阪神大震災の記憶のために Ⅱ (六 もういいから)-10年後の既視感 by 上念省三 マチともの語り-地域・物語り・短編小説
阪神大震災の記憶のために Ⅱ (六 もういいから)
author: 上念省三
Posted on 02/21
 たとえば、こんな出来事はどうだ。

   つぎつぎとかんがえられない事態が起こった。それは老人
にもたらされた。帰路に迷い、一晩中雨にうたれて凍え死
ぬ。摂氏四十五度の部屋で躯中の水分が抜け落ちる。餓
死して三週間後、腐臭とともにドアが開けられる。
   (季村敏夫「死を待つ家具」 詩集『日々の、すみか』所収)

 あるいは、燃えさかる街で。

   「もう、いい。もういいから」放たれた言葉と、残したかった
おもい。ときどきおもい起こすことがあり、そのままうつむ
く。

   横顔がゆれ、これで見納めと、髪を切り。胸に焼きつけ。
そのまま背中を向ける。うつむいて。うずくまって。しゃがみ
こんで。横顔ゆれ。
     (季村敏夫「夏の衣」 詩集『日々の、すみか』所収)

 このようなことが出来する事態を、彼は「血で血を洗う」と呼んだ、その心持ちは痛切である。いなくなった者にとってもそうだが、ドアを開けた者、胸に焼きつけた者にとって、なお、いっそう。だが、「血で血を洗う」という言葉には、何者かの悪意や意志が強く感じられ、本来なら(というのは、人類がもう少し賢明であったなら、というほどの意味あいだが)避けうる事態であるように思われるのに対し、このような出来事には、……
 どうだと言えばよいのだろうか。少なくとも、仮設住宅での事態は、避けることができたはずだったろう。悪意はなくとも、想像力や思考の怠惰があったと言ってもいいすぎではないだろう。では、人を下敷きにして倒壊した建物に火が回ってくるなどということは、悪夢以外の何ものでもないが、それを避けられない運命だったと言うだけで慰藉しようとすることには、避けうる過失があったと言うことと同程度の違和感がある。耳をふさいで叫び出したくなるような、やりきれないわだかまりだらけである。
 そのとき、どこにいたのか。それが地震のとき、ということなら、表面的な意味で淡々と答えればいい。私は自宅の2階にいた。
 「そのとき」は、等しく誰もに同じように訪れていた。しかし「それから」は皆に等しかったわけではない。そのとき以後、どこにどのように存在している(いた)のか、と問われてしまうと、途端に答えにくいものとなる。それは誰にとってもそうだったはずで、季村が書きつけた「もちろん私達も含まれていた」を仔細に、どこに含まれていたのか、「私達」とは誰か、と考えることと同じ難しさだ。
 地震のその瞬間における当事者性については、ただ客観的に語ることができるだろう。1995年5時46分の何十秒かの揺れは、この地方の多くの人にとってその時間を境にすべてが変わってしまったという特異点として存在した。5000人を超える人がその時に命を失った。しかし、1000人近い人がその時に受けた何ものかによって後日命を落とした(注1)。それが季村が語る、道に迷ったり餓死したりした老人だ。
 死者は変わらないから、その者らに対して生きている者がどのようにあるのかと測るのが、もっとも定点からの距離を測るにふさわしいと思える。この私はというと、体育館の卓球台だかに寝かされたそれが亡骸であることもわからず、建物の下敷きになった誰かを金髪の青年が助け出そうと喚いているのを見て、何をしているのかもわからなかった。そしてその後の月日においても、たとえば仮設住宅に足を踏み入れたことさえないということからもわかるように、何一つしていない。「それから」の日々において、誇って断言するような事柄ではないが、私はこの災厄に対して当事者ではない。その事態からの遠さこそが、私に壊れを意識させる当のものである。
 叫びだしたくなる。

注1 地震の直後に発表された死者の数は5502名だから、その後931名増えたことになる。

本日:1 今週:5 累計:3056(5/9 15:00より)



この作品のレビューを書きませんか?
TrackBack
トラックバック
このエントリにトラックバックはありません
このトラックバックURLを使ってこの記事にトラックバックを送ることができます。 もしあなたのブログがトラックバック送信に対応していない場合にはこちらのフォームからトラックバックを送信することができます。.