かれていて、その一つ一つの重さに天を仰ぎつつページをめくることになるのだが、それとは別にか同じにか、細見の姿勢、手つき、がむしゃらに頭から突っ込んでいくようなさまがまざまざと見えてくる。ある「出来事」を知ってしまったり多少なりとも関わってしまった以上、そこに実存的に自己を投企しなければならないという、使命感にも近い強い実存的な自己をかけた関わり方である。<br />
　細見の姿勢を如実に表わしているのではないかという考え方を一つ紹介しておきたい。同書所収の「『ナヌムの家』を理解するひとつの試み－「分かる」ということをめぐって」という文章の中での考察である。「はたしてわれわれに『従軍慰安婦』であることを強いられたハルモニたちの「痛み」が分かるだろうか」というところから始まって、「分かる」「分からない」という言葉を耳にするが、「そんな二分法でぼくらはいったい現実を生きているのだろうか」と思い返してしまうというのだ。ある「出来事」に対して、理解（それも表層的な意味で）できるかどうかということをまず問うような態度についての痛烈な問いかけである。「私には分からない」という言い方は「一見誠実」なようであるが、「根本において一種の倒錯的反応であり、「理解」という事態を物象化していると思う」と述べている。それは、「「あのハルモニたちの痛みは分からない」と言い切れるほど、ぼくらは強固な一枚岩の「自己」などではないのだ」という具体的な言葉と照らし合わせると、いっそう腑に落ちる。<br />
　ある「出来事」を前にして私たちに求められている態度は、「分かる」ことではない。わかるかわからないかを自分で判断した後に、わかったからこうしよう、わからないからしないでおこう、というような選択を行うことを求められているわけではない。<br />
　共にするか否か。共に苦しむ、共に痛む、共に喜ぶ、共に歩く。当事者とは、法律用語や厳密な定義はさておき、そういう者ではないか。<br />
  「＋ｐｌｕｓ」のメンバーは、私の文章を通して、震災の街を歩き、揺れた（というのは、細い机の上を歩くことで実際に揺れてもいたのだが）。そこでもまた「わかったつもりでいたのでしょう」という理解について問いかける述懐は見られたが、そんな躊躇からスタートしながらも、実際に歩き始めることを選んだのは、あるいは若さゆえの賢明さだったといえるだろう。そういえば私もこの「風景」という文章を書くに当たって、冒頭にこの街を歩く自分の姿を据えることで、やっとまとめることができたのだった。神戸の街を見たことがないメンバーがほとんどだったろうが、心情的リハーサルとしては、私程度の痛みは胸に抱えて、神戸のように震災によって傷ついた街を歩き回ったことにはなっただろう。それが、当事者ということだったのだと思う。<br />
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 <title type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[阪神大震災の記憶のために　Ⅱ (11　肉声)]]></title>
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  <name>Jounen</name>
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 <modified>2005-04-04T12:19:38Z</modified>
 <issued>2005-04-04T21:19:38+09:00</issued>
 <content type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[　このパフォーマンスを案内する金井さんの文章は、「風景」について「当事者性とは何かについて、静かに深く問い直すこの作品」と紹介している。ここにも、「当事者性」という言葉が使われた。さて、今度はもう少し具体的に問うことができる。当時被災地に住んでいなかった１２、３歳の少年少女たちが、大学も卒業間近になった国語教育演習の時間に震災に関する文章を読まされ、震災への当事者性を問うている、その当事者性とは何か、と。<br />
