鵲橋幻影
大阪砲兵工廠跡の中を猫間川を遡り、現在の森之宮駅近辺まで行ってみたい。ここまでくると、おそらく猫間川最初の橋に出会ったはずである。鵲橋(かささぎばし)という。砲兵工廠が稼動していた明治から昭和にかけての時期にはさすがに不便だったのか、河口に橋が架けてあったようなのだが(地図では「仮橋」と書かれている)、川が輸送路として充分に機能していた明治前期以前は最下流の橋はこの鵲橋だったはずである。戦後は森之宮橋という新しい、自動車及び市電が通るための橋に架け替えられていたらしい。
この橋は、どこに在ったのか、正確なところまで推し量るのか難しい。
現在の森之宮には中央大通りという、東大阪から大阪港までを東西に貫く幹線道路が通っており、その上には阪神高速道路東大阪線の高架道路が覆いかぶさっている。これらの道路はいったん空襲により焼け野原になったこの地に戦後新たに引かれた線であって、それまでの区画を塗りつぶして走っている。猫間川についてはその流路は分かっていて、大阪環状線から一本外側を並行して通っている細い道路がそれである。この道路は、森之宮駅近くでは居酒屋などのお店が並んでいて、「森之宮駅前商店会」と書かれた看板かそこここにが掲げられている。しかし、その猫間川を東西に渡っていたみちの方が中央大通りに塗り潰されて見当がつかないのである。私は森之宮在住時代、自転車で駅まで出て市営地下鉄中央線に乗るというのが朝の行動パターンだったが、自転車置き場は猫間川の川筋跡の向こう、玉造筋沿いにあったので、考えようによっては毎日鵲橋を渡って行き来していたといえなくはない。
かろうじて我々に遺されているのは鵲森宮(かささぎもりのみや)という社になる。
江戸期の古地図を見ていると、この神社は「用明天皇」と記載されていて、「四天王寺故地」という説明書き、「亀井」という井戸が合わせて書かれている、という例にしばしば行き当たる。用明天皇が祭神であり、祭ったのが息子である聖徳太子という縁起になっている。日本書紀の推古天皇の時代の記述には「六年(西暦五九八年)四月、新羅に遣わされていた難波吉士磐金(なにわのきし いわかね)が鵲のつがいを持ち帰って献上し、それを難波杜に放し飼いにした」という記述がある。難波吉士は一族でもって外交を専らとした家柄で、朝鮮半島に出自を持っていた。きし、は地名や苗字(岸や貴志に転移している)にしばしば見られるが、朝鮮半島のことばである官職を示す言葉であったようだ。難波杜がどこかは不詳だが、鵲森宮の縁起によればここに森が広がっていた、ということになる。ただ、「鵲森宮」と呼ぶようになったのは明治の国家神道誕生以後のことではなかろうかというのが私の推測である。橋が鵲橋であったのは江戸期以前からであり、社は「用明天皇」社として、亀井の水(霊水であると聖徳太子が定めた)の土俗的な信仰と鵲の伝説で一般に知られていたのであろう。古地図で「鵲森宮」「森之宮神社」などと書かれているのは見たことがない。
さて、この神社が現在は悲しくなるほど狭い場所に閉じ込められている。一方が森之宮で中央大通りと交差している玉造筋に面している。残りの三方はビルに囲まれて箱庭のようになっており、陽もなかなか当たらない。社の背後のビルなどは、パチンコ屋が入っているのである。私は七年間森之宮に起居したが、この神社の境内に足を運んだことは数えるほどしかない。初詣には、一度も訪れていない。気がつかなかった、というのが正直なところであり、申し訳ないような、同情を禁じえないような気持ちになる。
この境内には大伴家持の歌碑がある。
かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きをみれば 夜ぞふけにける
この歌碑を初めてみたとき、私は(大伴家持は猫間川のほとりでこの秀歌を詠んだのか)などと考えたりしたが、おおいに早とちりであって、牽牛織姫の伝説でふたりがいちねんに一度会う時の橋を鵲がつくる、という伝説を夜空を見上げて思い出しうたったか、平城宮中にかかるおそらくは小さな橋を眺めながらその伝説を思い出しつくったか、いずれかだろうというのが一般的な解釈であるようだ。もちろん、私の早とちりが本当だったらそれはそれで面白いが、この伝説のおかげで「鵲橋」は全国各地にあるらしく、近くでは京街道が枚方において天野川を渡る橋が、鵲橋である。もちろんこの橋の場合は川が「あまのがわ」だからこの名なのであろう。家持の創作年譜など残されておらず、これらの橋がそれぞれにこの秀歌の由緒を競うこととなっているようで、誠に騒々しい。
私の手元にある古地図の複製には江戸時代のものが二種類あるが、貞亨四年(一六八七年)刊という『大坂大絵図』には「用明天皇」社は載っているが鵲橋は描かれていない。災害で橋が落ちたままだったのかもしれないし、そもそも橋が必要なほどのまちは川向こうには開けていなかったのではないかともおもわれる。いずれにせよ、家持の時代にそもそも橋がかかっていたと私が考えたのは、おめでたいことなのかもしれない。
私はこの清浄かもしれないが窮屈な境内よりも、猫間川筋あとの居酒屋たちならぶ「駅前商店会」のみちが好きであり、今でもこちらばかり訪れる。マンホールの傍で座り込むと、水が流れる音が聞こえる。最初これを聞いたとき、(探していた猫間川が流れるおとだ)と感動を覚えた。河口らしきものを見つけたときと同様の、屈折した感動である。いまも、クラクションを鳴らされないように気をつけながら、下水管の流れる音を聞いてみることがある。

