2007
12
May |
ゴールデンウィークの初日。昨夜の宴会の余韻を引きずる二日酔いを痛感しながらも寝床の中から水戸へ行く決意をした。理由は単純。天気が良くて、さらに時間を持て余していたからだ。
鈍い頭痛と軽い吐き気を我慢しながら、松戸駅からJR常磐線のスーパーひたちに飛び乗った。スーパーひたちは上野から水戸を経由して仙台まで続く特急だ。スーパーひたちは1時間に1本程度の間隔で運行されているのだが、松戸駅に停車するスーパーひたちは午前中の一本だけに限られる。あとは全て通過。
思いつきで家を出たのにもかかわらず、偶然にもその特急に遭遇したというわけだ。
真っ白な流線型のスーパーひたちは、ゴールデンウィークの初日だというのに、自由席には僅かながら空席があった。何の予定もたてずに行き当たりばったりで始めた旅の割にはさい先がよい。自由席のシートに身を沈めてペットボトルのお茶を胃に流し込む。二日酔いの時には、水分を補給してアルコールが体内から消え去るのをひたすら待つしかない。
楽しい宴の後は、いつだって苦しむものだ。
松戸駅を出ると柏駅、我孫子駅を通過して利根川を渡る。取手駅から先は茨城県になる。そして、牛久駅、土浦駅、石岡駅と続いて水戸駅に到着する。
通過した土浦駅は土浦城の城下町であり、その城の形から亀城と呼ばれている。水戸街道の土浦宿があり、土浦駅のすぐ近くには霞ヶ浦が広がっている。戦前と戦中は、この地に土浦海軍航空隊があったそうだ。
次の石岡駅は常陸国の国府が置かれ、かつては常陸府中と呼ばれていた。水戸街道の石岡宿は最終地の水戸宿の一つ手前の宿場町となる。石岡駅から鉾田駅を結ぶ鹿島鉄道が、今年の4月に廃線になったことは記憶に新しい。
松戸駅から1時間ほどで水戸駅に着いた。水戸駅に着いたのは良いが、この先の予定は何も組んでいない。とりあえず改札を抜けて駅の外に出る。2階のコンコースに行くと、すぐに水戸黄門の銅像が目に飛び込んできた。

水戸黄門が助さん格さんを引き連れて旅をしている像だ。やはり水戸といえば、水戸黄門なのだろう。水戸黄門のモデルは徳川光圀だ。しかし、徳川家康の孫で水戸藩2代目藩主の徳川光圀が、水戸黄門のように身分を隠して全国行脚をしたという歴史的な事実はない。どうやら、江戸時代の講談や歌舞伎の題材として流布されたのが現在まで残っているらしい。
徳川光圀の一番の功績としてあげられるのは『大日本史』の編纂を始めたことであろう。『大日本史』は、神武天皇から百代の帝王の治世を記録した歴史書である。徳川光圀が若い頃に司馬遷の歴史書『史記』を読んで感銘を受け、明暦3年(1657)から編纂を始めたものだ。この明暦3年というのは、江戸では明暦の大火が起こり、水戸街道の浅草見附辺りでは大変な被害が発生していた年である。
『大日本史』の編纂事業は、徳川光圀の死後も水戸徳川家の事業として継続して行なわれた。結局、この『大日本史』は、完成までに約250年の歳月が費やされ、全397巻が完成したのは明治39年(1906)であった。
徳川光圀が始めた『大日本史』の編纂事業は、これまで漠然としていた思想体系を整備させ、やがて水戸学と呼ばれる学問の一派へと成長させた。そして、水戸学の尊皇思想は、後の幕末の思想形成に大きな影響を与えることとなるのだ。
徳川光圀の素顔は、放浪の旅こそしてはいないが、かなり好奇心の強い人物であったと伝えられる。歴史上、日本で初めてラーメンや餃子を食べたのは、徳川光圀であったといわれている。
徳川光圀をモデルとした水戸黄門は、現在でもテレビの中で放浪の旅を延々と続けている。毎回毎回、舞台を変化させているが、根本のストーリーはいつまでも不変なままだ。
視聴者は非日常的な変化に憧れを求めている。しかし、その背景は、確固とした普遍的なストーリーで固められているという安心感に守られているのだ。
