2005
08
Sep |
ケイジはコンクリートを白く塗った建物にいた。
薄暗い、四角い部屋だ。天井には、黒い霧状の、何か不吉な物質が固まっていた。
ケイジは自分が、パリの蚤の市で買った、お気に入りのフェイクファーのコートではなく、黒い服を着ていることに気づいた。硬い襟が首を締めつける。襟元から腹にかけて、金色のボタンが一列に並んでいた。学生服だ。
机が縦横に整列し、正面には黒板があった。黒板の前にツイードの背広を着た男が立ち、口を動かしていた。声は聞こえない。物音は一切しない。背広の男は、喋る素振りをしながら、時折、チョークで黒板に文字を書く。日本語の漢字に似ていたが、まったく見知らぬ記号で、ケイジには読めない。ケイジは机の一つに座っていた。ここは高校じゃないか。僕は高校生なのか?
周りには、制服を着た男女の生徒が座っている。彼らの顔は、黒い霧に隠れて見えなかった。元から顔などなかったのかもしれない。
机には、教科書とノートが広げられていた。教科書の文字は、やはり理解不能の記号だ。ノートにはケイジが自分で描いたスケッチがあった。繊細に葉を広げた欅の絵だ。暗い教室の中、スケッチだけがほのかに明るかった。その絵を見ると、何だか少しだけ安心した。
背広の男がやってきた。教師らしいが、やはり顔はわからない。教師は素早くケイジのノートを取り上げ、高く掲げ、他の生徒たちに示した。生徒たちは反応しない。教師がノートのスケッチを引き裂いた。自分の心臓が、紙になって破られたような気がした。
どうやって入ってきたのか、作業着の兄が、教師に見つからないように、ケイジの机のすぐ横にしゃがみ込んでいた。兄は芝居がかった元気な、諦めを含んだ声で言った。「オヤジの工場は俺が継ぐから、おまえは好きな道に進んで頑張れ。俺は工場を日本一にしてやるよ」
遠くで若い母が呼んでいる。
「敬ちゃん、おかあさんとお絵かきしましょう。クレヨンを持ってらっしゃい」
母も兄も消え、壁には様々な大きさの目が、無数に貼りついていた。目はどれもケイジを見ていた。視線がチリチリとケイジの全身を刺した。背広の教師が、黒板に新たな無意味な記号を書き始めている。
ケイジは立ち上がって逃げようとした。だが、立つことができない。授業が続いている限り、生徒は教室から出ることは許されていないのだ。そして授業は永遠に続く。
シュテーは、マクドナルドでバイトした給料をジーンズの前ポケットに入れ、ベルリンの動物園駅に立っていた。
構内は、汚物の臭いが鼻につく。落書きだらけの四角い灰色の柱が、荒涼と並んでいる。鉄道が発着する轟音が響いた。
シュテーは友達を探していることを思いだした。駅のベンチにたむろしている、麻薬中毒の子供たちのグループに駆け寄って、訊く。
「ケイジを知らないか?」
パンクの、痩せて醜悪な少年が答える。「知らない」彼は客にSMをやらせてクスリ代を稼いでいる。「ケイジ? 変な名前だな。君はヘルマンの友達じゃなかったっけ」
俺が探していたのはヘルマンだっただろうか。シュテーは考える。ケイジ? それは誰だ?
