2006
12
Sep |
五色不動をめぐる調査は、ひとまず終わりを迎えた。しかし、これですべてが判明したというわけではない。
たとえば、目白不動の由来についても、もともと目白という地名があったのか、それとも目黒不動にちなんで名付けられた目白不動があったからなのか、現時点でははっきりしていない。
興味深い課題としては、目黒・目白・目赤の三不動(さらに最勝寺目黄不動)には「家光が鷹狩りをしたときに……」という説話が含まれていることが挙げられる。目黒には家光の鷹が留まったという松までが残されているほどだ。
将軍の鷹狩りというのは、他の身分の者には許されず、将軍としての威光を江戸の外延地域で見せつけるものであった。目黒・目白・目赤、さらに本所にあった目黄のいずれもが、江戸とその外側のぎりぎりのライン上にあるがゆえに、鷹狩りとの関連が生まれたものと思われる。だからこそ、「五色不動の内側を朱引内と呼んだ」という誤った伝承も生まれたわけだ。また、江戸の内側にあった永久寺目黄不動と教学院目青不動に鷹狩り伝承が伝わらないのも、また自然なことであると思われる。
鷹狩りは地元にとっては大きな負担であった。しかし、これらの寺院にとっては、鷹狩りにおいて将軍が立ち寄る場所であったと主張することは、自らの格を高め、箔がつくようにという意図があったに違いない。目黒や最勝寺には将軍の御座所まであったというが、これは最高の栄誉であっただろうし、観光地としての寺院のプロモーションには最も適していたはずだ。将軍家光がたまたま立ち寄っただけの目白や目赤でも、それが名前の由来と結びつけられている。今でも「天皇陛下お手植えの松」などが誇らしげに飾られているのと同じ感覚だろうか。事実か自称かは別にして、将軍の命名ということが一種のステータスとなったことがわかる。
しかし、それにしてもなぜ「家光」の鷹狩りでなければならなかったのか。目白不動の新長谷寺は二代将軍秀忠が再建している。秀忠が目白不動と命名したのであってもまったく問題ないはずだ。それなのに、目黒・目白・目赤そろって家光がらみなのである。目赤は年代的に家光以降でなければならないのはわかるが、三つそろって偶然、家光鷹狩りに絡むという事実があったのか、それとも家光ということにすべき何か特別な理由があったのか。この点についてはさらに研究することが必要だろう。
おそらく、この次のステップとしては、「家光の鷹狩り」もしくは「将軍の鷹狩り」を由緒とする江戸の寺院をすべてリストアップし、その共通項、あるいは三不動の特殊性を浮かび上がらせることが必要なのだろうと思われる。つまり、三不動(+最勝寺)が不動だから鷹狩りと結びついたのか――すなわち、不動明王信仰が鷹狩りと何らかの関係を持っていたのか、そうではなく単に江戸の境界にあったから鷹狩り伝承が絡んだのか、という点を含めて考える必要がある。また、なぜ家光なのかという謎も解き明かさねばなるまい。しかし、今はそこまで研究が及んでいないので、これは今後の課題として置いておきたい。
★★★★★★★★★★★
これにてひとまず完結。
途中、連載の中断が長かったにもかかわらず、内容を楽しみにしてくださっていた方々がいらっしゃったことは、非常にうれしい限りです。
実際には、目青・目黄の写真のページを飛ばしています。また、目青・目黄に関しては、実際にその寺院に問い合わせをしてみたいと考えています。その結果を盛り込んだ時点で、本当の完結になります。もしかしたらここまでの結論を覆すような新しい事実が見つかるかもしれません。
たとえば、目白不動の由来についても、もともと目白という地名があったのか、それとも目黒不動にちなんで名付けられた目白不動があったからなのか、現時点でははっきりしていない。
興味深い課題としては、目黒・目白・目赤の三不動(さらに最勝寺目黄不動)には「家光が鷹狩りをしたときに……」という説話が含まれていることが挙げられる。目黒には家光の鷹が留まったという松までが残されているほどだ。