…つづく
鈍い頭痛と軽い吐き気を我慢しながら、松戸駅からJR常磐線のスーパーひたちに飛び乗った。スーパーひたちは上野から水戸を経由して仙台まで続く特急だ。スーパーひたちは1時間に1本程度の間隔で運行されているのだが、松戸駅に停車するスーパーひたちは午前中の一本だけに限られる。あとは全て通過。
思いつきで家を出たのにもかかわらず、偶然にもその特急に遭遇したというわけだ。
真っ白な流線型のスーパーひたちは、ゴールデンウィークの初日だというのに、自由席には僅かながら空席があった。何の予定もたてずに行き当たりばったりで始めた旅の割にはさい先がよい。自由席のシートに身を沈めてペットボトルのお茶を胃に流し込む。二日酔いの時には、水分を補給してアルコールが体内から消え去るのをひたすら待つしかない。
楽しい宴の後は、いつだって苦しむものだ。
松戸駅を出ると柏駅、我孫子駅を通過して利根川を渡る。取手駅から先は茨城県になる。そして、牛久駅、土浦駅、石岡駅と続いて水戸駅に到着する。
通過した土浦駅は土浦城の城下町であり、その城の形から亀城と呼ばれている。水戸街道の土浦宿があり、土浦駅のすぐ近くには霞ヶ浦が広がっている。戦前と戦中は、この地に土浦海軍航空隊があったそうだ。
次の石岡駅は常陸国の国府が置かれ、かつては常陸府中と呼ばれていた。水戸街道の石岡宿は最終地の水戸宿の一つ手前の宿場町となる。石岡駅から鉾田駅を結ぶ鹿島鉄道が、今年の4月に廃線になったことは記憶に新しい。
松戸駅から1時間ほどで水戸駅に着いた。水戸駅に着いたのは良いが、この先の予定は何も組んでいない。とりあえず改札を抜けて駅の外に出る。2階のコンコースに行くと、すぐに水戸黄門の銅像が目に飛び込んできた。

水戸黄門が助さん格さんを引き連れて旅をしている像だ。やはり水戸といえば、水戸黄門なのだろう。水戸黄門のモデルは徳川光圀だ。しかし、徳川家康の孫で水戸藩2代目藩主の徳川光圀が、水戸黄門のように身分を隠して全国行脚をしたという歴史的な事実はない。どうやら、江戸時代の講談や歌舞伎の題材として流布されたのが現在まで残っているらしい。
徳川光圀の一番の功績としてあげられるのは『大日本史』の編纂を始めたことであろう。『大日本史』は、神武天皇から百代の帝王の治世を記録した歴史書である。徳川光圀が若い頃に司馬遷の歴史書『史記』を読んで感銘を受け、明暦3年(1657)から編纂を始めたものだ。この明暦3年というのは、江戸では明暦の大火が起こり、水戸街道の浅草見附辺りでは大変な被害が発生していた年である。
『大日本史』の編纂事業は、徳川光圀の死後も水戸徳川家の事業として継続して行なわれた。結局、この『大日本史』は、完成までに約250年の歳月が費やされ、全397巻が完成したのは明治39年(1906)であった。
徳川光圀が始めた『大日本史』の編纂事業は、これまで漠然としていた思想体系を整備させ、やがて水戸学と呼ばれる学問の一派へと成長させた。そして、水戸学の尊皇思想は、後の幕末の思想形成に大きな影響を与えることとなるのだ。
徳川光圀の素顔は、放浪の旅こそしてはいないが、かなり好奇心の強い人物であったと伝えられる。歴史上、日本で初めてラーメンや餃子を食べたのは、徳川光圀であったといわれている。
徳川光圀をモデルとした水戸黄門は、現在でもテレビの中で放浪の旅を延々と続けている。毎回毎回、舞台を変化させているが、根本のストーリーはいつまでも不変なままだ。
視聴者は非日常的な変化に憧れを求めている。しかし、その背景は、確固とした普遍的なストーリーで固められているという安心感に守られているのだ。
…つづく
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