グロテスクなほど濃く化粧をした、ローティーンの少女が言う。ヘロイン中毒者に特有の針のような瞳孔をしていた。「ヘルマンなら、さっきまでそのへんにいたよ。まだ今日は客がついていないみたい。あんなにやつれちゃったら、誰も買ってくれないんじゃない。あたしはああはならないよ」
シュテーは駅構内を走り回り、ヘルマンを探した。バイト代を渡して、だから売春なんて止めさせようと考える。クスリ代に使わないように、やつを見張っていなければ。この前、金を渡そうとしたら、代わりにフェラチオしてあげるよと言った。ヘルマンがまたそんなことを言いだしたら、どうやって拒絶しよう。構内を駆けながら、シュテーはふと、自分が正義感に酔っているのではないかと疑う。
雑踏の中、男が少年の尻を確かめるように撫で、値段の交渉をしている。足早に通り過ぎる『まっとうな』人々。黒い服の、トルコ人の老女がよろけながらどこかに行く。
シュテーは駅のトイレに入った。個室の一つが閉まっている。ノックをするが、応えはない。
「ヘルマン?」
シュテーはかがみ、ドアと床の隙間から個室を覗く。見覚えのあるスニーカーとジーンズ。スニーカーは、シュテーが去年の夏じゅうアルバイトして、ヘルマンの誕生日にプレゼントしたものだ。ヘルマンはスニーカーを愛おしげに抱き、泣きながら、もう薬は止めると言っていたのだが。
「ヘルマン」
血が床にしたたっていた。シュテーはドアを蹴り破った。
痩せ細った十六歳のヘルマンが、白い粉を撒き散らし、便器に腰掛けたまま、天井を睨んでいた。瞳孔が開いている。
棒のような腕には注射器が刺さり、そこから血が噴出し、個室を赤黒く汚して固まっていた。
奇妙に冷静に、シュテーはその光景を眺めた。ヘルマンが死んだ。ヘロインのやりすぎだ。彼はどうしてそんなことをしたのだろう。俺たちは友達だったはずなのに、俺はヘルマンにとって何の救いにもならなかった。
白い粉……ヘロインが、まだ残っている。シュテーは自分もそれを注射することを考えた。そうすればヘルマンと同じ体験ができる。ヘルマンを理解し、ヘルマンと一体化できる。
そうしようか?
シュテーはヘルマンの腕から注射器を抜こうとした。ヘルマンのあどけない顔には、もはや何の感情の痕跡も残っていない。
列車がガラガラと通り過ぎた。
シュテーは目を閉じ、大きく息をつぐ。……これは、以前に体験したことだ。これはもう過ぎてしまった。ヘルマンはとうにいない。
自分はベルリンの動物園駅じゃなく、アムステルダムの地下にいたはずだ。
本当に探している相手の名を思いだした。ケイジ。
シュテーはトイレを出ると、駆けだした。ケイジの名を呼びながら、動物園駅の構内を走っていく。
いつの間にか、アムステルダムの地下通路に戻っていた。
通路にはたくさんのドアが並んでいる。ドアには様々な案内板が掛かっていた。『イスタンブール』『モスクワ』『ブエノスアイレス』……都市名に混じって、『煉獄』『思い出』『母親』などの名詞が見える。それらのドアを開けるとどこに通じるのか、想像もつかない。
『東京』という案内板をようやく見つける。シュテーはノブを回そうとした。今度は、ドアは簡単に開いた。
狭い部屋だった。薄緑色の、日本の畳が敷き詰められ、紙の障子が周囲を取り囲んでいる。
ケイジが奥を向いて、座り込んでいた。
「ケイジ?」
ケイジは振り返らない。シュテーは、そっとケイジの前に回る。
ケイジは白いキャンバスを床に置き、カミソリで手首を切っていた。血がボタボタと、画布に落ちた。
「何やってんだ!」
「あー、シュテー、やあ」
ケイジが顔を上げ、笑った。「絵を描いてるんだよ」
「絵だって? 手首を切ってか?」
「僕はずっと、絵の中に逃げるために絵を描いてきた。僕は絵の中に帰りたいんだよ」
それは死にたいということなのか? 勝手に死なせてくれ、というケイジの言葉が、今更のように蘇る。
「くだらないことは止めろ。そんなに死にたいのか」
「死にたいんじゃない。絵の中で生きたいだけだ。あんたは僕に、いなくなるな、と言った。だったら僕の絵を見ろ」
「絵って……」
『絵』は、キャンバスに朱色の血が垂れただけのものだった。
「もっとよく見ろよ」
ケイジはキャンバスを、障子に立てかけた。
「うまいだろう? パリのアートスクールは追い出されたけど、日本じゃ、ちょっとしたもんだったんだぜ」
「傷の手当てをしよう」
「傷なんてどうでもいい。絵を見ろよ」
「血でできた抽象画なんて悪趣味で陳腐だ」
「抽象画じゃない。僕が描くのは、緻密な風景だよ」
「風景だって? これが?」
大きなキャンバスに広がる血のしぶき。シュテーは、ケイジの意図がまったく理解できない。
「よく見なくちゃ、僕の絵はわからない。絵の中に入り込むようにして……」
ケイジは手を伸ばし、絵に触れた。右手の指先が、溶けるように絵の中に潜り込んだ。ちょうど、水面に手を差し入れた時と同じだ。
ケイジは指先から徐々に、キャンバスに入っていく。シュテーはもう、何が起きても驚かなかった。とにかく、またケイジを見失うのは絶対に御免だった。シュテーはケイジの腰に掴まった。
二人は絵の中に消える。
薄暗い、四角い部屋だ。天井には、黒い霧状の、何か不吉な物質が固まっていた。
ケイジは自分が、パリの蚤の市で買った、お気に入りのフェイクファーのコートではなく、黒い服を着ていることに気づいた。硬い襟が首を締めつける。襟元から腹にかけて、金色のボタンが一列に並んでいた。学生服だ。
机が縦横に整列し、正面には黒板があった。黒板の前にツイードの背広を着た男が立ち、口を動かしていた。声は聞こえない。物音は一切しない。背広の男は、喋る素振りをしながら、時折、チョークで黒板に文字を書く。日本語の漢字に似ていたが、まったく見知らぬ記号で、ケイジには読めない。ケイジは机の一つに座っていた。ここは高校じゃないか。僕は高校生なのか?
