【7】目青不動の流転(2)麻布谷町の観行寺 - まぼろしの五色不動 by 松永英明 マチともの語り-地域・物語り・短編小説
2006
11
Sep
Posted by 松永英明 on 18:59 / Category : まぼろしの五色不動

この像はもと麻布谷町の観行寺の本尊であったが、同寺が廃寺になったので、明治一五年青山南町にあった教学院に移され「青山のお閻魔様」といわれていた。(竹内秀雄著・トップス改訂『東京史跡ガイド13世田谷区史跡散歩』学生社)



 目青不動は、もともと教学院にはなく、麻布谷町の観行寺にあったという。この観行寺という寺院はそれほど大きな寺ではなかったらしく、文献にもほとんど痕跡が残っていない。
 昭和三十五年刊行の『港区史』下巻には、「廃絶転出寺院一覧表」の中に、「麻布地区 真宗 観行寺(谷町) 時期不明」と書かれている。時期不明とあるが、『世田谷区史跡散歩』の記述によれば、廃寺になったのは明治十五年かその少し前ごろだったと考えられる。少なくとも、観行寺という寺が麻布谷町にあったことは裏付けられたといっていいだろう。
 では、麻布谷町とはどこなのか。同じく『港区史』上巻に「麻布谷町 市兵衛町と今井町との台地間にある文字どおり谷の町であり、江戸時代には麻布谷町、麻布今井谷町、麻布西光寺門前などの町屋があり、町屋の付近は御先手組同心大縄地その他の武家屋敷地であった。道源寺坂、三谷(さんや)坂、難歩(南部)坂」とあり、下巻には「谷町=今井谷村、今井谷町。現、赤坂二丁目13番、六本木一丁目1~3番、六本木二丁目1~2番の一部」と書かれている。
 かなり絞り込まれてきた。今も首都高速二号目黒線と三号渋谷線の合流地点「谷町ジャンクション」として、麻布谷町の地名が残っている。
 しかし、切絵図で見たところ、不思議なことがわかった。
 幕末にあたる1854年の地図「赤坂・今井辺図」で探してみると、確かに「勧行寺」が存在している。ところが、それからわずかに前(1850~53年)の「尾張屋版切絵図」では、同じところに「正善寺」と書いてあるのだ。これは、この時期に正善寺→勧行寺と名前を変えたとしか考えられない。
 この寺が改名していたことについては、他の資料もある。昭和五十年に書かれた岡本靖彦氏の「五色不動存疑」という文章には、教学院の住職からの手紙の引用として、次のように記されている。

三 目青不動はもと麻布谷町五十一に在つた「勧行寺」の本尊で、明治十五年同寺が廃寺になつた際、教学院に合併された。勧行寺は旧くは町名が麻布三谷町といつたので、三谷山源理院正善寺と称した。

 麻布谷町には三谷坂の地名があったという。そこで調べてみると、『江戸砂子』に「妙祐山正善寺 上野末 三ツヤ。(天台宗)」とある。「三ツヤ」は「三谷(さんや)」のことだと考えれば、少々名称が違うものの、辻褄はあっている。確かに正善寺は麻布三谷にあった。
 正善寺は天台宗だが、勧行寺は真言宗だったという。しかし、不動像が慈覚大師円仁の作と言い伝えられていること、このあと統合される教学院も天台宗であることから考えると、これは実は真言宗ではなく天台宗だったのではないか、とも思われる。
 この観行寺=正善寺のあった場所は、現在、全日空ホテルやアメリカ大使館、泉ガーデンタワーなどに囲まれたアークタワーズ・イーストになっている。サントリーホールの横手、スペイン大使館の向かいで、六本木一丁目二番に当たる場所だ。目青不動はもともと、赤坂・六本木の高層ビルの谷間に鎮座していたのである。
 しかし、辛うじて寺の名前が載っている程度のマイナーな寺院で、不動尊像があったことすら記録されていない。これが江戸時代に「目青不動」と呼ばれていたという証拠は何もないのである。

 



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とても興味深いことを調べられていらっしゃいますね。先日、私も五色巡拝いたしました。現在の場所を地図で見ても江戸城を中心として考えた場合やはり違和感を感じます。また、立ち寄らせてください。
on 09/03/07 at 13:42:PM