石橋をさがして歩く-猫間川をさがせ by 椋 康雄 マチともの語り-地域・物語り・短編小説
石橋をさがして歩く
author: 椋 康雄
Posted on 04/17
 夕刻近い時間、玉造駅を降りて、少しだけ日の出通り商店街を寄り道して歩くと、周辺に魅力ありげな店が新しく出来ていたりするし、晩御飯の買い物の時間帯はそれなりに賑わっている。

 戦前、日の出通り商店街は演芸の中心地にひとつだった。 いま大阪で漫才などの劇場といえば難波と梅田に集まっているが、玉造が市電の起点のひとつだった時代はこの地にも劇場が立ち並び、多くの人が集まった。今は、大阪市内の他の商店街と変わること無い、近所のお母さんや学校帰りの学生が立ち寄る商店街となっている。

 長堀通りを渡って、北側の歩道を東に向かって歩く。猫間川の川筋あとで、前章で「二軒茶屋の石橋のあとではないか?」とした建造物の前で立ち止まる。前回訪れた時は空き缶がポンと、欄干あとと私が考えたものの上に置かれていたが、今日はまだサラの煙草がのこっているマイルドセブンが置かれている。腰掛けるのに丁度よい高さなので、ここで携帯電話などして置き忘れたサラリーマンが居たのかも知れない。そのまま東へ歩き、疎開道路を渡ったら今度は疎開道路を北に歩き二本目の路地で東に入る。目指すのは中道の八阪神社である。森之宮に住んでいた時代によく行き来した辺りであり、場所はだいたい覚えておりいい加減にコースを採っているが、うまい具合に八阪神社の裏手に出た。目指すものを発見した。

 今日歩いているのは、暗越奈良街道沿いをレポートした、サイクリング愛好家でかつ裏路地愛好家の方々のサイトで得た情報を起点としている。「八阪神社の石垣に猫間川にかかっていた橋が使われている」という記述と写真を見たからである。私は八阪神社の塀に橋が使われているのは知っていたが、神社のすぐ近くを流れている平野川の橋ではないのかと勝手に思い込んでいた。石橋について調べていたところでもあったので、これも二軒茶屋の石橋ではないかと思い調べなおしてみることにした。

八阪神社の玉垣

 神社の裏手の細い路地、神社の石垣は背が高い。その「石垣」は巨大な石を立てかけてあるような状態になっている。しばし見入って写真にも収め、境内に入った。本殿にお参りしてから社務所を見ると、ひとりご婦人が電卓を手に何か仕事をされている。社務所の窓を叩いて手を止めて頂く。当時のことを覚えておられそうに見えたので、石垣に橋を使っているらしいが、どの川にかかっていた何という橋か伺うと、しばし考え込み、本棚の本を探して下さる。「橋の名前は、黒門橋というんじゃありませんか?」と聞くと、いえ、そんな名前じゃなかった、と言われる。そこの碑もそうなんですがね、ああ、川は猫間川という名前でした、と言われたので虚をつかれた。彼女が指し示した碑は以前から知っているが、猫間川の橋材を使っているということには全く気がつかずにいたのだ。二軒茶屋の欄干あとといい、なんと節穴な目をしていることかと内心鼻白むきもちを感じる。仕事を遮っていろいろ伺っているので心苦しくありながら重ねて、いつ頃ここに持ってこられたのかご存知ないかたずねると、この神社の社は以前はもっと小さかったんです、今の本殿の向こうにあるのが以前の社で、大正の初めごろに社域を造成しなおして、そのあとに今の本殿を造っています、だから石垣が来たのは大正じゃないでしょうか、と教えて下さった。加えて、向こうの、と自分の斜め後ろを指し示し、八王子神社の宮司さんは古いことをよくご存知なので、もしかしたら詳しいことが分かるかも、と教えて下さった。お礼を言い、社務所の横に立てられている碑を見ることにする。

 京都の八坂神社を筆頭にして、このあたりにも同名の神社は多い。ここのように「八阪」であったり、「弥栄」であったり(この場合「やえ」とよむ場合もある。現在の生野区にある彌栄神社がそうである)するが、いずれも明治の国家神道成立時期に牛頭天王社であった社を「やさかじんじゃ」に改名する変換式が存在したらしい。中道の八阪神社の場合、牛頭天王に加えて白山権現も祭神となっていた。これらの習合のありかたは、ここで論じることができないほど複雑なようなので割愛するが、朝鮮半島からの強い影響にこの地にあったことを示しているらしいことだけは記しておく。

『大阪府神社名鑑』(大阪府神道青年会刊)を紐解くと、ご婦人が説明して下さった経緯が具体的に書かれてある。
 ──大正元年八月 境内の周囲に石の玉垣及び門柱を新設
 ──大正九年十月 暗越奈良街道に面して石の大鳥居があったのを南門四辻に移し、其の跡に当神社の社号標石を建設す
 ──大正十一年十一月 氏子総代及び世話人集い改築を決し
 ──大正十一年十二月 起工
 ──大正十三年五月 竣工


八阪神社「記念の石」

 碑には「記念の石」と端に朱刻されていて、碑文の後半はその材の経歴説明に割かれている。
    此の石は暗越奈良街道の起点玉造二軒
  茶屋の石橋として言伝によると大坂城より
  持参宝永八年に猫間川に架けられ古くは飛
  鳥の都へ通ずる街道の入口として又お伊勢
  参りの見送人が此の処に於て無事を祈って
  別れた由緒深い石橋で大正十三年撤去に際
  し石材六枚を当社に寄贈せられ狛犬燈篭の
  敷石として用う。三百余年の歴史と共に歩
  んで来た此の石を回顧し永年の労を後世に
  伝えんが為其の一枚を茲に記念の碑として
  建立す
    八阪神社宮司相良芳三謹白