周りには、制服を着た男女の生徒が座っている。彼らの顔は、黒い霧に隠れて見えなかった。元から顔などなかったのかもしれない。
机には、教科書とノートが広げられていた。教科書の文字は、やはり理解不能の記号だ。ノートにはケイジが自分で描いたスケッチがあった。繊細に葉を広げた欅の絵だ。暗い教室の中、スケッチだけがほのかに明るかった。その絵を見ると、何だか少しだけ安心した。
背広の男がやってきた。教師らしいが、やはり顔はわからない。教師は素早くケイジのノートを取り上げ、高く掲げ、他の生徒たちに示した。生徒たちは反応しない。教師がノートのスケッチを引き裂いた。自分の心臓が、紙になって破られたような気がした。
どうやって入ってきたのか、作業着の兄が、教師に見つからないように、ケイジの机のすぐ横にしゃがみ込んでいた。兄は芝居がかった元気な、諦めを含んだ声で言った。「オヤジの工場は俺が継ぐから、おまえは好きな道に進んで頑張れ。俺は工場を日本一にしてやるよ」
遠くで若い母が呼んでいる。
「敬ちゃん、おかあさんとお絵かきしましょう。クレヨンを持ってらっしゃい」
母も兄も消え、壁には様々な大きさの目が、無数に貼りついていた。目はどれもケイジを見ていた。視線がチリチリとケイジの全身を刺した。背広の教師が、黒板に新たな無意味な記号を書き始めている。
ケイジは立ち上がって逃げようとした。だが、立つことができない。授業が続いている限り、生徒は教室から出ることは許されていないのだ。そして授業は永遠に続く。
シュテーは、マクドナルドでバイトした給料をジーンズの前ポケットに入れ、ベルリンの動物園駅に立っていた。
構内は、汚物の臭いが鼻につく。落書きだらけの四角い灰色の柱が、荒涼と並んでいる。鉄道が発着する轟音が響いた。
シュテーは友達を探していることを思いだした。駅のベンチにたむろしている、麻薬中毒の子供たちのグループに駆け寄って、訊く。
「ケイジを知らないか?」
パンクの、痩せて醜悪な少年が答える。「知らない」彼は客にSMをやらせてクスリ代を稼いでいる。「ケイジ? 変な名前だな。君はヘルマンの友達じゃなかったっけ」
俺が探していたのはヘルマンだっただろうか。シュテーは考える。ケイジ? それは誰だ?
グロテスクなほど濃く化粧をした、ローティーンの少女が言う。ヘロイン中毒者に特有の針のような瞳孔をしていた。「ヘルマンなら、さっきまでそのへんにいたよ。まだ今日は客がついていないみたい。あんなにやつれちゃったら、誰も買ってくれないんじゃない。あたしはああはならないよ」
シュテーは駅構内を走り回り、ヘルマンを探した。バイト代を渡して、だから売春なんて止めさせようと考える。クスリ代に使わないように、やつを見張っていなければ。この前、金を渡そうとしたら、代わりにフェラチオしてあげるよと言った。ヘルマンがまたそんなことを言いだしたら、どうやって拒絶しよう。構内を駆けながら、シュテーはふと、自分が正義感に酔っているのではないかと疑う。
雑踏の中、男が少年の尻を確かめるように撫で、値段の交渉をしている。足早に通り過ぎる『まっとうな』人々。黒い服の、トルコ人の老女がよろけながらどこかに行く。
シュテーは駅のトイレに入った。個室の一つが閉まっている。ノックをするが、応えはない。
「ヘルマン?」
シュテーはかがみ、ドアと床の隙間から個室を覗く。見覚えのあるスニーカーとジーンズ。スニーカーは、シュテーが去年の夏じゅうアルバイトして、ヘルマンの誕生日にプレゼントしたものだ。ヘルマンはスニーカーを愛おしげに抱き、泣きながら、もう薬は止めると言っていたのだが。
「ヘルマン」
血が床にしたたっていた。シュテーはドアを蹴り破った。
痩せ細った十六歳のヘルマンが、白い粉を撒き散らし、便器に腰掛けたまま、天井を睨んでいた。瞳孔が開いている。
棒のような腕には注射器が刺さり、そこから血が噴出し、個室を赤黒く汚して固まっていた。
奇妙に冷静に、シュテーはその光景を眺めた。ヘルマンが死んだ。ヘロインのやりすぎだ。彼はどうしてそんなことをしたのだろう。俺たちは友達だったはずなのに、俺はヘルマンにとって何の救いにもならなかった。
白い粉……ヘロインが、まだ残っている。シュテーは自分もそれを注射することを考えた。そうすればヘルマンと同じ体験ができる。ヘルマンを理解し、ヘルマンと一体化できる。
そうしようか?