　パフォーマンスとも題されているだけあって、ただ椅子に座って淡々と読むのではなく、本を持った立ち稽古のように、演劇的に行われた。何より素晴らしいと思ったのは、多くが並べられた机の上や床の上を歩きながら読まれたことだ。それによって、読むこと自体にも一定ではないテンポが生まれ、複雑なリズムが刻まれることとなった。おそらくは、「風景」冒頭で私が家の近くで迷子になったという記述をもとに、この文章全体を歩行という運動と並行されるものとして解釈してくれたのだろう。それは声に出して読むということが、強く身体性を必要とするものであるということにも合致している。歩きながら、またあるときは止まったり座ったりして、ゆっくりと、また速く読まれるその文章は、私の文章ではなく、今ここにいる私たちみんなの文章であるように思われた、などと言うと幸福すぎるだろうか。<br />
　これは私が書いた文章であるはずだが、今ここで語っているのは私ではなく、では今ここでこれを語っているのは一体誰なのだろう…という惑乱である。主体が溶け出していくような感覚さえおぼえたのだが、それは文体を使い分けることで主体のありようを揺らしたこの文章の趣旨から、誠に正鵠を得た表現方法だったと言っていいだろう。私はこの文章を他者に開かれたものではないように思い込んでいたが、そもそも季村さんから「別の地域の、他の人にどのように伝えるのか」というテーマのもとに「文体はおおいに問題になってきます」という課題を与えられて、自分の中の二者が呼び交わすような文体を選んだ以上、自分以外の他者がここに入り込んでくることは容易であることは、自明のことであったのではないか。<br />
　様々な声、学生たちのそれは、朗読や演技のためということで加工された度合いも少なく、彼らの肉声に近い声であるように思われた。少なくとも、それぞれの声の違いは生々しく伝わってくるものだった。複数の声で読まれることによって、文章の質感やテンポの違いが思いがけず現われたり、語り手が変わるたびに少し途切れてブツブツした感じを受けたりする、そのザラつきや、思いがけないところからスッと声が出てきたりする驚きを楽しむこともできた。それはパフォーマンスとしてのユニット「＋ｐｌｕｓ」の独創性であって、私自身、かなり客観的に楽しめたということだ。<br />
　もちろん私が書いた文章であるわけだから、その調子やトーンについて私は私なりに思い入れもあるわけだが、ある種の違和を含め、ひじょうに新鮮に響いた。自分が書いた文章を他人が読むのを聞くのは初めてのことで、それによって気づかされただろうこともいくつかある。まず全体的に、この文章が自分で思っていたよりもずっと自虐的で自己憐憫的で、かなり感傷的であることに初めて気づかされた。二つの文体を交互に使うことで、かなり客観的に淡々と綴っていったように思っていたのだが、他人の声で聞かされると、「何もそこまで自分を追い詰めなくてもいいのに…」と思うような文章であった。いたたまれないと言うよりは、わがことながら傷ましく思った。<br />
  その傷ましさは、震災からまだ2年という当時の「気分」によるところが大きかったのかもしれない。この文章を書いたときから8年、震災から10年たって、現在の自分の状態と、当時の状態との間に、傷ましさの落差が生じている。また、それを他者の声で聞かされることで、自分の状態との間に落差が生じる。その二重の（あるいはそれ以上の）落差によって、この文章は私の文章であってそうでないような、不思議な存在となっていた。<br />
　さて、声というものについては、肉声という言葉が肉体という言葉に近いものとしてあるように、ひじょうに生理的なものであると認識される。たとえば私がバレエのように洗練されメソッドとしてもかなり定型化された身体を見るときに、技術の洗練が一定以上であれば、そこで興味が及ぶのは、その定型をどれだけはみ出る生々しい肉体が見えてくるかということだ。ダンサーはそれを極力出さないように錬磨し続けることだろう。しかしそれが人の身体の動きである以上、機械ではないのだから、どこかである種の揺れ、過剰などが肉々しく（というのはおかしな言葉だが)出てくるのではないか。それが最終的にそのダンサーの個性として注視される。声というものの肉々しさも、それと同じようにはみ出てくる。「＋ｐｌｕｓ」の学生たちの声や歩行が様々な揺れを持っていたことは、それ自体メンバーが個々に人間という存在であることの多様な生々しさであることを語っていた。もし私の文章を通じて、メンバー個々の生々しさが震災という出来事に重なっていったのだとしたら、それが当事者性そのものを開く一つの鍵となりえたのではなかったか。<br />
