物語のなかの下流
猫間川について調べていても、その流れる姿が写っている写真などに巡り合ったことがない。写真に写すほど綺麗な川ではなかった、ということがあるのかもしれないが、それにしても残っていない。
その代わりといっては何だが、大阪砲兵工廠の中を流れていた、ということで複数の物語りの中で、その姿が描写されている。正確には、大阪砲兵工廠「跡」を流れていたために、ということになるだろうか。
私が「白けた感じ」と感じる、今の風景とは隔絶した凄まじい光景が、大阪砲兵工廠跡に戦後しばらく遺されていたらしい。今でいうところの大阪城公園であり、京橋ビジネスパークのビル群であり、JRの車庫であり、焼却場や浄水場などの公的施設であり、私が住んでいた公団住宅である。それらを包括する広大な敷地が、終戦前日の大空襲で完膚なきまで破壊され、そのまま放置されていた。放置されていたといってもこれらの土地は国の管理下にあるということだったらしく、入口にだけ警備員が詰めて立ち入り制限をしているような格好をみせている、という状態だった。今のJR環状線、当時の国鉄城東線はこの荒地の中を走っており、車窓から見える光景は日常の風景の一部でありかつ、近寄り難いという異様なものだったに違いない。第二次世界大戦終戦の一九四五年(昭和二十年)からゆうに十年間はそのままにされ、確たる情報は手元にないがおそらく完全に姿を消すのに一九六十年(昭和三十五年)頃までのかかったのではなかろうか。ひとびとのこころに荒涼とした影響を与えるのに充分だったと想像できる。
さて、京橋のビジネスパークから環状線の線路を挟んで反対側を歩くと、微かに下町のにおいが残っている一帯がある。私が猫間川の河口を探して歩いたのも、この辺りになる。
前述の十年間にこの辺りに集まったひとたちが、砲兵工廠跡の鉄材などを掠めて生計を立てていた。その人々の生活と砲兵工廠跡の荒涼というものは、文筆に才能のあるひとを惹き付ける魅力を持っていたらしい。それは、開高健をして『日本三文オペラ』を為さしめ、梁石日(ヤン・ソギル)をして『夜を賭けて』を為さしめ、小松左京をして『日本アパッチ族』を為さしめた。いずれも時間の経過による風化を許さない力を秘めた作品である。それを「猫間川について調べる」という目的だけで読了したというのは私くらいではなかろうかという気がするのだが、ここでも批評めいた記述は不要のこととして、作品から猫間川の姿だけを引用してみたい。
まず『日本三文オペラ』では、第一章中の舞台説明にあたる箇所でこのように書かれている。
「この廃墟のなかを城東線が横断していることはさきにいったが、その線路に沿って猫間川という名の運河がある。これは深くて、へりがほとんど崖といってもよい急勾配をもち、兵器工場時代には誰もちかづくことができなかった。この猫間川は城東線に沿って荒地のなかを横断し、もうひとつの平野川という運河にT字型にまじわっている。平野川のふちは崖になっていないが、そのかわり底知れないほど泥がよどんでいる。」
(改行は椋にて変更。以下も同様)
これが猫間川の最下流の説明として、最も簡にして要を得た文章であろう。大阪砲兵工廠と終戦前日の大空襲についての回想を読み込んでも、猫間川についての述懐がみあたらないのは、この猫間川下流の形状に一因があったのではないだろうか。さらに、こんな文章もある。警察の取り締まりが厳しくなり、行き詰ってきたところにレールの小山を見つけ、なんとか運び出そうとする。その為に、城東線の線路を使ってしまう。
「城東線は荒野のなかを運河の猫間川に並行して横断していた。運河は深い崖になっている。線路のすぐよこが崖である。線路と崖ぎわのあいだには田んぼの畦くらいの小道が細々とついている。みんなは一列になってそこを通ろうとしたが、道はひとりしか通れず、レールは一本三トンもあって四人でかつがねばならぬ。一歩足を踏みすべらすと崖からてん落する。」
このあと、朝の通勤電車を立ち往生させて、線路を使って渡ってしまうのだが、どうも私が思っていたより線路の近くを川は流れていたらしい。電車から見下ろせる川のことを覚えているひとも、実は多いのかもしれない。
