2006
18
Feb |
白衣を身に着けたサヤと月香は、看護士に控え室から手術室へと案内された。手術はすでに始まっており、二人は邪魔にならない程度の距離を保って見守った。
今日のオペは肝臓癌の摘出手術だった。男性の腹部が開かれており、執刀医の持つ鋭いメスの先端が手術灯の光に一瞬キラッと輝いた。
サヤは目を閉じた。手術の様子を見るのが怖いのではなく、精神を集中させて患者の体を探ってみるつもりだった。
肝臓に意識を持っていくと、癌に冒された患部がわかった。さらに全身に意識を廻していくと、何ヶ所かに転移が見つかった。サヤは研究所にいるアズロに意識をシンクロさせてから、転移した癌細胞をすべて解体した。それらの細胞は意識の視界からふっと消滅した。また肝炎ウィルスに感染していると聞いていたので、それを特定して解体した。続いてサヤは肝臓の細胞に意識を向け、その細胞のサンプリングを始めた。今回の手術で切り取る部分に補填するつもりだった。
やがて執刀医が患部を切除した。トレイの上に赤黒い塊が置かれる。目を開けてその大きさを確認したサヤは、開腹部が元に戻されたのを見届けたあと、まず肝臓の縫合部をイメージのメスで切り開き、次いで肝臓の細胞を物質化して補填した。拒絶反応に気をつけてしばらく様子を見ていたが、問題なさそうだった。
手術は無事終わり、サヤと月香は執刀医を始めスタッフに丁寧に礼を述べて病院を後にした。
辺りはもう黄昏れており、夕風が立っていた。二人はタクシーを拾って帰途についた。
「どうやら、たくさん成果があったみたいですね」
タクシーの後部座席に並んで座りながら、月香がサヤに話しかける。
「そうなの。すごく自然な感じで、やろうとしたことは全部できちゃった」
「消してしまったんですか?」
運転手の耳がある手前、月香は言葉を選びながら尋ねた。
「目を閉じていると、問題の箇所がわかったの。数ヶ所に分散していたから、みんなまとめてね」
「すごいな」
「あと、細胞をサンプリングして、拒絶反応に気をつけて補填したのよ。うまくいったわ。それと」
「まだあるんですか」
月香は興奮気味に言った。
「ウィルスをね、たぶんC型だと思うけど」
「それは凄すぎます」
「でもね」
サヤはしばらく言葉を探していた。
「でも、うまくいって逆に問題が浮き彫りになったの」
「問題ですか?」
「そう。誰がこの力を使うの?」
「えっ?」
「カフェにいたときにも話したけど、万能の薬は同時に万能の毒でもあるのよ。高い志を持って使わないと、この世は地獄になるわ」
「そうかあ」
「今日私が試したことは、広く世間に広まってこそ意味があることよ。たかだか三人の人間が使えるのでは駄目なの。でも、誰にでも使えるとなると、これまた問題でしょ?」
「間違いなく兵器に悪用されますね」と月香は断言した。
「結局さ、とても残念なことだけど、今の人類の魂のレベルでは使いこなせないのかもしれないわね」
二人の話はしだいに熱を帯び、もう運転手のことなど気にしなくなっていた。しかし運転手は熱心にカーラジオに耳を傾けていた。
「じゃあ、どうしてあたしたちだけが?」
月香は事の重大さに初めて気づいたかのように言った。
「大いなる謎ね。一番わからないのはアズロという存在よ。彼はいったい何者なの? だって、イメージの力が使えるのも彼のサポートあってのことだから」
サヤはアズロのことは改めて考えてみなくてはと思った。
「アズロが、あるいは彼の背後にいる何らかの存在が、あたしたちを試しているのかしら。あたしたちの魂のレベルを計ろうとしているのかな」と月香は首を傾げる。
「いま思ったのだけど、もし私たち三人に役割があるとすれば、それは人類の魂のレベルアップを促すということじゃないかな」
車窓から、点り始めた街の灯を見るともなしに眺めながら、サヤは言った。
「そのためにイメージの力を使う能力を持たされたってことでしょうか」
「もしそうだとして、いったいどんな方法でそれができるのかしら。広瀬は自分のやり方でやると言っていた。私はどうすればいいの? 月ちゃん、あなたはどうするの?」
「わかりません。でも早急にそのことを考える必要がありますね」
「そうね。帰ったら広瀬とも話したいわ」
「広瀬さん、ここんとこずっと部屋に籠もりっきりですよ。集中して何かをしているみたいです」
「そういえば、数日前に何か手伝ってあげたんじゃなかったっけ?」
「ええ、マスコミ関係の住所をリストアップして、封筒に宛名を印刷して、切手を貼った状態で渡しました」
「マスコミ関係って、たとえば?」
「新聞社、出版社、テレビ局、ラジオ局、インターネットの有力ポータルサイトなどですね」
月香は指折り数えて答えた。
タクシーは甲州街道を都心から遠ざかっており、遠からず目的地に着くはずだった。カーラジオでは音楽番組が終わって、ニュースが始まったところだった。
先日来多発している殺人事件に関係していると思われる怪文書がマスコミ各所に届いており、警察は事実確認を急いでいるとの発表を行いました。なお、多発している殺人事件の詳細についてはまだ明らかにされておりません。
サヤと月香は顔を見合わせたまま、アナウンサーの声に聴き入っていた。やがて月香がサヤの耳元でささやいた。
「封筒を用意したとき、薄いゴム手袋を着けるように言われたんです。決して素手で触るなと」
「とにかく帰りましょう」
サヤはそう言って前方に向き直った。
