中道の湾曲-猫間川をさがせ by 椋 康雄 マチともの語り-地域・物語り・短編小説
中道の湾曲
author: 椋 康雄
Posted on 03/19
 森之宮から猫間川の川筋跡を南に下ると、「北中道銀座通り」という通りとの交差点に差し掛かる。角にはサクラクレパスの本社ビルが角にそびえたち、「銀座通り」を右に曲がってJR環状線をくぐると森下仁丹の本社の長い壁を見ることになる。このみちをさらに西に行くと、玉造稲荷に行くことができる。

 玉造稲荷は何度か境内を歩いたものだったが、「猫間川浚渫碑」なるものがあるのを見落としていた。そのような碑があるらしいことは知識としては知っていたのだが、石碑に対する先入観から、それが知っているところの浚渫碑だとは気づかなかったらしい。これは天保九年(一八三八年)に川底に砂がたまり水深が浅くなって舟の運行に支障が出た猫間川を川ざらえしたことを記念して建てられた。この浚渫の時点で、既に大和川の付け替え工事から百二十年経過している。猫間川がどこに源流を持っていたのかというと、せいぜい大阪市内という理解でいるのだが、南大阪の深いところからも水を得ていたという記述を目にしたことがあり、どちらが正確なのか確かめる必要があるがこれは後日のこととしたい。もし大阪南部からも流れていたとすれば、大和川の付け替えは猫間川の水量に深刻な影響を与えたはずである。

 それでもこの浚渫の時には猫間川流域は華やいだらしい。通る舟が増えてにぎやかだったろうし、流域にも草木が植えられて賑わったという記述を読んだ記憶がある。

 冒頭の交差点を過ぎると、みちは大きく左に湾曲している。この湾曲はこの部分が人が手を加える以前の、自然の川の流れだったことを示している。現在もここより東を流れている平野川もこの辺りで猫間川に向かって湾曲しており、もともとこの辺りで二本の川は分かれていたらしい。つまり現在の東成区中道、昔の中道村はこの二本の川でつくられた三角州だったわけで、中道という地名は中州であったことの名残ではないかというのが私見である。『角川日本地名大辞典』には奈良街道の大坂から奈良への途中の地だったことから中道と呼ばれるようになったという説を収めているが、どうだろうか。

 猫間川は平野川からのこの地点での分流とは別に、この辺りから南への素直な流路もとっていた。というよりは、通常猫間川という場合はこの素直な方の南への流れを指す。その流路は今もそのまま道路になっているので分かるが、この不自然なほどのカーブのあとは拍子抜けするほど真っ直ぐになって玉造へと向かっている。この流路の方が人が手を加えた運河としての猫間川である。難波宮の時代、特に最初の孝徳天皇による大化の改新のころの造営による条里制の痕跡を残す流路であり、大坂城の堀としての役割をになった流路である。こちらの流路も決して歴史が浅くないことをおもうと、奈良街道が猫間川(人の手による方の流路)と平野川との間の「中洲」を通る地区が「中道」なのかもしれない。

 平野川について言及したのを機に、疎開道路についても書いておきたい。再度冒頭の交差点に戻るが、今度は左に曲がって歩道をしばらくあるいて最初の交差点の手前で立ち止まって頂きたい。「北中道銀座通り竣工記念」という石碑が見つかる。昭和六十年に設置されたらしい碑の説明文を読むと、こう書いてある。

 此の道路は通称銀座通りと呼ばれ、戦時中の強制拡張のまま
 四十数年の永きにわたり放置され、地元住民に種々迷惑を
 かけしところなり、(以下略)

「疎開道路」は現在の住所でいえば東成区から生野区にかけてを南北に走る道路であり、第二次世界大戦中に空襲による延焼を食い止める、という名目で住民が強制疎開させられてできたといういわれでもって知られている。終戦直前の空襲の惨禍を思えば馬鹿馬鹿しいにもほどがある名目だが。

 私はどこからどこまでが疎開道路なのだろうとよく考えたりするが、この碑文の通り強制疎開が南北の通りだけでなくこの銀座通りにまで及んでいたのなら、とりあえず疎開道路の北限はこの石碑のある交差点だと考えていいようにおもわれる。北限、というのはここより北はもう砲兵工廠にぶつかるのである。私の見知っているだけでも、今でこそ道路が拡張されたが(恐らく一九九九年頃)、私が森之宮に来た時点はこの交差点から中央大通りまでは細い路地でしかなかった。中央大通りを渡って更に北に行くとまた道路が太くなり、私の住んでいた公団住宅に至る。私は最初に猫間川という川の存在を知ったとき、この道路が猫間川だったのではなかろうかと考えたことを序章で書いたが、公団のすぐ東には平野川が流れているのであり、地理学から見ればそんな近距離を二本の川が流れるというのはおかしいというのが理屈らしい。中道の湾曲のあとのまっすぐな運河ですら、自然の流路としては平野川とは近すぎる、よって人工的に掘られた運河である、という説に結びつくようだ。

猫間川筋と北中道銀座通の交差点

猫間川と銀座通りの交差点。大和橋という橋がかかっていたはず。左奥に向かって川は湾曲している。

本日:4 今週:13 累計:4630(5/9 15:00より)



on 03/20 at 08:03:AM
はじめまして。
「よこはま風文記」を描いております佐田と申します。
都市の記憶としての、今は無き川の行方にとても興味があります。
現地不案内について、写真や地図をもっと掲載していただけると、嬉しいのですが・・・
今回の写真は臨場感があって、雰囲気をつかむ事が出来ました。
これからの連載に期待しております。
on 03/20 at 10:07:AM
佐田薫子様

ご指摘と評価をありがとうございます。佐田様の「よこはま風文記」を読んだ直後にコメントに気がついたのでちょっとびっくり。^^)

写真は大抵ひとつつけようとおもっています。逆にあまり多くするまいともおもっているのですが、もう1枚くらいつけたほうが分かりよいかもしれませんね。工夫します。
TrackBack
トラックバック
このエントリにトラックバックはありません
このトラックバックURLを使ってこの記事にトラックバックを送ることができます。 もしあなたのブログがトラックバック送信に対応していない場合にはこちらのフォームからトラックバックを送信することができます。.