この他、舟で平野川から猫間川に漕ぎ入れて砲兵工廠跡の奥深くまで入ったこと、警察がそれを阻止しようと猫間川の河口に杭を打って対抗したことなども書かれている。本作品が猫間川を一番詳細に描写してくれているようで、妙な感謝をこの先輩――開高健氏が在学した大学に私も居たので――に対してしている。
本書の文庫版の解説を読むと、氏がこの作品を取材するのに、新聞社に部落の親玉に会わせてもらうことになり待っていると、夫人の知り合いで詩人の金時鐘(キム・シジョン)氏が現れたので驚いたこと、意気投合しておそらくは部落に潜入したであろうことが年譜から引用されている。金時鐘氏と『夜を賭けて』の梁石日氏は同じ雑誌の同人であった以来の同志であると聞いている。共通の風景から、テーマも質感も異なる傑作が生まれたことに、この時代のこの地の持っていた空気の魔力を感じる。
その『夜を賭けて』では、巻頭に詩が掲げられていて、猫間川が登場する。
……
おれは恐るべき現実に追いつめられて
猫魔河の泥沼を舟で渡ると
数十本の巨大な煙突が聳え立つ
造兵廠の跡にやってきた……
この作品で私の興味を惹くのが、冒頭の舞台描写が『日本三文オペラ』と少し異なることである。
「城東線の京橋駅を発車すると、電車は二つの鉄橋を渡ることになるが、一つ目は寝屋川であり、二つ目は猫間川(平野川)である。在日朝鮮人最大の密集地域である生野の真ん中を貫通している平野運河が寝屋川と合流するあたりを猫間川と言い、一般的に猫間川は運河と呼ばれていた。この猫間川を境に城東線以西に大阪造兵廠がひろがっている。その猫間川も黒く澱み、川底からメタンガスの噴き出る死の川になっている。」
平野川のある部分が猫間川であるように説明されている。同じ大阪市内で淀川の旧流が大川と呼ばれ、堂島川と土佐堀川に分かれ、角倉了以が指揮して掘削した河口部分が安治川と呼ばれるのと同様な表現になっている。梁石日氏はこの地で暮らした経験を以って書いているはずなのだが、大阪のひとが川に関して案外無頓着なことをあらわしているのかもしれない。
『日本アパッチ族』の冒頭には、一人称の主である「キィ公」、木田福一の手になる地図が載っていてここに猫間川が描かれている。この作品は木田福一による手記の体裁を採っており、地図では現在の大阪城公園及びビジネスパークが塀にかこまれた「追放地」となっていて、猫間川を挟んだ対岸に「ヨセヤ部落」があるように書いてある。現在でいうと猫間川抽水所やゴミ焼却場がある辺りである。猫間川は森之宮駅の手前で終わっているように、短く描かれている。
まず「ヨセヤ部落」だが、朝鮮人の部落である。ここにすむひとたちとアパッチは「交易」をはじめる。
彼らのうちの最初のいかれぽんちが、ふらふらと運河をくぐりぬけた時には……
運河をくぐりぬけて部落に入り込んだことがきっかけで、アパッチは屑鉄を供給し、部落側は見返りに塩酸や硫酸、ガソリンを「飲料」として提供するようになる。地図からして、また『夜を賭けて』の冒頭の記述と考え合わせて、「運河」は猫間川を指すと考えてよいだろう。いかれぽんち酋長(名前である。彼は交易のきっかけをつくった功績から酋長に抜擢される)は猫間川の崖を這い登ったことになる。
この「ヨセヤ部落」の場所と、『日本三文オペラ』から読み取れる実際の部落の位置は違う。本当は平野川を挟んで北側にあったはずで、この地図は恐らく創作上の脚色が加えられているはずである。
それはいい。猫間川のことだ。
地図上の猫間川が森之宮あたりでもう終わっているというのは、猫間川単独の流路について印象が薄かったことをあらわすのかもしれない。小松左京氏が執筆された頃(まえがきから考えて、恐らく一九六四年ごろ)には猫間川は埋め立てられていたはずで、余計記憶になかったのかもしれない。
この三作品だけでも、猫間川下流域の姿を知るのに写真よりも豊かに役立ってくれる。探せば、まだ他にも「この時代のこの地」を描いた作品はあるかもしれない。

