和楽路屋の地図
この『猫間川をさがせ』という作品は、駆け足で走りながら作り上げている感覚がある。要は、言い訳だが、ぎりぎりでなんとか修正していたり、とうとう間に合わず前に書いたことが新しい資料でひっくり返ってしまったりすることがある。そういうことを今回は書いてみたい。
猫間川について調べ初めに集めていた資料については全て把握していたつもりだったが、前章を書いている時期に大正期の地図が分かりにくいところに隠れてしまっていたのを見つけた。 面白いもので、この段階で何年ぶりかに見たことで、この地図の重要性がすぐに把握できた。
発行が「大正十四年四月十日」となっており、前の持ち主の手によるものらしく裏にも「大正十四年版」とボールペンで書入れがある。この地図では、現在の平野川(平野運河)と旧流路の平野川が共存して書かれており、猫間川も描かれている。八章の『猫間川筋』で書いた平野川の流路変更と猫間川の暗渠化の開始時の様子が活写されている地図なのだ。
そればかりではなく、以前に書いたことについての自分の早とちりに気づくこととなった。猫間川が埋められた時期についてである。先に言及した『猫間川筋』では猫間川が埋められたのは
大正十二年から翌十三年にかけてひとつづきの作業のなかで、猫間川のほとんどの部分が埋め立てられたと考えてよいようである。
としている。これは早とちりであって、実際は猫間川が姿を消すまでにはもう少し時間がかかったらしいことが分かってきた。東成区市(一九五七年刊)にも、猫間川が暗渠化された時期が区間別に記されている。(筆者にて数字を付加、年代順に並べ替え)
①大正一四年~一五年 第一回失業救済事業による
細工谷より鶴橋線(現在の千日前通り)
②昭和三年~一三年 第三期下水道事業による
源ヶ橋より北生野町一の六九
③昭和七年~八年 第一三回失業九歳事業による
北生野町一の六九より勝山通付近
④昭和八年~九年 第一五回失業救済事業により
鶴橋線より玉造駅南付近
⑤昭和一二年~二〇年 第五期下水道事業による
勝山通付近より細工谷
玉造駅南付近より黒門橋
※昭和九年 第一七回失業救済事業による
中央部一五〇米(勝山通付近より細工谷の?)
昭和一〇年~一一年 第一九回失業救済事業による
〃
私の手元にある和楽路屋の地図はこれらの事業が始められる頃のものということになる。地図にこれらの時期を重ね合わせれば猫間川が姿を消していった過程がより正確にわかるのだ。和楽路屋から出ている地図にはなにかと助けられる。優れた地図出版会社が、ネット化などの技術面で立ち遅れたという理由だけで倒産し、姿を消したということには猫間川の姿を今見ることができないのと同様の寂しさを覚える。
そんなことを思っていたころ、私は探してもなかなか目にすることが出来なかった猫間川の写真の存在を知ることとなった。

『写真でみる大阪市下水道百年のあゆみ』(大阪市下水道局編集・発行、平成六年)より
切り立った河岸は石垣となっている。森琴石が描いた二軒茶屋の風景の中の猫間川と符合する。写真の説明書きにある通り、これから暗渠化が行われるらしく足場が蓋をするように渡され、関係者らしいひとびとの姿も見える。水量はわずかであり、ごみやがれきが流れを塞き止める勢いである。河岸には排水溝が口をあけている。砂っぽい風景を今の大阪のまちと重ね合わせることは難しい。
さて、この写真はいつ撮られたもので、場所はどこだろうか? 大阪市下水道局は現在都市環境局と名を変えている。私は早速、問い合わせを入れたのだが、二軒茶屋の石橋について調べたときとほぼ同様に、情報は残っていない、との答えだった。だが、これから工事をはじめるということは、上記期間のいずれかであると考えてよいだろう。写真からは川筋が真っ直ぐであること、「尾笹歯科医院」という看板を掲げた建物が見えることが見てとれる。そこから場所は特定できそうだし、場所が特定できれば時期も特定できることになる。
そう考えた時点では、直ぐに場所が特定できるだろうぐらいに考えていた。この場所探しに際して再読したのが、足代健二郎氏という郷土史家の筆による、『松下電器発祥の地・猪飼野』という論文である。PHP研究所のWEBサイトから入手可能だが、松下幸之助氏が独立した時の正確な住所を特定するまでの経緯を、詳細に書き綴ったものだ。この論文の本筋ではないが、松下幸之助氏が独立された大正期の東成近辺の鄙びた風景というものを、私はこの文からふんだんに感じとることができた。