]]></content>
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 <title type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[阪神大震災の記憶のために　Ⅱ (10　国語教育演習)]]></title>
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  <name>Jounen</name>
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 <modified>2005-03-26T12:33:27Z</modified>
 <issued>2005-03-26T21:33:27+09:00</issued>
 <content type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[　声に出して読めないということは、飲み込めない、からだの中に入れることができないということだったのだろう。声に出して読むということは、のどや口や舌だけのことではなく、まさに身体の全体が関わる格闘のようなもので、そういう意味で最近時々耳にする「詩のボクシング」というものは、その成果やできばえは別として、概念としては正しい形容なのかもしれないとも思う。言霊という考え方もあるように、言葉を口にする、声に出すということは、自分の霊魂が出たり、何者かが自分を依り代にしたりと、大変な力を必要とすることなのだ。「夏の衣」を目の前にして、私には到底そんな力がないことを、意外ではなかったとはいえ、改めて認識させられてしまったのだった。<br />
　さて、次の週、今度は私が読まれる番となった。「風景」を教科書に採用してくれた金井景子さんが担当される「国語教育演習Ｂ」の授業で、受講生の有志が私の文章を朗読パフォーマンスとして取り上げてくれるという。私は休みをとって早稲田大学へ向かった。<br />
　実はあの文章が朗読されるということについては、驚きや戸惑いがあった。教科書掲載が決まった頃から、私が演劇をよく観ているということもあって、二つの文体が交互に呼び交わすようなこの文章を「演劇的」であるとして、教室で複数のグループに読ませてみてはどうだろうという人がいて、そんなことは全く想定していなかった私はたびたび戸惑った。遠く淵源をたずねれば同じものなのかもしれないが、私はこの文章を戯曲のようにではなく、詩、散文詩のように思って書いていた。他でも書いたが、文章の調子を整えるために何度も呟くように声に出してみてはいたが、これが朗読されるにふさわしい文章であるなどと思ったことはなかった。<br />
　自分の文章が朗読にふさわしいかどうかなど、ふつうは考えないだろうから、私がそのようなことに考え及ばなかったことは不思議ではないが、あえて理由を探せば、この文章は被災地以外の人に読まれることを受け身に想定しこそすれ、私から被災地以外の人に呼びかけるという積極的な志向を持っていなかったことによるのではなかったろうか。外部との関わりを持たず、ただ内部であれこれうじうじと思いめぐらしているようなこの文章が、なぜ声に出して読まれる必要があるのか、よくわからなかったわけだ。<br />
　この文章が声に出すべきものであるということについては、金井景子さんが過分の褒め言葉をもって説明してくれている。「読んで弾み、耳に快よく響く、いわば従来の朗読に適したと思われる教材とは、対極に位置しながら、どうしてもテクストを声に出すことを通じて、耳で見、目で聴いてほしいと思う作品がある。（中略）家の近所で道に迷ったことから始まる、十七のパラグラフは、「だ・である体」と「です・ます体」という二つの文末表現を交互に使う、揺れのある文章で書かれている。とはいえ、それは、「揺れていること」――もっといえば、主体を前のように定立しえない（厳密にいえば、し得ると信じ得なくなった）ほどに「壊れている」自己を周到に確かめ、そこから出発しようとする決意の表象である」と紹介するものである（「耳で読む／目で聴くためのレッスン～揺れる／壊れることから始める」http://www.f.waseda.jp/kanaike/teigen/mimiyomu_mekiku03.htm）。この文章の文体の揺れ自体を「壊れ」の表象であると読みとるだけでなく、「壊れ」を意識して確認するという自己の発見を見てとろう、と非常に高く評価してくれたものだ。その上で、この「揺れ」や「壊れ」という身体感覚に、声に出すという身体化の作業を通じて同調することを重要であるとしてくれているわけで、ただただありがたい。<br />