彼らは念のために帰路の途中にある私鉄の駅でいったんタクシーを降り、そこで客待ちをしていた別のタクシーに乗り換え、二手に分かれて帰宅した。さらに直接研究所に乗りつけず、手前で車を降りた。タクシー内の会話から万が一足が付くのを用心してのことだった。
研究所に着くと、広瀬は在宅していた。ちょうど食事時だったので、三人は夕食のテーブルを囲んだ。いつものようにコック長の中川が暖かい食事を出してくれた。
彼と彼のスタッフが専用コックとしてこの屋敷に通うようになってから、もう一年になる。サヤは中川から食というものの奥深さと楽しさを教えてもらったと思っている。彼の、誠実で穏やかな人柄とバランスを取るような味に対する先鋭さは、ある意味官能的であり、サヤのみならず月香にとっても広瀬にとっても満足のいくものだった。
「では、ごゆっくり」
食後のデザートとコーヒーを出し終えた中川は、そう言って席を外した。
「で、どうだったの? 本日の成果は」
広瀬がコーヒーを飲みながら話の口火を切った。
「あら、あなた知ってたの?」とサヤが言う。
「知ってますよ。君らの行動は、ちゃんと把握してますよ」
「それはそれは」
「それで?」
サヤは肝臓癌の手術を見学し、イメージの力を使って一定の成果を上げたことを広瀬に話して聞かせた。
「まあ大体こんなところよ」
「うーん、大したものだ」と広瀬は感心して言った。
「ほんとに」
月香もしきりにうなずく。
「なに言ってるの。私ができるということは、あなた達もできるということよ。いま話したイメージのメスなんて、あなたにとっては朝飯前じゃないの?」とサヤは広瀬に訊いた。
広瀬は曖昧な表情を浮かべたが、すぐに、できるよと言った。
「広瀬さん知ってますか? 怪文書の件」
突然に月香が切り出す。
「カイブンショって何だ」
「さっき帰りのタクシーでラジオが言ってたんですが、マスコミ各所に、最近多発している殺人事件に関連があると思われる怪しい文書が届いたらしいです」
「ほお」
「単刀直入に訊きますけど」と月香は身を乗り出して言う。
「あたしが切手を貼った封筒が怪文書に化けちゃったんじゃないですか?」
「そうだよ」
広瀬はあっさりと認めた。
「やっぱり」
「どういうことなの?」とサヤが言う。
「わかったよ。実際にその怪文書を見てもらった方がよさそうだ」
広瀬は二階に上がり、自室からコピー用紙を二枚持ってきて二人に手渡した。日本国民に告ぐ、から始まるその文章をサヤと月香は各々で読んだ。
「これは」
二人とも絶句した。
「初めに書いてあるのは例の国会議員のことでしょ?」と月香が訊く。
「まあね。あの議員をはじめとする、すべての公職にある者が対象になる」
「次のは具体的にはどういうこと?」とサヤが尋ねる。
「小学校に乱入して児童を殺傷し、心神喪失を理由に無罪を主張している男と、少年法に護られて極刑を免れた奴らだよ。そして彼らをはじめとする、すべての該当者が対象となる」
「では最後のは児童虐待者が対象ということですよね」と月香が念を押す。
「そうだ。今後は児童に限らず、ドメスティック・バイオレンス全般を扱うつもりだけどね」
「でも前者は具体的な対象が特定できるけど、児童虐待をしている者をどうやって特定するんですか?」
「うん、それなんだが、実際に成果が上がったかどうかは、まだわからないんだ。やり方としては、まあいわば自動操縦みたいなものさ。まず最初にプログラムを組むんだ。そしてプログラムを発動させるためのセンサーをイメージで日本中に張り巡らせておく。センサーは被虐待者が発する助けを求める精神エネルギーをチャッチする。次いでプログラムが発動して、その現場にいる加害者を特定し、処罰するというわけだ」
「どんな方法で処罰したの?」
サヤは心の準備をしながら訊いた。
「さっき君が指摘したとおり、イメージのメスを使って頭頂部から会陰部まで真二つに切断するんだ」
サヤはそれを聞いて、じっと広瀬の目を見つめながら更に尋ねた。
「その前のは?」
「頭部解体と頭部を除く身体部分の解体だ」
「あなたは殺人者よ」とサヤは言った。
「奴らが果たして人と呼べるかどうか疑問ではあるがね」
「これからも続けるつもりなの?」
「そのつもりだ。正邪合わせたものが人間ならば、できるだけ邪の部分で生きないよう抑止力を働かせることは必要だと思うからね。その抑止力がたとえ恐怖であろうと」
「でも、当初は人類抹殺を考えていたあなたが、なぜそんなに人間に肩入れするの?」
サヤには、そのことが不可解だった。
「肩入れというわけではないんだ。ただ興味があるだけさ。事の成り行きのね。強欲であったり、面白半分に人を殺したり、理不尽な暴力を振るったりする、そんな行為が必ず死につながるとしたら、いったい人間はどう振る舞うのだろう。死にたくないから仕方なく無欲になり、優しく思いやり溢れる人間になろうとするのか。それとも天誅ぎりぎりの場所で、やはり欲望を追求しようとするのか。おれは急にそれを知りたくなったんだ。
それに月ちゃんが言ったように、エネルギーバランスの問題で、人類以外の生物や地球そのものまで人類の道連れにするわけにはいかないからさ。いろんな意味で、もう少し様子をみることにしたんだよ」
広瀬は淡々と説明し終わると、冷めかけたコーヒーに口をつけた。
「その計画は容認できないわ」
サヤはそう言うと、月ちゃんはどう思うの? と訊いた。