この論文のなかでは、住所を調べるのに地籍台帳や電話番号簿といった資料を参考にしておられ、同様にすればと考えた訳だ。実際はここからなかなか結論にたどりつけなかった。というのは、ひとつには当初時期の認識を誤っていたことがある。東成区史の記述を目にしていたにも関わらず、大正十三~十四年に目星をつけていたのだ。
電話番号簿、大阪歯科医師会関係の資料、地図や地図に掲載されている広告、土地の名士を載せた紳士録……といった雑多な書物を漁っていたが、当然のことながら時期がずれているのでなかなか探しあてられない。それでも手当たり次第に目を通しているうちに関係する資料に偶然行き当たっていったのが面白かった。
『わが郷土生野村を語る』という、生野区から出された、土地に古くから住まわれている方の話の聞き書きをまとめた小冊子では、平野川だけでなく、猫間川についても座談会で話題に上っていて、その回想が書きとめられている貴重な資料である。そのお話から
・子供のころ(昭和初期)の猫間川は水が汚かったこと
・埋め立てられたのは昭和十年頃からであること
といったことが分かる。愚鈍なことに私は、調べる時期を昭和十年前後と考えなければならないことを、これを目にした時点でようやく納得した。
また、この小冊子には『写真でみるプール学院の百十年』から転載された猫間川筋の風景を描いた絵が挿入されている。この絵が上記写真の猫間川と見比べると、川筋に沿ってある道といい、並んだ家屋や店舗の様子といい、そっくりなのである。プール学院は勝山通り沿いに今もあるキリスト教系の女子学校である。猫間川筋とJR環状線の間にあると思って頂ければよい。
更に、下水道事業についての資料を調べていて、『大阪下水道事業誌第一巻』の第五期下水道事業についてのページに、前掲の『写真でみる大阪市下水道百年のあゆみ』と同じ写真が掲載されているのに気がついた。五期下水道事業といえば⑤昭和一二年~二〇年、勝山通付近より細工谷である(同時期に工事がされたという玉造駅南付近から黒門橋は川筋が真っ直ぐでないため、この時点で候補から外すことが出来た)。
そして最終的に場所を特定するに至ったのだが、決め手となったのは結局、「尾笹歯科医院」だった。
『日本歯科医籍録』(日本歯科医師会、昭和五年)、『日本歯科医師名簿 昭和十年版』(日本歯科新聞社)にそれぞれ、尾笹姓の歯科医の情報が掲載されている。前者資料では、下記のように記されている。(試)、というのは試験で資格を取得した、ということらしい。
尾笹優夫(試)東成区鶴橋北之町一ノ三一七ノ一
この、「鶴橋北之町一丁目三一七」というのが、猫間川筋が細工谷からの通りと交差する交差点の角の番地なのである。
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これも和楽路屋の地図で、『大阪市区分地図 第七 東成区』(昭和十一年)である。国立国会図書館に所蔵されているものを複写した。赤の下線が三一七番地。
上記住所が医院の場所を示しているとすれば、写真の場所はおそらくこの交差点付近から南に向いて撮影したものだ。時期も工事場所から逆引きして昭和十二年頃と考えてよいだろう。埋められようとしている川の右側が、現在の聾学校や桃谷公園になる。

現在の猫間川筋と細工谷からの通りの交差点から、同様に南を向いて二〇〇五年に撮影した写真。「尾笹歯科医院」は向かって左側にあった。
こうして写真の場所を、推測ながら確定することができた。だが、まだわからないこともある。黒門橋(本作品のなかでは石橋と呼んでいる)は昭和十二年からの工事対象区間なのだが、橋自体は大正十三年に撤去されたということを私は確認している。橋の撤去だけが先立ったのだろうということになるが、本当にそうなのか、もしそうなら十年以上の間、二軒茶屋の風景がどうなっていたのか、現時点ではよくわからない。
最後に、冒頭で述べた私の間違いについてもう一点、「埋め立て時点で猫間川はまだそれほど汚れていなかったのでは?」という私の予想は全く間違っていたことが分かった。同時期、平野川の水はまだきれいで泳げるほどだったようだ。都市に呑み込まれた猫間川は抗う術もなく汚されてしまっていた。
昭和十二年というと盧溝橋事件が起った年であり、ひとびとの意識もいよいよ戦争に向かって傾いていったであろうと思われる。普段は汚く、臭いを放ち、それでいていざとなると増水して生活の脅威になる猫間川を庇うような余裕は、大阪のひとたちにも、大阪の行政にもなかっただろう。川を汚したのはほかならぬ、大阪のまちからでる生活排水だったのだが。そうして猫間川はトドメをさされてしまったのである。