　さて、早稲田の16号館305教室は、普段どんな風に使われているのか想像もつかないほど、細長い教室であるように思われた。さあ、100人近い学生が集まってくれたのだろうか、そのすべての学生が私のあの文章を、しかも金井さんの解釈を経た上で読んでくれているということに、もう一生こんなことはないだろうなと、なんとも不思議で心うわつくような気がしてしまった。細めの長机が何脚も、Ｔ字にだったか八つ橋のように並べられ、三方を囲むように、もう学生は座っていた。金井さんの簡単な導入の中で、私が印象に残っているのは、朗読パフォーマンスをしてくれる学生は自発的にやりたいと言い出してくれたということ、ほとんどの受講生にとってこの日のこの授業が大学最後の授業だったということ、出演者以外に机を運んだり並べたりという裏方をやってくれた学生を金井さんが紹介してくれたこと。<br />
　この朗読会のために、彼らはチラシを作ってくれていた。７人のメンバーの名前が書かれ、そのユニットは「＋ｐｌｕｓ」と名づけられていた。震災当時１２、３歳だった彼らがそのチラシに「なぜ…　どうして…／私は知らない…　現実を…／わかったつもりでいたのでしょうか／遠すぎたのかもしれません／見ていたのに見えていなかったのかもしれません／／あの日を…　あの時を…。」と書き付けていた。彼らはおそらく、当時まだ幼かったこと、距離的に遠かったことから、「知らない」と言うのだろう。しかし、この言葉を目にして私は、現在この言葉を紡ぎ出した学生たちと私の間に、どれほどの違いがあるのか、よく見定めることができなかった。私は知っていたのか、現実を。私には遠すぎたのではなかったか。私は見ていたのに見えていなかったのではなかったか。<br />
]]></content>
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 <title type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[阪神大震災の記憶のために　Ⅱ (九　朗らかに読めないということ)]]></title>
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  <name>Jounen</name>
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 <modified>2005-03-06T12:45:18Z</modified>
 <issued>2005-03-06T21:45:18+09:00</issued>
 <content type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[　私はここで季村の詩作品を取り上げながら、そこに言葉で取り上げられている事態そのものに言及することが中心的になってしまう、そのような扱いに極端に陥らないように気をつけたつもりだ。では、私がこの文章を書き続けていく上で、季村の詩作品でなく、その事態を伝える新聞記事や当事者の手記を引用していたら、どうだったろうか。私が詩作品を引用したのはなぜか。　季村はある事態を作品の中に取り上げるに当たって、他のもの、それは小説であったり、自分自身のものと思われる日常であったり、そういう別の時間や空間を重ね合わせている。それはおそらく、と季村のその時の手つきを推測するよりむしろ、もし私自身が同じ方法で詩を書いたとしたのならどのような理由だったろうかと想像すると、その事態と私自身の間の遠さ（にせよ近さにせよ）を指尺で測り、指先で一つ一つ埋め潰すような作業のために必要とした手がかりだったと思えるのだ。そして、それと同じことを、私はここで必要としている。私の十年を語るに当たって、極力他の多くの人の言葉を借りようというのは、それと同じ理由からだ。思い出すためにも、考え進めるためにも、反照する鏡のような存在が必要であり、既に二重化された言葉、それ自体の中に響き合う反照を内包する言葉を借りることで、いっそう多くの重層的な言葉が成立することを望んだのだ。<br />