 何のことはなかった。私の質問の答えは全て碑文のなかに書かれてあったので、ご婦人がすぐに私の質問に答えられなかったのは、あまりに身近にある碑に書いてあることをいちいち覚えておられなかったのであろう。「大正初めに橋材が持ってこられたのでは」という推測も、この碑文を読めば違うことがわかる。大正十三年、二軒茶屋の石橋が撤去された時に持ってこられたのだ。それでも、お話を伺ったのはよかった。橋の名前についても、資料上にしばしば出てくる「黒門橋」という名前が少なくとも大正期には通常使われておらず、単に「石橋」ないし「橋」としか認識されていなかったのではないか、という仮定が成り立つのである。私は教えて頂いた、八王子神社にも足を向けることにした。実は八王子神社、と言われてもちゃんと分かっている訳ではない。ただ、平野川の向こうの道筋にも神社があったことをじきに思い出せた。中本橋──『中道の湾曲』で描写した北中道銀座通りが平野川を渡る橋になる──を通って、思い出した神社についたら、案の定八王子神社だった。

「八王子」がどのような神を指すのか、諸説あるらしい。一番目を引くのは、牛頭天王の八人の王子を尊称する、という説明である。この地も中道と同様に、牛頭天王への崇拝の影響下にあった社と考えられるとすんなり受け入れられるように思われる。ちなみに明治期にはこの社は「百済神社」を名乗られたということである。朝鮮半島の文化の影響を直接的に感じさせる社名だが、平野川が「百済川」とも呼ばれたことによるのか、この一帯の古名を「百済野」と呼んだのを採られたのか、いずれかであるらしい。それ以前は「八王子稲荷神社」であったようなのだが、古地図によっては載っていない場合もあり、詳細な歴史には分からない部分もある。

 遠目にひとがいるのが見えたので神社の方かとおもったが、鳥居をくぐってみるとそれは若い力士さんだった。大相撲大阪場所で、この神社は稽古場を提供されていたらしい。八阪神社でそうしたように、本殿にお参りする。もう日が傾いてきていて、社務所のカーテンは下ろされており、明かりも消えていた。力士さんに聞いてみても頓珍漢だろうし、やや途方にくれるおもいで神域をながめていると、何と間の良いことに社務所と続きになっている宮司様宅から背広姿の紳士が出てこられた。力士の方に声をかけて立ち話されているのを見て宮司様ご本人に間違いなかろうとおもい、寄って猫間川について調べていることを告げ、八阪神社の碑と石垣についてお尋ねするとすぐに答えが返ってきた。うちにもそこにあるのですがね、猫間川を埋めて橋を撤去する時に納められたのです、いえ、そうではなくて、由緒あるものだし縁のあるところに納めようということになって、八阪神社は中道が領域だし(中道の鎮守である、という意味)、うちも隣の中本だし、ということでね。八阪神社に何枚かと、うちに一枚収められたのです──。私はお礼を言い、宮司様と別れるとその碑に向かった。八阪神社の碑とは少し材が違うようにも見えるが、碑に仕立てた時に施した加工の所為かもしれない。碑文の最期には八阪神社と同様、石橋の由来についての記述があった。
  附記
  本石材は旧暗越奈良街道の起点玉造二軒
  茶屋前を流るる猫間川に宝永八年架設せ
  られたる石橋の用材なり その古き由緒
  あるを以て御造営記念碑の用となし後世
  に之を伝ふるものなり
                宮司識


八王子神社の碑

 二軒茶屋の石橋は、元の橋跡に欄干が、中道八阪神社と中本八王子神社に橋自体が、残されている。撤去の施工者──おそらくは大阪市であろうか──か地元の方々のいずれかが残すべく働かれたのであろう。ただ、その経緯をほとんどのひとが忘れてしまっている。今回、私はひとりの書き手を名乗って聞き歩きをし、石橋を四次元的におぼろげに再現することができた。それは嬉しいような気もするが、普通に各所に案内がされてよいのではないだろうかとおもう。簡単なことで、各処に案内版と地図が立っていればよいだけのことなのだ。

 中央大通りに出て、森之宮まで見慣れた道を森之宮駅まで歩いた。ちょうど駅前の、猫間川筋に差し掛かったとき、花粉症らしい大きなくしゃみが続けて出た。

玉津橋に掲げられている古地図

奈良街道が平野川を渡る玉津橋の欄干に古地図がデザインされている。玉津橋は八阪神社の奈良街道沿いの鳥居跡(今は社号標石が立つ)のすぐ近くに今も架かっている。①二軒茶屋の石橋②中道の八阪神社③中本(本庄村)の八王子神社のある辺り

本日:3 今週:18 累計:4917(5/9 15:00より)



on 04/17 at 14:54:PM
毎回の更新を楽しみにしております。
都市の記憶を辿る旅、とても面白い興味深く拝見しております。

当方、関東が在所ですが、大阪に親戚筋がおりまして、時折覚えのある地名を発見するたびに、こそばいような気持ちになりながら、読み進めています。
横浜は、たかだか3桁の歴史ですが、4桁の時間を日常で感じられる街に、憧れを感じます。
数え切れない多くの人々の往来を支えた石橋が、人目を忍ぶようにそこここに、ちりばめられた今を思うと、何か心が熱くなってまいります。

長い歴史に生かされている街、素晴らしいことです。
むくのきやすお
on 04/17 at 22:35:PM
佐田薫子様

いつもご意見を頂きありがとうございます。本当に嬉しい。

石橋については先月から加速的かつ芋づる式に情報が出てきました。情報を頂いた方々に感謝するとともに、「椋はんはよ見つけて言うて回ってえな」と石橋が言われているような気になりました。
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