手元にある光文社文庫『日本アパッチ族』の地図を、椋が模写・加筆したもの
その代わりといっては何だが、大阪砲兵工廠の中を流れていた、ということで複数の物語りの中で、その姿が描写されている。正確には、大阪砲兵工廠「跡」を流れていたために、ということになるだろうか。
私が「白けた感じ」と感じる、今の風景とは隔絶した凄まじい光景が、大阪砲兵工廠跡に戦後しばらく遺されていたらしい。今でいうところの大阪城公園であり、京橋ビジネスパークのビル群であり、JRの車庫であり、焼却場や浄水場などの公的施設であり、私が住んでいた公団住宅である。それらを包括する広大な敷地が、終戦前日の大空襲で完膚なきまで破壊され、そのまま放置されていた。放置されていたといってもこれらの土地は国の管理下にあるということだったらしく、入口にだけ警備員が詰めて立ち入り制限をしているような格好をみせている、という状態だった。今のJR環状線、当時の国鉄城東線はこの荒地の中を走っており、車窓から見える光景は日常の風景の一部でありかつ、近寄り難いという異様なものだったに違いない。第二次世界大戦終戦の一九四五年(昭和二十年)からゆうに十年間はそのままにされ、確たる情報は手元にないがおそらく完全に姿を消すのに一九六十年(昭和三十五年)頃までのかかったのではなかろうか。ひとびとのこころに荒涼とした影響を与えるのに充分だったと想像できる。
さて、京橋のビジネスパークから環状線の線路を挟んで反対側を歩くと、微かに下町のにおいが残っている一帯がある。私が猫間川の河口を探して歩いたのも、この辺りになる。
前述の十年間にこの辺りに集まったひとたちが、砲兵工廠跡の鉄材などを掠めて生計を立てていた。その人々の生活と砲兵工廠跡の荒涼というものは、文筆に才能のあるひとを惹き付ける魅力を持っていたらしい。それは、開高健をして『日本三文オペラ』を為さしめ、梁石日(ヤン・ソギル)をして『夜を賭けて』を為さしめ、小松左京をして『日本アパッチ族』を為さしめた。いずれも時間の経過による風化を許さない力を秘めた作品である。それを「猫間川について調べる」という目的だけで読了したというのは私くらいではなかろうかという気がするのだが、ここでも批評めいた記述は不要のこととして、作品から猫間川の姿だけを引用してみたい。
まず『日本三文オペラ』では、第一章中の舞台説明にあたる箇所でこのように書かれている。
「この廃墟のなかを城東線が横断していることはさきにいったが、その線路に沿って猫間川という名の運河がある。これは深くて、へりがほとんど崖といってもよい急勾配をもち、兵器工場時代には誰もちかづくことができなかった。この猫間川は城東線に沿って荒地のなかを横断し、もうひとつの平野川という運河にT字型にまじわっている。平野川のふちは崖になっていないが、そのかわり底知れないほど泥がよどんでいる。」
(改行は椋にて変更。以下も同様)
これが猫間川の最下流の説明として、最も簡にして要を得た文章であろう。大阪砲兵工廠と終戦前日の大空襲についての回想を読み込んでも、猫間川についての述懐がみあたらないのは、この猫間川下流の形状に一因があったのではないだろうか。さらに、こんな文章もある。警察の取り締まりが厳しくなり、行き詰ってきたところにレールの小山を見つけ、なんとか運び出そうとする。その為に、城東線の線路を使ってしまう。
「城東線は荒野のなかを運河の猫間川に並行して横断していた。運河は深い崖になっている。線路のすぐよこが崖である。線路と崖ぎわのあいだには田んぼの畦くらいの小道が細々とついている。みんなは一列になってそこを通ろうとしたが、道はひとりしか通れず、レールは一本三トンもあって四人でかつがねばならぬ。一歩足を踏みすべらすと崖からてん落する。」
このあと、朝の通勤電車を立ち往生させて、線路を使って渡ってしまうのだが、どうも私が思っていたより線路の近くを川は流れていたらしい。電車から見下ろせる川のことを覚えているひとも、実は多いのかもしれない。
