小流たち
前章で触れた金徳煥(キム・トックァン)さんの話の中には、「平野川や猫間川以外にも、昔小川だったところが道路になっている、というような箇所がたくさんある」という話が出てくる。小川が流れていた時代、わずか八十年ほど前にはその川でこどもたちはザリガニを取って遊んでいた。
猫間川の本流の歴史を追うだけでも大変である状況なので、猫間川に流れ込んでいた小流について跡を尋ねるのは更に大変なようにおもわれる。それぞれの名前など、確認してみた限り残ってはいない。それでも寄り道してこれらの支流について書いておきたい。後の章で役に立つ部分も出てくるのである。
[支流を書き上げてみる]
下記は地図から猫間川の「支流」を調べて、番号をふったものである。手元にあった次の地図の順に、どのような変遷が見えるか書いている。
・文化二年(一八○五)増修改正攝州大坂地図
・文久三年(一八六三)大阪全図 積典堂版
・明治十八年(一八八五)参謀本部仮製二万分一地形図
・明治四十一年(一九○八)参謀本部作成地図

文化二年(一八○五)増修改正攝州大坂地図の一部。玉津橋の欄干にデザインされている。
①東小橋村を東西に通って、平野川と猫間川をつないでいる流路
記載あり→記載あり→川か道路か判別できず→道路化されている模様
②毘沙門池から発して、細工谷を通って合流している流路
記載あり→記載あり→記載あり→道路化されている模様
③毘沙門池から発して、②の途中から北に回りこんで小橋(おそらく今の千日前通り)あたりで合流している流路
記載あり→記載あり→川か道路か判別できず→確認できず
④猫間川と③の合流地点の少し南(猫間川筋の北端辺り)で東に行き、南に折れて⑤に合流している流路
記載あり→記載あり→記載あり→確認できず
⑤猫間川と②の合流地点で反対の東側に流れて平野川と合流している流路
記載あり→記載あり→記載あり→道路化されている模様
⑥平野川と猫間川をつないでいる流路?
記載あり→記載あり→文化・文久の地図より合流点が南(勝山通りとの交差点の北辺り)→文化・文久の地図より合流点が南(勝山通りとの交差点の北辺り)
[人の手による水路]
平野川と猫間川を東西に結んでいる水路というものは──①、④及び⑤がそれに当たるが──水運のためにひとが開削したのではないかと思われる。猫間川単独では水量が少なく、舟の運行がそれほど易くはなかったようであり、平野川からの水を得ることでそれを改善しようとしたのではないかと思われるのだ。
ただ、それでも難しい面もあっただろうと考えられるのが、猫間川は天井川になっていたと思われる箇所があるのである。下流においては縁ががけのようになっていた、というのに。二軒茶屋付近で天保九年(一八三八年)に浚渫が行われ、結果大層賑わったという話は以前『中道の湾曲』の章で触れた。これとは別に、『都市文化研究』という雑誌に載っていた伊藤和雄さんという方の筆による『「猫間川」探検記』という文章には面白い着眼が書かれてある。(第二十五号、二○○一年六月)
猫間川筋という道路名からすれば当然この道路は河川の跡地になるのだが勝山通りが猫間川筋との交差点でカマボコ状に盛り上がっている!