「あたしは、やはり人を殺すのって抵抗があります。特に広瀬さんには、そんなことをしてほしくない。でも反面、広瀬さんの天誅対象者への思いって、平凡に生活している普通の人たちの憤る気持ちを代弁していると思うんです。殺人はいけないことだと表明するのなら、それにふさわしい世の中を実現させるよう人類みなで覚悟をもって取り組まなくてはならない筈なのに、実際にはあらゆる詭弁をもって殺人は行われていますよね。
正直なところ、人間の本質が性善説に立てないものなら、大いなる力によって悪の要素を抑制するという考え方もわかる気がするんです。自業自得というのは、ありだと思います。天罰を下す者が人間だから罪に問われるとしたら、下すものが神ならどうなのでしょう。その場合は、自業自得だからやむを得まいということになるんじゃないかな。おかしいですか? こんな考え方は」
「おかしかないさ」と広瀬が言った。
「おれの考えも、ある程度わかってくれてるみたいだな」
「私だって気持ちはわかるのよ、もちろん」とサヤも応じる。
「でもやはり、いかなる理由、事情があっても殺人を肯定するわけにはいかないわ。肯定すれば、人間が人間でなくなってしまうから。動物のように本能のままに生きるのが許されるなら、人間とて弱肉強食、優勝劣敗の価値体系に組み込まれるでしょうね。だけど人間は動物ではないわ」
「あのさ」と広瀬が話を受けつぐ。
「人を殺すのが目的ではないんだ。ただ、死ぬという方がそうでない場合よりも恐怖の度合いが強いだろうから、目的達成のためには効率がよく合理的だと思うからなんだ。もし、決して命は奪わないからと言えば、君は容認してくれるのかい?」
「ある特定の者が暴力で他者を支配したり操作したりすることは傲慢で野蛮なことよ」
「言葉を返すようだが、まさにそのことがこの世界で行われているんだ。弱者を守る者は誰もいない。弱者は弱者を守れない。弱者を守れるのは志を持った強者だけだ。いったい誰が日々の暴力に苦しむ子供を救ってやるんだ。志の高い大人を一人でも増やすためにも、悪党どもを野放しにしておくわけにはいかない。流れを変えるには、少々の荒療治は致し方ないと思うが」
ここで話が途切れ、彼らはしばらく黙ったまま各々の物思いにふけっていた。夜が音もなく通り過ぎて行った。やがて、長い沈黙をサヤが破った。
「イメージの力を使って人間を殺傷することは、やはりどう考えても容認できないわ。きっと他にも方法があるはずよ。私はそれを見つけるわ」
サヤは広瀬と月香を見つめながら言った。強い意志を秘めた口調ながら、深い悲しみをも内包していた。
広瀬はそれを聞くと黙って立ち上がり、サヤと月香を一瞥したあと部屋を出ていった。月香も少し遅れて立ち上がり、サヤに一礼すると広瀬の後を追った。
サヤは宙を見つめたまま椅子に座って長い間じっとしていた。とうに夜半を過ぎ、朝の光の訪れるまで。
十五
警視庁はマスコミ宛に送られてきた怪文書の全文を公開し、一連の殺人事件を狂信的な個人または何らかの団体組織による計画的な犯行と断定した。そして広く国民に情報の提供を呼びかけたが、現時点では何の手がかりも得られていなかった。
マスコミはこの事件を連日のように扱い、テレビのワイドショーや週刊雑誌などでは何度も特集が組まれた。スサノオの行動を快挙だと喜び、溜飲を下げた者も少なくなかった。そして文書の内容を分析し、次は誰の番だろう? と予想する記事や特番まで現れる始末だった。
その後も不定期に犠牲者が出たが、死者の割合は減っていった。しかし、考えようによっては死よりも痛ましいダメージを受けた者もいた。犠牲者の男女比率は男性の方が高かった。
死亡以外の一例としては、目が見えず耳が聞こえず言葉も喋れなくなる三重苦、男根の消失、四肢の消失などがあった。
国会議員や官僚で辞職する者が相次いだ。公僕としての役目を果たしていないと自己評価したということになろうか。
また、児童虐待やDV、学校でのイジメなどの発生件数も激減した。自分の命を賭けてまで、そういった行為をする者は、まずいなかったからだ。しかし、殺人事件が無くなったわけではない。自分も死んでかまわないから相手を殺したいと思う、そんな状況におちいっている人間は、やはりいるものだ。とはいえ一般的には、このスサノオの監視の視線は犯罪の抑制になった。誰も自分が可愛いのだ。
警察はスサノオからの次の連絡を待ったが、最初の文書が届いて以来コンタクトは無かった。日本国民よ気高くあれ、という文面から右翼団体が徹底的に調べられた。スサノオという名から、神道関係者および須佐之男命を祭神とする全国の神社が捜査の対象になった。しかし、警察は成果を上げられなかった。仮に容疑者が捕まったとしても、第一物的証拠が無かった。
この一連の事件は大きな社会的混乱を招いたが、社会全体が恐怖におののいたというわけではなかった。テロのような無差別殺傷ではなく、社会常識的な行動を取っているうちは何の問題もないということが周知されたからだ。
ある意味、人間の行動をこのような大いなる力のコントロールに委ねることは楽なことだった。たとえそれが恐怖によるものだとしても、その審判の基準が理不尽なものでない限り、安心して任せることができるだろう。人として真っ当に生きることが決して損なことではないと思えるだろう。歴史上このような状況を実現させた存在が果たしていただろうか。
この一連の事件は他の国でも評判を呼び、各国から取材記者が続々と来日した。自分の国にもスサノオが現れて腐り切った世の中をまともにして欲しいと発言する記者も多かった。
