2005
19
Apr |
ここで気になるのが「目白」という地名の由来である。これがよくわからない。 『江戸名所記』(1662年)には、こんな川柳が書かれている。
をしあひてまいりのつどふ寺なれバ めじろ不動と名づけそめけん
(押し合ってお参りの集まる寺だから めじろ不動と名付けたのかな)
目白押しだから目白不動……単なるダジャレである。というわけでこれは置いておこう。ただ、この時代にすでに目白不動と呼ばれていたことだけは間違いない。
十八世紀に入ると、こんな説が定着してくる。
「寛永のころ、御鷹狩りのときに3代将軍家光が本尊を拝み、「城南の目黒に対して目白と呼ぶべし」との将軍の命令があったことから名付けたという」
この説は『江戸砂子』『江府名勝志』『江戸名所図絵』に載っている説である。少なくとも江戸時代後期には定着していたようだ。だが、これはあまりにもできすぎた説だ。そもそも、もし家光命名であれば、一番時代の近い『江戸名所記』にそのことが書かれていないのはおかしい。家光以降しばらくはその説がまったく載っていないところに不安がある。将軍の命名であればそれを由緒に書いても当然ではないかと思うのだが……。また、「家光の鷹狩り」という目黒と同じパターンであるというのもできすぎのような気がする。
そこで参考にしたいのが、『南向茶話』という本の追考部分である。これは1765年に書かれたもので、江戸時代後期のものであるが、この本は小日向地域限定の極めてローカルな由緒記なのである。地元での伝承が最もよく伝わっているのではないだろうか。そこには、こう書かれている。
○目白の称についてのある説。ここの下にある上水の橋を駒形橋という。今、水神の宮といって氷川明神を祀るところに、むかしは駒塚という塚があった。言い伝えによれば、むかしここから白尾の名馬が出たということで、その塚があったという。あるいは右大将(信長?)のときのことであるともいう。そのためにここを目白と称したとか。
つまり、「白い尾の馬」で「目白」説である。目黒の地名の由来でも有力な説として「馬」が由緒になっていたから、この説に軍配を上げたい。ただ、文献が少ないのが痛い。
ちなみに、水神の宮は今も神田川のほとりにひっそりと残っている。

水神社。ボロボロのお宮が残っている。
をしあひてまいりのつどふ寺なれバ めじろ不動と名づけそめけん
(押し合ってお参りの集まる寺だから めじろ不動と名付けたのかな)
目白押しだから目白不動……単なるダジャレである。というわけでこれは置いておこう。ただ、この時代にすでに目白不動と呼ばれていたことだけは間違いない。
十八世紀に入ると、こんな説が定着してくる。
「寛永のころ、御鷹狩りのときに3代将軍家光が本尊を拝み、「城南の目黒に対して目白と呼ぶべし」との将軍の命令があったことから名付けたという」
この説は『江戸砂子』『江府名勝志』『江戸名所図絵』に載っている説である。少なくとも江戸時代後期には定着していたようだ。だが、これはあまりにもできすぎた説だ。そもそも、もし家光命名であれば、一番時代の近い『江戸名所記』にそのことが書かれていないのはおかしい。家光以降しばらくはその説がまったく載っていないところに不安がある。将軍の命名であればそれを由緒に書いても当然ではないかと思うのだが……。また、「家光の鷹狩り」という目黒と同じパターンであるというのもできすぎのような気がする。
そこで参考にしたいのが、『南向茶話』という本の追考部分である。これは1765年に書かれたもので、江戸時代後期のものであるが、この本は小日向地域限定の極めてローカルな由緒記なのである。地元での伝承が最もよく伝わっているのではないだろうか。そこには、こう書かれている。
○目白の称についてのある説。ここの下にある上水の橋を駒形橋という。今、水神の宮といって氷川明神を祀るところに、むかしは駒塚という塚があった。言い伝えによれば、むかしここから白尾の名馬が出たということで、その塚があったという。あるいは右大将(信長?)のときのことであるともいう。そのためにここを目白と称したとか。
つまり、「白い尾の馬」で「目白」説である。目黒の地名の由来でも有力な説として「馬」が由緒になっていたから、この説に軍配を上げたい。ただ、文献が少ないのが痛い。
ちなみに、水神の宮は今も神田川のほとりにひっそりと残っている。

水神社。ボロボロのお宮が残っている。
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