この他、舟で平野川から猫間川に漕ぎ入れて砲兵工廠跡の奥深くまで入ったこと、警察がそれを阻止しようと猫間川の河口に杭を打って対抗したことなども書かれている。本作品が猫間川を一番詳細に描写してくれているようで、妙な感謝をこの先輩――開高健氏が在学した大学に私も居たので――に対してしている。
本書の文庫版の解説を読むと、氏がこの作品を取材するのに、新聞社に部落の親玉に会わせてもらうことになり待っていると、夫人の知り合いで詩人の金時鐘(キム・シジョン)氏が現れたので驚いたこと、意気投合しておそらくは部落に潜入したであろうことが年譜から引用されている。金時鐘氏と『夜を賭けて』の梁石日氏は同じ雑誌の同人であった以来の同志であると聞いている。共通の風景から、テーマも質感も異なる傑作が生まれたことに、この時代のこの地の持っていた空気の魔力を感じる。
その『夜を賭けて』では、巻頭に詩が掲げられていて、猫間川が登場する。
……
おれは恐るべき現実に追いつめられて
猫魔河の泥沼を舟で渡ると
数十本の巨大な煙突が聳え立つ
造兵廠の跡にやってきた……
この作品で私の興味を惹くのが、冒頭の舞台描写が『日本三文オペラ』と少し異なることである。
「城東線の京橋駅を発車すると、電車は二つの鉄橋を渡ることになるが、一つ目は寝屋川であり、二つ目は猫間川(平野川)である。在日朝鮮人最大の密集地域である生野の真ん中を貫通している平野運河が寝屋川と合流するあたりを猫間川と言い、一般的に猫間川は運河と呼ばれていた。この猫間川を境に城東線以西に大阪造兵廠がひろがっている。その猫間川も黒く澱み、川底からメタンガスの噴き出る死の川になっている。」
平野川のある部分が猫間川であるように説明されている。同じ大阪市内で淀川の旧流が大川と呼ばれ、堂島川と土佐堀川に分かれ、角倉了以が指揮して掘削した河口部分が安治川と呼ばれるのと同様な表現になっている。梁石日氏はこの地で暮らした経験を以って書いているはずなのだが、大阪のひとが川に関して案外無頓着なことをあらわしているのかもしれない。
『日本アパッチ族』の冒頭には、一人称の主である「キィ公」、木田福一の手になる地図が載っていてここに猫間川が描かれている。この作品は木田福一による手記の体裁を採っており、地図では現在の大阪城公園及びビジネスパークが塀にかこまれた「追放地」となっていて、猫間川を挟んだ対岸に「ヨセヤ部落」があるように書いてある。現在でいうと猫間川抽水所やゴミ焼却場がある辺りである。猫間川は森之宮駅の手前で終わっているように、短く描かれている。
まず「ヨセヤ部落」だが、朝鮮人の部落である。ここにすむひとたちとアパッチは「交易」をはじめる。
彼らのうちの最初のいかれぽんちが、ふらふらと運河をくぐりぬけた時には……
運河をくぐりぬけて部落に入り込んだことがきっかけで、アパッチは屑鉄を供給し、部落側は見返りに塩酸や硫酸、ガソリンを「飲料」として提供するようになる。地図からして、また『夜を賭けて』の冒頭の記述と考え合わせて、「運河」は猫間川を指すと考えてよいだろう。いかれぽんち酋長(名前である。彼は交易のきっかけをつくった功績から酋長に抜擢される)は猫間川の崖を這い登ったことになる。
この「ヨセヤ部落」の場所と、『日本三文オペラ』から読み取れる実際の部落の位置は違う。本当は平野川を挟んで北側にあったはずで、この地図は恐らく創作上の脚色が加えられているはずである。
それはいい。猫間川のことだ。
地図上の猫間川が森之宮あたりでもう終わっているというのは、猫間川単独の流路について印象が薄かったことをあらわすのかもしれない。小松左京氏が執筆された頃(まえがきから考えて、恐らく一九六四年ごろ)には猫間川は埋め立てられていたはずで、余計記憶になかったのかもしれない。
この三作品だけでも、猫間川下流域の姿を知るのに写真よりも豊かに役立ってくれる。探せば、まだ他にも「この時代のこの地」を描いた作品はあるかもしれない。
手元にある光文社文庫『日本アパッチ族』の地図を、椋が模写・加筆したもの
本日:2
今週:15
累計:7401(5/9 15:00より)
on 07/22 at 01:11:AM