サヤはこういった世の中の反応をしばらく観察していた。犠牲者のうち死者の割合が減ったことに、広瀬の思いを感じた。実際に犯罪激減などの効果も現れているようだった。しかし、サヤはどうしても彼の行動を支持することはできないと思った。なぜなら、それは宇宙の流れから逸脱したことのように感じられてならなかったからだ。
サヤは広瀬とは別の方向でイメージの力を使っていくという課題に取り組んでいたが、なかなか糸口がつかめずにいた。肉体ではなく魂に働きかけることも考えてみた。魂を操作して、人間から暴力性や残虐性を無くすことはできないだろうかと思案した。しかし、その行為と広瀬のそれとの間にどれほどの差があるだろう。やはりこれも宇宙の流れから逸脱した行為には違いないとサヤは思った。
広瀬は月香と共に研究所を去り、都内のホテルに滞在していた。搬入したノートパソコンを使って、インターネット上のサイトから処罰対象者を選ぶ際の基本情報を得た。その情報に基づいて、必要があれば月香が資料集めに奔走した。
今回の一連の事件が海外でも話題になっていることを広瀬は知っていた。いずれはアメリカを始めとする世界各国で日本と同様なことを行いたいと思っていた。
警察は相変わらすスサノオ逮捕に向けて捜査を続けていたが、その対応は腰砕けだった。警察の上層部からして、いつ自分に天誅が下されるやもしれぬとびくびくしていた。しかし、警察の本分として捜査を打ち切るわけにもいかず、苦境に立たされていた。
広瀬と月香は適当な間隔で都内のホテルを移動した。今回移ってきたのは台場にあるホテルだった。部屋から海が見え、視線を上に転じると、夕映えの中に未来的な都市の景観があった。
広瀬はシャワーを使ったあと、テラスの椅子に座ってビールを飲んだ。湿気を帯びた温い風が吹いており、眼下の海面には数隻の白い船が黄金色に輝く波間に浮かんでいた。
やがて月香も浴室から出てきた。洗髪した髪をタオルでくるんでいる。
「いいわね、ビール。あたしも頂こうかな」
「冷蔵庫にあるから」
月香は缶ビールを持ってテラスにやって来た。
「こんなにのんびりするのって久々」
「そうだな。ここんとこ緊張の日々だったからな」
月香は缶を傾け喉を鳴らすと、美味しいと言った。
「サヤさん、何してるかしら」
「気になるのか?」
「そりゃ気になるよ」
「そうか」
広瀬はしだいに透明な青に変化していく風景を見ていた。
「あんな形で研究所を出てしまったから」
「後悔しているのか?」
「そうじゃないけど」
「月ちゃんは、なぜ残らなかった」
「あなたと一緒にいたかったからよ」
「おれは殺人者だ」
「あたしも共犯よ」
「君が直接手を下したわけではない」
「でも、サヤさんのように反対もしてないわ。実際に人が死ぬという事実を見ないようにしてるの。その動機についてはシンパシーを感じるけど」
月香は缶を片手に、波に漂う水鳥を見つめた。その白い羽がゆっくりと揺らめく様に、月香はなぜか永遠をみた。
「もし、おれが暴走を始めたら、少なくとも君がそう感じたら、君の手によっておれを解体してくれ」
広瀬が唐突に言った。
「いまなんて?」
「だから、おれを解体」
「ちょっと待って。何を言い出すのかと思えば。もっとましなジョークにしてね」
月香は少し腹を立てていた。
「ジョークではない。いま急にそんな予感がした」
「そんな」
「なぜだろう。なぜかな」
「あなた疲れてるのよ。いくらアズロの助けがあるにしても生身の人間がすることだもの。イメージを駆使するって、もしかしたら肉体的にかなりのダメージを受けてるのかも。それに、肉体だけじゃなく魂へのダメージも大きいのかもしれない」
「そうだな」
「気分転換に食事に出かけて、戻ったら早めに休みましょう」
「そうするよ」
広瀬は素直に言って、飲みかけのビールを飲み干した。
もう少し召し上がりませんかとコック長の中川が勧めてくれた。
「いえ、けっこうよ。ありがとう」
サヤはデザート用スプーンを置いて言った。
「では、食後のお飲物をお持ちします」
そう言って中川は厨房に戻っていった。
サヤが一人で食事をとるようになっても、彼はそのことについて、おくびにも出さなかった。ただ毎日、心のこもった料理をテーブルの上に並べてくれた。
サヤは思う。広瀬や月香が身近にいるときには意識しなかったけど、こうして独りになってみると、いま自分が置かれている状況に改めて驚きを感じる。ほんの二年半前までは、山と海の狭間にある小さな町で平穏に暮らしていたのだ。きっかけがあったにせよ、なぜ私はあの穏やかな日々を後にしたのだろう。特別不幸というわけでもなかったし、家族の中に居場所がなかったわけでもない。広瀬という男に女として惹かれたのは確かだったが、それだけの理由でふたたび故郷を離れたとは思えない。アズロに象徴されるあの世的な力との出会いが、心の奥深く眠っていた何かを目覚めさせてしまったのだろうか。あるいはもっとシンプルに、生来の好奇心の強さがすべての原因だったかもしれない。私は私をもっと識りたかったのかもしれない。
「お待たせしました。今夜はカモミールティーにいたしましたが、よろしかったでしょうか」
中川はテーブルの上にカップやポットの乗ったトレイを置いた。
「ありがとう。そんな感じのものがちょうど欲しかったの」
「ではミルクも添えてありますので、お好みでどうぞ」
中川は一礼すると立ち去った。
立ちのぼる香りを楽しみながら、サヤは熱いハーブティーをゆっくりと飲んだ。