というのである。実際そうで、これは猫間川のこの付近の流路が天井川だったこと、もっと言えば元々流れていなかった場所に人の手によって運河が掘られたことを如実に表すものではないだろうか。例えば、平野川と並行して東を流れている城東運河と呼ばれる運河がある(平野川分水路とも呼ばれている)が、昭和四年から開削されたこの川に架かる橋を渡ろうとすると太鼓橋になってる。堤防から見ると、周りの家々の方が低くなっているのである。埋められる直前の猫間川も、そんな感じになっていたのではないかと思われる。今でも上記勝山通りとの交差点からしばらく南を歩いても、猫間川筋の方が周りの土地より少し高くなってしまっているのが確認できる。上町台地を削って造った水路であること、大水が出た時などその都度砂が流れ込む環境であったことで、川底も堤防も段々上がっていったのではなかろうか。

猫間川筋と勝山通りの交差点。交差点中心が高くなっているのが分かるだろうか。ここにも橋がかかっていて、太鼓橋になってしまっていたはずである。
[毘沙門池からの流路]
毘沙門池からの流路は、少なくとも②の方は自然な流れであったように思われる。③の方は早い時点で確認できなくなっており、農地のための用水路であったものがいち早く市街化の影響で埋められたような気がする。毘沙門池は今の四天王寺境内の北東に位置する五条宮の裏手にあった池である。その埋め立てあとを利用して今の天王寺区役所が建てられたというから、位置はだいたい地図上で特定できるが、実際に今歩いても池があったことを想起させるものは神社にある碑くらいしかない。池は明治四十三年(一九一0)に一部が埋め立てられ、大正十四年(一九二五)には完全に埋められてしまったそうだが、小流の方はもっと早くに埋められてしまったようだ。地図を比較した表からもそう思われるし、以前私が細工谷の交差点にある定食屋のご夫婦に昔のことを聞いた時も、川については何もご存知ではないようだった。(代わりに玉造筋を市電が走っていた頃の話は伺うことができたが)
前章で猫間川が「生活廃水などの汚水を集める都市側排水河川」だったのは昭和以降の話ではなかったか、ということを書いたのだが、もしそれ以前、大正期の時点で市街からの下水が流れ込んでいたとしたら、この毘沙門池方面からの流路によってではないかとおもう。今でもその流路あたりは学校が多い。私の母校である大学も、今は大阪市の南端あたりに敷地を持つが、この地の烏ヶ辻にあった。市街地とは違うようだが、明治期からぼちぼち開けてきていたようなのである。毘沙門池の容赦ない埋め立ての事歴をみても、地図に見える以上に市街化ははやかったのかもしれない。ただ、芸人がおおく住んていたという「天王寺村」(難波利三氏が小説で描かれた「てんのじ村」のことであり、行政区の天王寺村のことではない)はもっと東、今の西成区山王町辺りだったようで、この天王寺公園をはさんでの東西の土地の風景は、かなり違ったようである。
[もうひとつの猫間川]
最後に⑥だが、江戸期の地図を見ると人によって開削されたようにも見えるのだが、明治期の地図の流路を見る限りそうではないらしい。これは支流というよりも、猫間川の水源のひとつ(あえてひとつ、と書く。これは次章につながることなので)桃が池からの流れの自然流路の名残であり、元々この流路でもって木野村(このむら)の南で平野川と合流していたと考えるべきようなのである。序章で触れた『新修大阪市史』ではこの部分が自然流路をであろうという説を採っている。
そう考えると、「ひとの手で掘ったために天井川化し易かったのであろう」という上記の私の推測が、源ヶ橋から⑥の合流点、つまり勝山通りとの交差点辺りの猫間川筋についてあたらなくなるので、実のところ困ってしまった。困りながらも、次の章で想像を働かせたことを書いて見たいとおもっている。
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明治四十一年(一九○八)参謀本部作成地図。⑥の流路が、それより上流の猫間川とつながって自然なカーブを描いているのが分かるだろうか。
[支流を書き上げてみる]
下記は地図から猫間川の「支流」を調べて、番号をふったものである。手元にあった次の地図の順に、どのような変遷が見えるか書いている。
・文化二年(一八○五)増修改正攝州大坂地図
・文久三年(一八六三)大阪全図 積典堂版
・明治十八年(一八八五)参謀本部仮製二万分一地形図
・明治四十一年(一九○八)参謀本部作成地図
文化二年(一八○五)増修改正攝州大坂地図の一部。玉津橋の欄干にデザインされている。
①東小橋村を東西に通って、平野川と猫間川をつないでいる流路
記載あり→記載あり→川か道路か判別できず→道路化されている模様
②毘沙門池から発して、細工谷を通って合流している流路
記載あり→記載あり→記載あり→道路化されている模様
③毘沙門池から発して、②の途中から北に回りこんで小橋(おそらく今の千日前通り)あたりで合流している流路
記載あり→記載あり→川か道路か判別できず→確認できず
④猫間川と③の合流地点の少し南(猫間川筋の北端辺り)で東に行き、南に折れて⑤に合流している流路
記載あり→記載あり→記載あり→確認できず
⑤猫間川と②の合流地点で反対の東側に流れて平野川と合流している流路
記載あり→記載あり→記載あり→道路化されている模様
⑥平野川と猫間川をつないでいる流路?