中九兵衛様コメントをありがとうございます。ご教示頂いた「長谷川家文書」は目を通せていない資料のひとつです。ありがとうございます。
>併せて、「狭山西除川」かつまた「猫間川」、桑津村領にて落合候ゆえ、このつかえ水、南田辺村・砂子(すなご、今の針中野)村・桑津村、水難多き場所にて候
という部分は「源ヶ橋あたりから、南をのぞむ」http://machi.monokatari.jp/... で述べたことの証拠のひとつとなるものです。
この『城連寺村記録/乾』は「宝永元申年迄は」という文言が複数出てくるので大和川付け替えの後に、それ以前の有様を書き残したものと思われます(宝永元年は大和川付け替えの始まった年)。「付け替え前は、水はけが悪くて大変だったんだよ」ということが書かれているようですね。城連寺村は付け替え賛成派だったということなのでしょうか。資料を改めて入手してみたいと思います。
on 07/23 at 16:26:PM
先の史料が猫間川の支流が桑津村近くで合流していた裏付けにもなったようで、無駄ではなかったことを喜んでいます。城連寺村は新川筋近くなので、つけかえには反対していました。
これほど水害のある場所で、西は天井川である西除川の堤防がある上に、北に新川堤防が出来て、水のはけ場がなくなることや、領地が川底になったり分断されることを恐れました。
旧大和川筋と同様、新川を分断する川も全て末流は大坂城の北で淀川に合流していたわけですから、洪水の主要因は同じであったと考えられます。新川予定地も元々洪水に悩まされていた地域と言えると思います。
詳しく拙書『甚兵衛と大和川』(2004年1月刊)を参照願えれば幸いです。送付先をメールででもお教え願えれば、贈呈させていただきます。
on 07/25 at 07:27:AM
中九兵衛様> 城連寺村は新川筋近くなので、つけかえには反対していました。
おっしゃる通りのようで、再確認したら城連寺村は現在の松原市天美北あたりで、領地は大和川の新川筋に削られて、その名残で天美北は大和川対岸にも「領地」が今もあるようですね。
私、中さんのお名前をみてすぐに気付くべくべきだったのですが、大和川付け替えの主導者中勘兵衛氏のご子孫でいらっしゃるのですね?大阪日日新聞の記事(→http://www.nnn.co.jp/dainic...)を読んで私は冷や汗をかきました。(うわっ、第一人者に何知ったようなコメント返してるねん)と。
ご著書の件、是非別途ご連絡させて頂きます。
ニシロク
on 09/18 at 17:14:PM
本日『夜を賭けて』を読破し、描かれている場所がまさに私の住んでいる所(マンション)が舞台でしたので興奮し、以前見た記憶を呼び起こし、ツイン21のサンクスの奥にあるホールのような所の展示を再訪してきました所、ありました古地図が。それによると猫間川は城東線の東ではなく西側に沿って流れていたようです。また、旧平野川の北岸を歩くと登場人物の日本名の表札がチラホラとありました。バラックも。
on 09/23 at 01:54:AM
ニシロク様一昨年でしたか、久しぶりに鴫野あたりを歩きましたら、駐車場だった場所ですとか、潰されてマンションがまた増えていたように感じました。ますます風景は変わっている。
猫間川と直接関係ない話ですが、この作品にしても、梁石日さんが書いた文章を見ると大河が流れるのを見るようで、その力量には息を呑む思いがします。その前半の舞台があの辺りなのか、と思うと夢のような思いがしますね。
>猫間川は城東線の東ではなく西側に沿って流れていたようです。
河口付近(現在の大阪城公園駅)の辺りでは西側を沿って流れていたと、私も理解しています。森之宮との駅の間で線路が川を跨いでいたようで、それより南では東側を流れていました。
on 12/18 at 10:03:AM
はじめまして。平野生まれのTAMO2と申します。以下の写真なんか、参考になるのではないかと思います。
(ご存知でしたらすいません)
http://mapbrowse.gsi.go.jp/...