今日のオペは肝臓癌の摘出手術だった。男性の腹部が開かれており、執刀医の持つ鋭いメスの先端が手術灯の光に一瞬キラッと輝いた。
サヤは目を閉じた。手術の様子を見るのが怖いのではなく、精神を集中させて患者の体を探ってみるつもりだった。
肝臓に意識を持っていくと、癌に冒された患部がわかった。さらに全身に意識を廻していくと、何ヶ所かに転移が見つかった。サヤは研究所にいるアズロに意識をシンクロさせてから、転移した癌細胞をすべて解体した。それらの細胞は意識の視界からふっと消滅した。また肝炎ウィルスに感染していると聞いていたので、それを特定して解体した。続いてサヤは肝臓の細胞に意識を向け、その細胞のサンプリングを始めた。今回の手術で切り取る部分に補填するつもりだった。
やがて執刀医が患部を切除した。トレイの上に赤黒い塊が置かれる。目を開けてその大きさを確認したサヤは、開腹部が元に戻されたのを見届けたあと、まず肝臓の縫合部をイメージのメスで切り開き、次いで肝臓の細胞を物質化して補填した。拒絶反応に気をつけてしばらく様子を見ていたが、問題なさそうだった。
手術は無事終わり、サヤと月香は執刀医を始めスタッフに丁寧に礼を述べて病院を後にした。
辺りはもう黄昏れており、夕風が立っていた。二人はタクシーを拾って帰途についた。
「どうやら、たくさん成果があったみたいですね」
タクシーの後部座席に並んで座りながら、月香がサヤに話しかける。
「そうなの。すごく自然な感じで、やろうとしたことは全部できちゃった」
「消してしまったんですか?」
運転手の耳がある手前、月香は言葉を選びながら尋ねた。
「目を閉じていると、問題の箇所がわかったの。数ヶ所に分散していたから、みんなまとめてね」
「すごいな」
「あと、細胞をサンプリングして、拒絶反応に気をつけて補填したのよ。うまくいったわ。それと」
「まだあるんですか」
月香は興奮気味に言った。
「ウィルスをね、たぶんC型だと思うけど」
「それは凄すぎます」
「でもね」
サヤはしばらく言葉を探していた。
「でも、うまくいって逆に問題が浮き彫りになったの」
「問題ですか?」
「そう。誰がこの力を使うの?」
「えっ?」
「カフェにいたときにも話したけど、万能の薬は同時に万能の毒でもあるのよ。高い志を持って使わないと、この世は地獄になるわ」
「そうかあ」
「今日私が試したことは、広く世間に広まってこそ意味があることよ。たかだか三人の人間が使えるのでは駄目なの。でも、誰にでも使えるとなると、これまた問題でしょ?」
「間違いなく兵器に悪用されますね」と月香は断言した。
「結局さ、とても残念なことだけど、今の人類の魂のレベルでは使いこなせないのかもしれないわね」
二人の話はしだいに熱を帯び、もう運転手のことなど気にしなくなっていた。しかし運転手は熱心にカーラジオに耳を傾けていた。
「じゃあ、どうしてあたしたちだけが?」
月香は事の重大さに初めて気づいたかのように言った。
「大いなる謎ね。一番わからないのはアズロという存在よ。彼はいったい何者なの? だって、イメージの力が使えるのも彼のサポートあってのことだから」
サヤはアズロのことは改めて考えてみなくてはと思った。
「アズロが、あるいは彼の背後にいる何らかの存在が、あたしたちを試しているのかしら。あたしたちの魂のレベルを計ろうとしているのかな」と月香は首を傾げる。
「いま思ったのだけど、もし私たち三人に役割があるとすれば、それは人類の魂のレベルアップを促すということじゃないかな」
車窓から、点り始めた街の灯を見るともなしに眺めながら、サヤは言った。
「そのためにイメージの力を使う能力を持たされたってことでしょうか」
「もしそうだとして、いったいどんな方法でそれができるのかしら。広瀬は自分のやり方でやると言っていた。私はどうすればいいの? 月ちゃん、あなたはどうするの?」
「わかりません。でも早急にそのことを考える必要がありますね」
「そうね。帰ったら広瀬とも話したいわ」
「広瀬さん、ここんとこずっと部屋に籠もりっきりですよ。集中して何かをしているみたいです」
「そういえば、数日前に何か手伝ってあげたんじゃなかったっけ?」
「ええ、マスコミ関係の住所をリストアップして、封筒に宛名を印刷して、切手を貼った状態で渡しました」
「マスコミ関係って、たとえば?」
「新聞社、出版社、テレビ局、ラジオ局、インターネットの有力ポータルサイトなどですね」
月香は指折り数えて答えた。
タクシーは甲州街道を都心から遠ざかっており、遠からず目的地に着くはずだった。カーラジオでは音楽番組が終わって、ニュースが始まったところだった。
先日来多発している殺人事件に関係していると思われる怪文書がマスコミ各所に届いており、警察は事実確認を急いでいるとの発表を行いました。なお、多発している殺人事件の詳細についてはまだ明らかにされておりません。
サヤと月香は顔を見合わせたまま、アナウンサーの声に聴き入っていた。やがて月香がサヤの耳元でささやいた。
「封筒を用意したとき、薄いゴム手袋を着けるように言われたんです。決して素手で触るなと」
「とにかく帰りましょう」
サヤはそう言って前方に向き直った。
彼らは念のために帰路の途中にある私鉄の駅でいったんタクシーを降り、そこで客待ちをしていた別のタクシーに乗り換え、二手に分かれて帰宅した。さらに直接研究所に乗りつけず、手前で車を降りた。タクシー内の会話から万が一足が付くのを用心してのことだった。