冒頭で述べた、和楽路屋の『実地踏測大阪市街図』。暗渠化工事の時期と写真の場所を記入している。
猫間川について調べ初めに集めていた資料については全て把握していたつもりだったが、前章を書いている時期に大正期の地図が分かりにくいところに隠れてしまっていたのを見つけた。 面白いもので、この段階で何年ぶりかに見たことで、この地図の重要性がすぐに把握できた。
発行が「大正十四年四月十日」となっており、前の持ち主の手によるものらしく裏にも「大正十四年版」とボールペンで書入れがある。この地図では、現在の平野川(平野運河)と旧流路の平野川が共存して書かれており、猫間川も描かれている。八章の『猫間川筋』で書いた平野川の流路変更と猫間川の暗渠化の開始時の様子が活写されている地図なのだ。
そればかりではなく、以前に書いたことについての自分の早とちりに気づくこととなった。猫間川が埋められた時期についてである。先に言及した『猫間川筋』では猫間川が埋められたのは
大正十二年から翌十三年にかけてひとつづきの作業のなかで、猫間川のほとんどの部分が埋め立てられたと考えてよいようである。
としている。これは早とちりであって、実際は猫間川が姿を消すまでにはもう少し時間がかかったらしいことが分かってきた。東成区市(一九五七年刊)にも、猫間川が暗渠化された時期が区間別に記されている。(筆者にて数字を付加、年代順に並べ替え)
①大正一四年~一五年 第一回失業救済事業による
細工谷より鶴橋線(現在の千日前通り)
②昭和三年~一三年 第三期下水道事業による
源ヶ橋より北生野町一の六九
③昭和七年~八年 第一三回失業九歳事業による
北生野町一の六九より勝山通付近
④昭和八年~九年 第一五回失業救済事業により
鶴橋線より玉造駅南付近
⑤昭和一二年~二〇年 第五期下水道事業による
勝山通付近より細工谷
玉造駅南付近より黒門橋
※昭和九年 第一七回失業救済事業による
中央部一五〇米(勝山通付近より細工谷の?)
昭和一〇年~一一年 第一九回失業救済事業による
〃
私の手元にある和楽路屋の地図はこれらの事業が始められる頃のものということになる。地図にこれらの時期を重ね合わせれば猫間川が姿を消していった過程がより正確にわかるのだ。和楽路屋から出ている地図にはなにかと助けられる。優れた地図出版会社が、ネット化などの技術面で立ち遅れたという理由だけで倒産し、姿を消したということには猫間川の姿を今見ることができないのと同様の寂しさを覚える。
そんなことを思っていたころ、私は探してもなかなか目にすることが出来なかった猫間川の写真の存在を知ることとなった。

『写真でみる大阪市下水道百年のあゆみ』(大阪市下水道局編集・発行、平成六年)より
切り立った河岸は石垣となっている。森琴石が描いた二軒茶屋の風景の中の猫間川と符合する。写真の説明書きにある通り、これから暗渠化が行われるらしく足場が蓋をするように渡され、関係者らしいひとびとの姿も見える。水量はわずかであり、ごみやがれきが流れを塞き止める勢いである。河岸には排水溝が口をあけている。砂っぽい風景を今の大阪のまちと重ね合わせることは難しい。
さて、この写真はいつ撮られたもので、場所はどこだろうか? 大阪市下水道局は現在都市環境局と名を変えている。私は早速、問い合わせを入れたのだが、二軒茶屋の石橋について調べたときとほぼ同様に、情報は残っていない、との答えだった。だが、これから工事をはじめるということは、上記期間のいずれかであると考えてよいだろう。写真からは川筋が真っ直ぐであること、「尾笹歯科医院」という看板を掲げた建物が見えることが見てとれる。そこから場所は特定できそうだし、場所が特定できれば時期も特定できることになる。
そう考えた時点では、直ぐに場所が特定できるだろうぐらいに考えていた。この場所探しに際して再読したのが、足代健二郎氏という郷土史家の筆による、『松下電器発祥の地・猪飼野』という論文である。PHP研究所のWEBサイトから入手可能だが、松下幸之助氏が独立した時の正確な住所を特定するまでの経緯を、詳細に書き綴ったものだ。この論文の本筋ではないが、松下幸之助氏が独立された大正期の東成近辺の鄙びた風景というものを、私はこの文からふんだんに感じとることができた。
この論文のなかでは、住所を調べるのに地籍台帳や電話番号簿といった資料を参考にしておられ、同様にすればと考えた訳だ。実際はここからなかなか結論にたどりつけなかった。というのは、ひとつには当初時期の認識を誤っていたことがある。東成区史の記述を目にしていたにも関わらず、大正十三~十四年に目星をつけていたのだ。