　絵画であれ演劇であれ文芸であれ、震災に関する表現は、一次的には震災を取り扱っていることで表現としての評価が保留ないし一時停止されてしまった。具体的なものを指すわけではないが、たとえば震災を歌った合唱曲であるということで、とりあえず新聞に載ったり、ＮＨＫ神戸で放映されたりする。表現されるものの重みが、表現そのものを遥かに上回って論じられ、尊重され、そのことを表現の中に取り込もうとすること自体が評価される。私たちの表現や営みは、いつもそのような陥穽に落ち込む危機をはらんできている。<br />
　それはマスコミの扱いだけでなく、私たちの受け止め方もそうなのだ。たとえば、2005年２月下旬に神戸アートビレッジセンターで上演されたIQ5000という劇団の「TWO DASH」は、震災直後、戦争直後、そして義経や弁慶の活躍する平安末期を併走させる面白い発想の作品だったが、作・演出の腹筋善之介が開演前に客席に向かって、自身の震災体験を語ったその内容が頭にこびりついてなかなか離れなかったりもしたのだ。それはさほど悲惨な体験というのではなかったが、生身の彼が震災当時神戸にいて、あの瞬間を共有したということが紹介されると、それだけでなんだか生まれる親近感というものがある。そのことで、彼には震災のことをテーマに作品を創る「資格」のようなものがあるという気にさせられてしまう。<br />
　当事者性が問われることを問いたいのは、このようなことだ。当事者だから許される表現があるとか、体験していない者に○○する資格はないだとか、そのような考え方は、私たちの想像力というものをあまりに低く見ているのではないか。<br />
　当事者でなければ、あるテーマを扱うことはできないというのでは、あらゆる表現は成立しない。たとえば燐光群という劇団があって、いつも死刑囚の冤罪についてとかひきこもりのこととか、天皇制とか、重いテーマばかり扱ってひじょうに充実した中身の濃い舞台を実現するのだが、主宰者である坂手洋二がそれらすべての直接の当事者であるわけがない。しかし彼は、想像力や、もしかしたら幻覚や憑依によってでも、その当事者以上の迫真性をもってそれらの重いテーマに立ち向かっていく。彼にとっては、テーマを選ぶこと自体がひじょうに重要な課題であるはずで、その作品は事態の重みに潰されることのない完成度を獲得し、独立した価値をもつことができている。説得力のあるテーマがあり、それをいっそう普遍的なものに昇華させる。あえて段階的に言えば、表現とは、そのようなものであるはずだ。<br />
　当事者はその事態に対して当事者である以上、事態やその事態をめぐる事態を客観的に見ることはできない。すると表現は一人よがりで自己満足的なものに終わり、他者への回路を持たないものとなってしまうおそれがあるばかりか、表現としてあらわれ出てこないおそれさえある。だから季村はその作品の中に他者を取り込んでいこうとしたのだろう。それによって表現は複数の主題や主語を持ったりして難解となるかもしれないが、それを覚悟した上で表現の普遍性と厳密性を保とうとしたのではないだろうか。<br />
　彼が『生者と死者のほとり』の執筆を呼びかけるメモの中に、被災地以外に住む市井の人にわかる言葉で書こう、という言葉があったことを思い出す。もちろんそれがたいそう難しいテーマであり、そのために私はもがき苦しんだわけだが、あの震災を私たちが体験したことが私たちだけで終わってしまうことは絶対に避けなければならなかったし、その意味で他者に伝わる言葉をもつという、表現ということの根幹を問い直す作業になったわけだ。<br />
　さて、再び朗読に戻ろう。その小さな部屋では、何人もの声で「夏の衣」が読まれていたのが録音されて流れていた。朗読することのできない私は、それらの声を、違う、違う、と思いながら聞いていた。今から振り返ればとんでもない私の高慢さのせいかもしれない。小学生と思しき男の子の澄んだ声が朗々と読む声があった。「朗－読」なんだからそれでいいといえばいいのだが、ただ声に出して読めばいいってもんじゃないだろうと、いたたまれない気分になった。もちろん彼が10回読めば、100回読めば変わったかもしれない。何を思って、あるいは何かを思うような自分というものを抱えたままで、「もう、いい。もういいから」と口にすることが、なぜできるのか。]]></content>
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