研究所に着くと、広瀬は在宅していた。ちょうど食事時だったので、三人は夕食のテーブルを囲んだ。いつものようにコック長の中川が暖かい食事を出してくれた。
彼と彼のスタッフが専用コックとしてこの屋敷に通うようになってから、もう一年になる。サヤは中川から食というものの奥深さと楽しさを教えてもらったと思っている。彼の、誠実で穏やかな人柄とバランスを取るような味に対する先鋭さは、ある意味官能的であり、サヤのみならず月香にとっても広瀬にとっても満足のいくものだった。
「では、ごゆっくり」
食後のデザートとコーヒーを出し終えた中川は、そう言って席を外した。
「で、どうだったの? 本日の成果は」
広瀬がコーヒーを飲みながら話の口火を切った。
「あら、あなた知ってたの?」とサヤが言う。
「知ってますよ。君らの行動は、ちゃんと把握してますよ」
「それはそれは」
「それで?」
サヤは肝臓癌の手術を見学し、イメージの力を使って一定の成果を上げたことを広瀬に話して聞かせた。
「まあ大体こんなところよ」
「うーん、大したものだ」と広瀬は感心して言った。
「ほんとに」
月香もしきりにうなずく。
「なに言ってるの。私ができるということは、あなた達もできるということよ。いま話したイメージのメスなんて、あなたにとっては朝飯前じゃないの?」とサヤは広瀬に訊いた。
広瀬は曖昧な表情を浮かべたが、すぐに、できるよと言った。
「広瀬さん知ってますか? 怪文書の件」
突然に月香が切り出す。
「カイブンショって何だ」
「さっき帰りのタクシーでラジオが言ってたんですが、マスコミ各所に、最近多発している殺人事件に関連があると思われる怪しい文書が届いたらしいです」
「ほお」
「単刀直入に訊きますけど」と月香は身を乗り出して言う。
「あたしが切手を貼った封筒が怪文書に化けちゃったんじゃないですか?」
「そうだよ」
広瀬はあっさりと認めた。
「やっぱり」
「どういうことなの?」とサヤが言う。
「わかったよ。実際にその怪文書を見てもらった方がよさそうだ」
広瀬は二階に上がり、自室からコピー用紙を二枚持ってきて二人に手渡した。日本国民に告ぐ、から始まるその文章をサヤと月香は各々で読んだ。
「これは」
二人とも絶句した。
「初めに書いてあるのは例の国会議員のことでしょ?」と月香が訊く。
「まあね。あの議員をはじめとする、すべての公職にある者が対象になる」
「次のは具体的にはどういうこと?」とサヤが尋ねる。
「小学校に乱入して児童を殺傷し、心神喪失を理由に無罪を主張している男と、少年法に護られて極刑を免れた奴らだよ。そして彼らをはじめとする、すべての該当者が対象となる」
「では最後のは児童虐待者が対象ということですよね」と月香が念を押す。
「そうだ。今後は児童に限らず、ドメスティック・バイオレンス全般を扱うつもりだけどね」
「でも前者は具体的な対象が特定できるけど、児童虐待をしている者をどうやって特定するんですか?」
「うん、それなんだが、実際に成果が上がったかどうかは、まだわからないんだ。やり方としては、まあいわば自動操縦みたいなものさ。まず最初にプログラムを組むんだ。そしてプログラムを発動させるためのセンサーをイメージで日本中に張り巡らせておく。センサーは被虐待者が発する助けを求める精神エネルギーをチャッチする。次いでプログラムが発動して、その現場にいる加害者を特定し、処罰するというわけだ」
「どんな方法で処罰したの?」
サヤは心の準備をしながら訊いた。
「さっき君が指摘したとおり、イメージのメスを使って頭頂部から会陰部まで真二つに切断するんだ」
サヤはそれを聞いて、じっと広瀬の目を見つめながら更に尋ねた。
「その前のは?」
「頭部解体と頭部を除く身体部分の解体だ」
「あなたは殺人者よ」とサヤは言った。
「奴らが果たして人と呼べるかどうか疑問ではあるがね」
「これからも続けるつもりなの?」
「そのつもりだ。正邪合わせたものが人間ならば、できるだけ邪の部分で生きないよう抑止力を働かせることは必要だと思うからね。その抑止力がたとえ恐怖であろうと」
「でも、当初は人類抹殺を考えていたあなたが、なぜそんなに人間に肩入れするの?」
サヤには、そのことが不可解だった。
「肩入れというわけではないんだ。ただ興味があるだけさ。事の成り行きのね。強欲であったり、面白半分に人を殺したり、理不尽な暴力を振るったりする、そんな行為が必ず死につながるとしたら、いったい人間はどう振る舞うのだろう。死にたくないから仕方なく無欲になり、優しく思いやり溢れる人間になろうとするのか。それとも天誅ぎりぎりの場所で、やはり欲望を追求しようとするのか。おれは急にそれを知りたくなったんだ。
それに月ちゃんが言ったように、エネルギーバランスの問題で、人類以外の生物や地球そのものまで人類の道連れにするわけにはいかないからさ。いろんな意味で、もう少し様子をみることにしたんだよ」
広瀬は淡々と説明し終わると、冷めかけたコーヒーに口をつけた。
「その計画は容認できないわ」
サヤはそう言うと、月ちゃんはどう思うの? と訊いた。
「あたしは、やはり人を殺すのって抵抗があります。特に広瀬さんには、そんなことをしてほしくない。でも反面、広瀬さんの天誅対象者への思いって、平凡に生活している普通の人たちの憤る気持ちを代弁していると思うんです。殺人はいけないことだと表明するのなら、それにふさわしい世の中を実現させるよう人類みなで覚悟をもって取り組まなくてはならない筈なのに、実際にはあらゆる詭弁をもって殺人は行われていますよね。