電話番号簿、大阪歯科医師会関係の資料、地図や地図に掲載されている広告、土地の名士を載せた紳士録……といった雑多な書物を漁っていたが、当然のことながら時期がずれているのでなかなか探しあてられない。それでも手当たり次第に目を通しているうちに関係する資料に偶然行き当たっていったのが面白かった。
『わが郷土生野村を語る』という、生野区から出された、土地に古くから住まわれている方の話の聞き書きをまとめた小冊子では、平野川だけでなく、猫間川についても座談会で話題に上っていて、その回想が書きとめられている貴重な資料である。そのお話から
・子供のころ(昭和初期)の猫間川は水が汚かったこと
・埋め立てられたのは昭和十年頃からであること
といったことが分かる。愚鈍なことに私は、調べる時期を昭和十年前後と考えなければならないことを、これを目にした時点でようやく納得した。
また、この小冊子には『写真でみるプール学院の百十年』から転載された猫間川筋の風景を描いた絵が挿入されている。この絵が上記写真の猫間川と見比べると、川筋に沿ってある道といい、並んだ家屋や店舗の様子といい、そっくりなのである。プール学院は勝山通り沿いに今もあるキリスト教系の女子学校である。猫間川筋とJR環状線の間にあると思って頂ければよい。
更に、下水道事業についての資料を調べていて、『大阪下水道事業誌第一巻』の第五期下水道事業についてのページに、前掲の『写真でみる大阪市下水道百年のあゆみ』と同じ写真が掲載されているのに気がついた。五期下水道事業といえば⑤昭和一二年~二〇年、勝山通付近より細工谷である(同時期に工事がされたという玉造駅南付近から黒門橋は川筋が真っ直ぐでないため、この時点で候補から外すことが出来た)。
そして最終的に場所を特定するに至ったのだが、決め手となったのは結局、「尾笹歯科医院」だった。
『日本歯科医籍録』(日本歯科医師会、昭和五年)、『日本歯科医師名簿 昭和十年版』(日本歯科新聞社)にそれぞれ、尾笹姓の歯科医の情報が掲載されている。前者資料では、下記のように記されている。(試)、というのは試験で資格を取得した、ということらしい。
尾笹優夫(試)東成区鶴橋北之町一ノ三一七ノ一
この、「鶴橋北之町一丁目三一七」というのが、猫間川筋が細工谷からの通りと交差する交差点の角の番地なのである。
これも和楽路屋の地図で、『大阪市区分地図 第七 東成区』(昭和十一年)である。国立国会図書館に所蔵されているものを複写した。赤の下線が三一七番地。
上記住所が医院の場所を示しているとすれば、写真の場所はおそらくこの交差点付近から南に向いて撮影したものだ。時期も工事場所から逆引きして昭和十二年頃と考えてよいだろう。埋められようとしている川の右側が、現在の聾学校や桃谷公園になる。
現在の猫間川筋と細工谷からの通りの交差点から、同様に南を向いて二〇〇五年に撮影した写真。「尾笹歯科医院」は向かって左側にあった。
こうして写真の場所を、推測ながら確定することができた。だが、まだわからないこともある。黒門橋(本作品のなかでは石橋と呼んでいる)は昭和十二年からの工事対象区間なのだが、橋自体は大正十三年に撤去されたということを私は確認している。橋の撤去だけが先立ったのだろうということになるが、本当にそうなのか、もしそうなら十年以上の間、二軒茶屋の風景がどうなっていたのか、現時点ではよくわからない。
最後に、冒頭で述べた私の間違いについてもう一点、「埋め立て時点で猫間川はまだそれほど汚れていなかったのでは?」という私の予想は全く間違っていたことが分かった。同時期、平野川の水はまだきれいで泳げるほどだったようだ。都市に呑み込まれた猫間川は抗う術もなく汚されてしまっていた。
昭和十二年というと盧溝橋事件が起った年であり、ひとびとの意識もいよいよ戦争に向かって傾いていったであろうと思われる。普段は汚く、臭いを放ち、それでいていざとなると増水して生活の脅威になる猫間川を庇うような余裕は、大阪のひとたちにも、大阪の行政にもなかっただろう。川を汚したのはほかならぬ、大阪のまちからでる生活排水だったのだが。そうして猫間川はトドメをさされてしまったのである。
冒頭で述べた、和楽路屋の『実地踏測大阪市街図』。暗渠化工事の時期と写真の場所を記入している。
本日:2
今週:10
累計:6585(5/9 15:00より)
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また、我HPにて載せます。
只今UP中~