シュテーはヘルマンの腕から注射器を抜こうとした。ヘルマンのあどけない顔には、もはや何の感情の痕跡も残っていない。
列車がガラガラと通り過ぎた。
シュテーは目を閉じ、大きく息をつぐ。……これは、以前に体験したことだ。これはもう過ぎてしまった。ヘルマンはとうにいない。
自分はベルリンの動物園駅じゃなく、アムステルダムの地下にいたはずだ。
本当に探している相手の名を思いだした。ケイジ。
シュテーはトイレを出ると、駆けだした。ケイジの名を呼びながら、動物園駅の構内を走っていく。
いつの間にか、アムステルダムの地下通路に戻っていた。
通路にはたくさんのドアが並んでいる。ドアには様々な案内板が掛かっていた。『イスタンブール』『モスクワ』『ブエノスアイレス』……都市名に混じって、『煉獄』『思い出』『母親』などの名詞が見える。それらのドアを開けるとどこに通じるのか、想像もつかない。
『東京』という案内板をようやく見つける。シュテーはノブを回そうとした。今度は、ドアは簡単に開いた。
狭い部屋だった。薄緑色の、日本の畳が敷き詰められ、紙の障子が周囲を取り囲んでいる。
ケイジが奥を向いて、座り込んでいた。
「ケイジ?」
ケイジは振り返らない。シュテーは、そっとケイジの前に回る。
ケイジは白いキャンバスを床に置き、カミソリで手首を切っていた。血がボタボタと、画布に落ちた。
「何やってんだ!」
「あー、シュテー、やあ」
ケイジが顔を上げ、笑った。「絵を描いてるんだよ」
「絵だって? 手首を切ってか?」
「僕はずっと、絵の中に逃げるために絵を描いてきた。僕は絵の中に帰りたいんだよ」
それは死にたいということなのか? 勝手に死なせてくれ、というケイジの言葉が、今更のように蘇る。
「くだらないことは止めろ。そんなに死にたいのか」
「死にたいんじゃない。絵の中で生きたいだけだ。あんたは僕に、いなくなるな、と言った。だったら僕の絵を見ろ」
「絵って……」
『絵』は、キャンバスに朱色の血が垂れただけのものだった。
「もっとよく見ろよ」
ケイジはキャンバスを、障子に立てかけた。
「うまいだろう? パリのアートスクールは追い出されたけど、日本じゃ、ちょっとしたもんだったんだぜ」
「傷の手当てをしよう」
「傷なんてどうでもいい。絵を見ろよ」
「血でできた抽象画なんて悪趣味で陳腐だ」
「抽象画じゃない。僕が描くのは、緻密な風景だよ」
「風景だって? これが?」
大きなキャンバスに広がる血のしぶき。シュテーは、ケイジの意図がまったく理解できない。
「よく見なくちゃ、僕の絵はわからない。絵の中に入り込むようにして……」
ケイジは手を伸ばし、絵に触れた。右手の指先が、溶けるように絵の中に潜り込んだ。ちょうど、水面に手を差し入れた時と同じだ。
ケイジは指先から徐々に、キャンバスに入っていく。シュテーはもう、何が起きても驚かなかった。とにかく、またケイジを見失うのは絶対に御免だった。シュテーはケイジの腰に掴まった。
二人は絵の中に消える。
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