正直なところ、人間の本質が性善説に立てないものなら、大いなる力によって悪の要素を抑制するという考え方もわかる気がするんです。自業自得というのは、ありだと思います。天罰を下す者が人間だから罪に問われるとしたら、下すものが神ならどうなのでしょう。その場合は、自業自得だからやむを得まいということになるんじゃないかな。おかしいですか? こんな考え方は」
「おかしかないさ」と広瀬が言った。
「おれの考えも、ある程度わかってくれてるみたいだな」
「私だって気持ちはわかるのよ、もちろん」とサヤも応じる。
「でもやはり、いかなる理由、事情があっても殺人を肯定するわけにはいかないわ。肯定すれば、人間が人間でなくなってしまうから。動物のように本能のままに生きるのが許されるなら、人間とて弱肉強食、優勝劣敗の価値体系に組み込まれるでしょうね。だけど人間は動物ではないわ」
「あのさ」と広瀬が話を受けつぐ。
「人を殺すのが目的ではないんだ。ただ、死ぬという方がそうでない場合よりも恐怖の度合いが強いだろうから、目的達成のためには効率がよく合理的だと思うからなんだ。もし、決して命は奪わないからと言えば、君は容認してくれるのかい?」
「ある特定の者が暴力で他者を支配したり操作したりすることは傲慢で野蛮なことよ」
「言葉を返すようだが、まさにそのことがこの世界で行われているんだ。弱者を守る者は誰もいない。弱者は弱者を守れない。弱者を守れるのは志を持った強者だけだ。いったい誰が日々の暴力に苦しむ子供を救ってやるんだ。志の高い大人を一人でも増やすためにも、悪党どもを野放しにしておくわけにはいかない。流れを変えるには、少々の荒療治は致し方ないと思うが」
ここで話が途切れ、彼らはしばらく黙ったまま各々の物思いにふけっていた。夜が音もなく通り過ぎて行った。やがて、長い沈黙をサヤが破った。
「イメージの力を使って人間を殺傷することは、やはりどう考えても容認できないわ。きっと他にも方法があるはずよ。私はそれを見つけるわ」
サヤは広瀬と月香を見つめながら言った。強い意志を秘めた口調ながら、深い悲しみをも内包していた。
広瀬はそれを聞くと黙って立ち上がり、サヤと月香を一瞥したあと部屋を出ていった。月香も少し遅れて立ち上がり、サヤに一礼すると広瀬の後を追った。
サヤは宙を見つめたまま椅子に座って長い間じっとしていた。とうに夜半を過ぎ、朝の光の訪れるまで。
十五
警視庁はマスコミ宛に送られてきた怪文書の全文を公開し、一連の殺人事件を狂信的な個人または何らかの団体組織による計画的な犯行と断定した。そして広く国民に情報の提供を呼びかけたが、現時点では何の手がかりも得られていなかった。
マスコミはこの事件を連日のように扱い、テレビのワイドショーや週刊雑誌などでは何度も特集が組まれた。スサノオの行動を快挙だと喜び、溜飲を下げた者も少なくなかった。そして文書の内容を分析し、次は誰の番だろう? と予想する記事や特番まで現れる始末だった。
その後も不定期に犠牲者が出たが、死者の割合は減っていった。しかし、考えようによっては死よりも痛ましいダメージを受けた者もいた。犠牲者の男女比率は男性の方が高かった。
死亡以外の一例としては、目が見えず耳が聞こえず言葉も喋れなくなる三重苦、男根の消失、四肢の消失などがあった。
国会議員や官僚で辞職する者が相次いだ。公僕としての役目を果たしていないと自己評価したということになろうか。
また、児童虐待やDV、学校でのイジメなどの発生件数も激減した。自分の命を賭けてまで、そういった行為をする者は、まずいなかったからだ。しかし、殺人事件が無くなったわけではない。自分も死んでかまわないから相手を殺したいと思う、そんな状況におちいっている人間は、やはりいるものだ。とはいえ一般的には、このスサノオの監視の視線は犯罪の抑制になった。誰も自分が可愛いのだ。
警察はスサノオからの次の連絡を待ったが、最初の文書が届いて以来コンタクトは無かった。日本国民よ気高くあれ、という文面から右翼団体が徹底的に調べられた。スサノオという名から、神道関係者および須佐之男命を祭神とする全国の神社が捜査の対象になった。しかし、警察は成果を上げられなかった。仮に容疑者が捕まったとしても、第一物的証拠が無かった。
この一連の事件は大きな社会的混乱を招いたが、社会全体が恐怖におののいたというわけではなかった。テロのような無差別殺傷ではなく、社会常識的な行動を取っているうちは何の問題もないということが周知されたからだ。
ある意味、人間の行動をこのような大いなる力のコントロールに委ねることは楽なことだった。たとえそれが恐怖によるものだとしても、その審判の基準が理不尽なものでない限り、安心して任せることができるだろう。人として真っ当に生きることが決して損なことではないと思えるだろう。歴史上このような状況を実現させた存在が果たしていただろうか。
この一連の事件は他の国でも評判を呼び、各国から取材記者が続々と来日した。自分の国にもスサノオが現れて腐り切った世の中をまともにして欲しいと発言する記者も多かった。