将軍の鷹狩りというのは、他の身分の者には許されず、将軍としての威光を江戸の外延地域で見せつけるものであった。目黒・目白・目赤、さらに本所にあった目黄のいずれもが、江戸とその外側のぎりぎりのライン上にあるがゆえに、鷹狩りとの関連が生まれたものと思われる。だからこそ、「五色不動の内側を朱引内と呼んだ」という誤った伝承も生まれたわけだ。また、江戸の内側にあった永久寺目黄不動と教学院目青不動に鷹狩り伝承が伝わらないのも、また自然なことであると思われる。
鷹狩りは地元にとっては大きな負担であった。しかし、これらの寺院にとっては、鷹狩りにおいて将軍が立ち寄る場所であったと主張することは、自らの格を高め、箔がつくようにという意図があったに違いない。目黒や最勝寺には将軍の御座所まであったというが、これは最高の栄誉であっただろうし、観光地としての寺院のプロモーションには最も適していたはずだ。将軍家光がたまたま立ち寄っただけの目白や目赤でも、それが名前の由来と結びつけられている。今でも「天皇陛下お手植えの松」などが誇らしげに飾られているのと同じ感覚だろうか。事実か自称かは別にして、将軍の命名ということが一種のステータスとなったことがわかる。
しかし、それにしてもなぜ「家光」の鷹狩りでなければならなかったのか。目白不動の新長谷寺は二代将軍秀忠が再建している。秀忠が目白不動と命名したのであってもまったく問題ないはずだ。それなのに、目黒・目白・目赤そろって家光がらみなのである。目赤は年代的に家光以降でなければならないのはわかるが、三つそろって偶然、家光鷹狩りに絡むという事実があったのか、それとも家光ということにすべき何か特別な理由があったのか。この点についてはさらに研究することが必要だろう。
おそらく、この次のステップとしては、「家光の鷹狩り」もしくは「将軍の鷹狩り」を由緒とする江戸の寺院をすべてリストアップし、その共通項、あるいは三不動の特殊性を浮かび上がらせることが必要なのだろうと思われる。つまり、三不動(+最勝寺)が不動だから鷹狩りと結びついたのか――すなわち、不動明王信仰が鷹狩りと何らかの関係を持っていたのか、そうではなく単に江戸の境界にあったから鷹狩り伝承が絡んだのか、という点を含めて考える必要がある。また、なぜ家光なのかという謎も解き明かさねばなるまい。しかし、今はそこまで研究が及んでいないので、これは今後の課題として置いておきたい。
★★★★★★★★★★★
これにてひとまず完結。
途中、連載の中断が長かったにもかかわらず、内容を楽しみにしてくださっていた方々がいらっしゃったことは、非常にうれしい限りです。
実際には、目青・目黄の写真のページを飛ばしています。また、目青・目黄に関しては、実際にその寺院に問い合わせをしてみたいと考えています。その結果を盛り込んだ時点で、本当の完結になります。もしかしたらここまでの結論を覆すような新しい事実が見つかるかもしれません。
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Comments
ふへ
興味深く読ませていただきました。関西には西国三十三カ所などシリーズものがいくつかあって、それらを巡り歩くのがひとつの趣味になっていたりします。いつか、自分も五色不動を一つ一つ訪ねてみたいと思います。松永さんのこのブログがそのときのガイドブックになることは間違いありません。写真の出るのを楽しみにしています。
※前回、コメントしたときにサーバーの不調からか、エントリーがダブってしまいました。ごめんなさい。
on 09/15/06 at 12:58:PM
松永さん、連載が完結したのを心から喜んでいます。
途中の思いがけぬ闘病という困難を乗り越え、退院後に一気に仕上げた気迫から、体調の方もよいのだろうと安心しました。
これから最初から再読し、感想などご連絡すると同時に、今後の電子本化など相談させてください。
途中の思いがけぬ闘病という困難を乗り越え、退院後に一気に仕上げた気迫から、体調の方もよいのだろうと安心しました。
これから最初から再読し、感想などご連絡すると同時に、今後の電子本化など相談させてください。
on 09/18/06 at 05:28:AM