森之宮、中央大通りの北側から、「猫間川の上流」を望む。この視界のどこかに鵲橋がかかっていた
この橋は、どこに在ったのか、正確なところまで推し量るのか難しい。
現在の森之宮には中央大通りという、東大阪から大阪港までを東西に貫く幹線道路が通っており、その上には阪神高速道路東大阪線の高架道路が覆いかぶさっている。これらの道路はいったん空襲により焼け野原になったこの地に戦後新たに引かれた線であって、それまでの区画を塗りつぶして走っている。猫間川についてはその流路は分かっていて、大阪環状線から一本外側を並行して通っている細い道路がそれである。この道路は、森之宮駅近くでは居酒屋などのお店が並んでいて、「森之宮駅前商店会」と書かれた看板かそこここにが掲げられている。しかし、その猫間川を東西に渡っていたみちの方が中央大通りに塗り潰されて見当がつかないのである。私は森之宮在住時代、自転車で駅まで出て市営地下鉄中央線に乗るというのが朝の行動パターンだったが、自転車置き場は猫間川の川筋跡の向こう、玉造筋沿いにあったので、考えようによっては毎日鵲橋を渡って行き来していたといえなくはない。
かろうじて我々に遺されているのは鵲森宮(かささぎもりのみや)という社になる。
江戸期の古地図を見ていると、この神社は「用明天皇」と記載されていて、「四天王寺故地」という説明書き、「亀井」という井戸が合わせて書かれている、という例にしばしば行き当たる。用明天皇が祭神であり、祭ったのが息子である聖徳太子という縁起になっている。日本書紀の推古天皇の時代の記述には「六年(西暦五九八年)四月、新羅に遣わされていた難波吉士磐金(なにわのきし いわかね)が鵲のつがいを持ち帰って献上し、それを難波杜に放し飼いにした」という記述がある。難波吉士は一族でもって外交を専らとした家柄で、朝鮮半島に出自を持っていた。きし、は地名や苗字(岸や貴志に転移している)にしばしば見られるが、朝鮮半島のことばである官職を示す言葉であったようだ。難波杜がどこかは不詳だが、鵲森宮の縁起によればここに森が広がっていた、ということになる。ただ、「鵲森宮」と呼ぶようになったのは明治の国家神道誕生以後のことではなかろうかというのが私の推測である。橋が鵲橋であったのは江戸期以前からであり、社は「用明天皇」社として、亀井の水(霊水であると聖徳太子が定めた)の土俗的な信仰と鵲の伝説で一般に知られていたのであろう。古地図で「鵲森宮」「森之宮神社」などと書かれているのは見たことがない。
さて、この神社が現在は悲しくなるほど狭い場所に閉じ込められている。一方が森之宮で中央大通りと交差している玉造筋に面している。残りの三方はビルに囲まれて箱庭のようになっており、陽もなかなか当たらない。社の背後のビルなどは、パチンコ屋が入っているのである。私は七年間森之宮に起居したが、この神社の境内に足を運んだことは数えるほどしかない。初詣には、一度も訪れていない。気がつかなかった、というのが正直なところであり、申し訳ないような、同情を禁じえないような気持ちになる。
この境内には大伴家持の歌碑がある。
かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きをみれば 夜ぞふけにける
この歌碑を初めてみたとき、私は(大伴家持は猫間川のほとりでこの秀歌を詠んだのか)などと考えたりしたが、おおいに早とちりであって、牽牛織姫の伝説でふたりがいちねんに一度会う時の橋を鵲がつくる、という伝説を夜空を見上げて思い出しうたったか、平城宮中にかかるおそらくは小さな橋を眺めながらその伝説を思い出しつくったか、いずれかだろうというのが一般的な解釈であるようだ。もちろん、私の早とちりが本当だったらそれはそれで面白いが、この伝説のおかげで「鵲橋」は全国各地にあるらしく、近くでは京街道が枚方において天野川を渡る橋が、鵲橋である。もちろんこの橋の場合は川が「あまのがわ」だからこの名なのであろう。家持の創作年譜など残されておらず、これらの橋がそれぞれにこの秀歌の由緒を競うこととなっているようで、誠に騒々しい。
私の手元にある古地図の複製には江戸時代のものが二種類あるが、貞亨四年(一六八七年)刊という『大坂大絵図』には「用明天皇」社は載っているが鵲橋は描かれていない。災害で橋が落ちたままだったのかもしれないし、そもそも橋が必要なほどのまちは川向こうには開けていなかったのではないかともおもわれる。いずれにせよ、家持の時代にそもそも橋がかかっていたと私が考えたのは、おめでたいことなのかもしれない。
私はこの清浄かもしれないが窮屈な境内よりも、猫間川筋あとの居酒屋たちならぶ「駅前商店会」のみちが好きであり、今でもこちらばかり訪れる。マンホールの傍で座り込むと、水が流れる音が聞こえる。最初これを聞いたとき、(探していた猫間川が流れるおとだ)と感動を覚えた。河口らしきものを見つけたときと同様の、屈折した感動である。いまも、クラクションを鳴らされないように気をつけながら、下水管の流れる音を聞いてみることがある。
森之宮、中央大通りの北側から、「猫間川の上流」を望む。この視界のどこかに鵲橋がかかっていた
本日:2
今週:10
累計:4668(5/9 15:00より)
この作品のレビューを書きませんか?
TrackBack
トラックバック
このエントリにトラックバックはありません
このトラックバックURLを使ってこの記事にトラックバックを送ることができます。
もしあなたのブログがトラックバック送信に対応していない場合にはこちらのフォームからトラックバックを送信することができます。.