サヤはこういった世の中の反応をしばらく観察していた。犠牲者のうち死者の割合が減ったことに、広瀬の思いを感じた。実際に犯罪激減などの効果も現れているようだった。しかし、サヤはどうしても彼の行動を支持することはできないと思った。なぜなら、それは宇宙の流れから逸脱したことのように感じられてならなかったからだ。
サヤは広瀬とは別の方向でイメージの力を使っていくという課題に取り組んでいたが、なかなか糸口がつかめずにいた。肉体ではなく魂に働きかけることも考えてみた。魂を操作して、人間から暴力性や残虐性を無くすことはできないだろうかと思案した。しかし、その行為と広瀬のそれとの間にどれほどの差があるだろう。やはりこれも宇宙の流れから逸脱した行為には違いないとサヤは思った。
広瀬は月香と共に研究所を去り、都内のホテルに滞在していた。搬入したノートパソコンを使って、インターネット上のサイトから処罰対象者を選ぶ際の基本情報を得た。その情報に基づいて、必要があれば月香が資料集めに奔走した。
今回の一連の事件が海外でも話題になっていることを広瀬は知っていた。いずれはアメリカを始めとする世界各国で日本と同様なことを行いたいと思っていた。
警察は相変わらすスサノオ逮捕に向けて捜査を続けていたが、その対応は腰砕けだった。警察の上層部からして、いつ自分に天誅が下されるやもしれぬとびくびくしていた。しかし、警察の本分として捜査を打ち切るわけにもいかず、苦境に立たされていた。
広瀬と月香は適当な間隔で都内のホテルを移動した。今回移ってきたのは台場にあるホテルだった。部屋から海が見え、視線を上に転じると、夕映えの中に未来的な都市の景観があった。
広瀬はシャワーを使ったあと、テラスの椅子に座ってビールを飲んだ。湿気を帯びた温い風が吹いており、眼下の海面には数隻の白い船が黄金色に輝く波間に浮かんでいた。
やがて月香も浴室から出てきた。洗髪した髪をタオルでくるんでいる。
「いいわね、ビール。あたしも頂こうかな」
「冷蔵庫にあるから」
月香は缶ビールを持ってテラスにやって来た。
「こんなにのんびりするのって久々」
「そうだな。ここんとこ緊張の日々だったからな」
月香は缶を傾け喉を鳴らすと、美味しいと言った。
「サヤさん、何してるかしら」
「気になるのか?」
「そりゃ気になるよ」
「そうか」
広瀬はしだいに透明な青に変化していく風景を見ていた。
「あんな形で研究所を出てしまったから」
「後悔しているのか?」
「そうじゃないけど」
「月ちゃんは、なぜ残らなかった」
「あなたと一緒にいたかったからよ」
「おれは殺人者だ」
「あたしも共犯よ」
「君が直接手を下したわけではない」
「でも、サヤさんのように反対もしてないわ。実際に人が死ぬという事実を見ないようにしてるの。その動機についてはシンパシーを感じるけど」
月香は缶を片手に、波に漂う水鳥を見つめた。その白い羽がゆっくりと揺らめく様に、月香はなぜか永遠をみた。
「もし、おれが暴走を始めたら、少なくとも君がそう感じたら、君の手によっておれを解体してくれ」
広瀬が唐突に言った。
「いまなんて?」
「だから、おれを解体」
「ちょっと待って。何を言い出すのかと思えば。もっとましなジョークにしてね」
月香は少し腹を立てていた。
「ジョークではない。いま急にそんな予感がした」
「そんな」
「なぜだろう。なぜかな」
「あなた疲れてるのよ。いくらアズロの助けがあるにしても生身の人間がすることだもの。イメージを駆使するって、もしかしたら肉体的にかなりのダメージを受けてるのかも。それに、肉体だけじゃなく魂へのダメージも大きいのかもしれない」
「そうだな」
「気分転換に食事に出かけて、戻ったら早めに休みましょう」
「そうするよ」
広瀬は素直に言って、飲みかけのビールを飲み干した。
もう少し召し上がりませんかとコック長の中川が勧めてくれた。
「いえ、けっこうよ。ありがとう」
サヤはデザート用スプーンを置いて言った。
「では、食後のお飲物をお持ちします」
そう言って中川は厨房に戻っていった。
サヤが一人で食事をとるようになっても、彼はそのことについて、おくびにも出さなかった。ただ毎日、心のこもった料理をテーブルの上に並べてくれた。
サヤは思う。広瀬や月香が身近にいるときには意識しなかったけど、こうして独りになってみると、いま自分が置かれている状況に改めて驚きを感じる。ほんの二年半前までは、山と海の狭間にある小さな町で平穏に暮らしていたのだ。きっかけがあったにせよ、なぜ私はあの穏やかな日々を後にしたのだろう。特別不幸というわけでもなかったし、家族の中に居場所がなかったわけでもない。広瀬という男に女として惹かれたのは確かだったが、それだけの理由でふたたび故郷を離れたとは思えない。アズロに象徴されるあの世的な力との出会いが、心の奥深く眠っていた何かを目覚めさせてしまったのだろうか。あるいはもっとシンプルに、生来の好奇心の強さがすべての原因だったかもしれない。私は私をもっと識りたかったのかもしれない。
「お待たせしました。今夜はカモミールティーにいたしましたが、よろしかったでしょうか」
中川はテーブルの上にカップやポットの乗ったトレイを置いた。
「ありがとう。そんな感じのものがちょうど欲しかったの」
「ではミルクも添えてありますので、お好みでどうぞ」
中川は一礼すると立ち去った。
立ちのぼる香りを楽しみながら、サヤは熱いハーブティーをゆっくりと飲んだ。
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