なお、リンクがうまくいかないときは、以下から飛べます。
空中写真閲覧サービス(試験公開)
http://mapbrowse.gsi.go.jp/...
小生が子供の頃は、逆に八尾市内の平野川の上流がどのようになっているか興味があって、自転車で良くさかのぼったものです。
昭和四十年代後半の頃のお話です。
もう、すっかり風景が変わりました。
では
on 12/19 at 01:05:AM
TAMO2様椋です。ありがとうございます。
国土地理院のページ、認識はしております。が……
明治時代に作成された陸軍参謀本部による地図では猫間川の河口部分が平野川に合流する部分、平行になって合流しているように見え、私が河口跡だとおもっている場所と形状が違うので、そこが謎のままだったりします。
教えて頂いた部分でも同じようになっていて、戦後の地形ですから、やっぱりおもっているのと違うけどどうだろう、と疑問を新たにしました。
実は教えて頂いた閲覧サービスも自力で見つけたわけではなく、この場で教えてもらったものでした。このようなサービスがあることも、それを教えて頂けるのも、誠に便利でまたありがたいことです。
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■『城連寺村記録/乾』(長谷川家文書・『松原市史史料編』所収)
*川上にて、南表より主に下り候大井路は「大乗川筋」と申し候
宝永元申年迄は、小山村領東より太田村領を経て、木本村領・六反・長原領へ落込、
出戸村領へ流入、それより「了意川」へ落込申し候
これにより、木本村・六反村・長原村・出戸村は水所にて、仮初にも水難これ有り。
于今(今おいて)、長原村東田地、四百石場、沼と名目申し伝え候
*これより下、藤井寺・岡・小山領へ、南より下る井路有り
同断、岡村領・若林村、池の中へ向い、南より下る大井路有り
このほか所々、南は石川の北、羽曳野山より次第に北へ流れ来り候水道、数多(あまた)これ有り
*川下にて、南表より主に下り候大井路は、「駒川」「今川」と申し候
宝永元申年迄は、(今川は?)三宅村領より西瓜破村領へ落込、西瓜破末田地・住道(すんじ)村末田地・湯谷嶋(ゆやしま、今の湯里)村・喜連村・平野郷、いずれも水所にて、不時の雨にも大水下り水難に逢い申し候
住道村北田地、四百石程、沼と于今、名目申し候
併せて、「狭山西除川」かつまた「猫間川」、桑津村領にて落合候ゆえ、このつかえ水、南田辺村・砂子(すなご、今の針中野)村・桑津村、水難多き場所にて候
(桑津:摂津国住吉郡、500石、標高5m、上町台地東側低湿地)
*この外、
三宅村寺池へ向う「大海池(おおがいけ)」余ケ(除け)、別所村溜池余ケ、落ち下り候悪水多しく候。
*右の分、落堀川へ残らず落込み、下花田村領并に浅香山谷口にて大和川と落合い申し候