記載あり→記載あり→文化・文久の地図より合流点が南(勝山通りとの交差点の北辺り)→文化・文久の地図より合流点が南(勝山通りとの交差点の北辺り)
[人の手による水路]
平野川と猫間川を東西に結んでいる水路というものは──①、④及び⑤がそれに当たるが──水運のためにひとが開削したのではないかと思われる。猫間川単独では水量が少なく、舟の運行がそれほど易くはなかったようであり、平野川からの水を得ることでそれを改善しようとしたのではないかと思われるのだ。
ただ、それでも難しい面もあっただろうと考えられるのが、猫間川は天井川になっていたと思われる箇所があるのである。下流においては縁ががけのようになっていた、というのに。二軒茶屋付近で天保九年(一八三八年)に浚渫が行われ、結果大層賑わったという話は以前『中道の湾曲』の章で触れた。これとは別に、『都市文化研究』という雑誌に載っていた伊藤和雄さんという方の筆による『「猫間川」探検記』という文章には面白い着眼が書かれてある。(第二十五号、二○○一年六月)
猫間川筋という道路名からすれば当然この道路は河川の跡地になるのだが勝山通りが猫間川筋との交差点でカマボコ状に盛り上がっている!
というのである。実際そうで、これは猫間川のこの付近の流路が天井川だったこと、もっと言えば元々流れていなかった場所に人の手によって運河が掘られたことを如実に表すものではないだろうか。例えば、平野川と並行して東を流れている城東運河と呼ばれる運河がある(平野川分水路とも呼ばれている)が、昭和四年から開削されたこの川に架かる橋を渡ろうとすると太鼓橋になってる。堤防から見ると、周りの家々の方が低くなっているのである。埋められる直前の猫間川も、そんな感じになっていたのではないかと思われる。今でも上記勝山通りとの交差点からしばらく南を歩いても、猫間川筋の方が周りの土地より少し高くなってしまっているのが確認できる。上町台地を削って造った水路であること、大水が出た時などその都度砂が流れ込む環境であったことで、川底も堤防も段々上がっていったのではなかろうか。
猫間川筋と勝山通りの交差点。交差点中心が高くなっているのが分かるだろうか。ここにも橋がかかっていて、太鼓橋になってしまっていたはずである。
[毘沙門池からの流路]
毘沙門池からの流路は、少なくとも②の方は自然な流れであったように思われる。③の方は早い時点で確認できなくなっており、農地のための用水路であったものがいち早く市街化の影響で埋められたような気がする。毘沙門池は今の四天王寺境内の北東に位置する五条宮の裏手にあった池である。その埋め立てあとを利用して今の天王寺区役所が建てられたというから、位置はだいたい地図上で特定できるが、実際に今歩いても池があったことを想起させるものは神社にある碑くらいしかない。池は明治四十三年(一九一0)に一部が埋め立てられ、大正十四年(一九二五)には完全に埋められてしまったそうだが、小流の方はもっと早くに埋められてしまったようだ。地図を比較した表からもそう思われるし、以前私が細工谷の交差点にある定食屋のご夫婦に昔のことを聞いた時も、川については何もご存知ではないようだった。(代わりに玉造筋を市電が走っていた頃の話は伺うことができたが)
前章で猫間川が「生活廃水などの汚水を集める都市側排水河川」だったのは昭和以降の話ではなかったか、ということを書いたのだが、もしそれ以前、大正期の時点で市街からの下水が流れ込んでいたとしたら、この毘沙門池方面からの流路によってではないかとおもう。今でもその流路あたりは学校が多い。私の母校である大学も、今は大阪市の南端あたりに敷地を持つが、この地の烏ヶ辻にあった。市街地とは違うようだが、明治期からぼちぼち開けてきていたようなのである。毘沙門池の容赦ない埋め立ての事歴をみても、地図に見える以上に市街化ははやかったのかもしれない。ただ、芸人がおおく住んていたという「天王寺村」(難波利三氏が小説で描かれた「てんのじ村」のことであり、行政区の天王寺村のことではない)はもっと東、今の西成区山王町辺りだったようで、この天王寺公園をはさんでの東西の土地の風景は、かなり違ったようである。
[もうひとつの猫間川]
最後に⑥だが、江戸期の地図を見ると人によって開削されたようにも見えるのだが、明治期の地図の流路を見る限りそうではないらしい。これは支流というよりも、猫間川の水源のひとつ(あえてひとつ、と書く。これは次章につながることなので)桃が池からの流れの自然流路の名残であり、元々この流路でもって木野村(このむら)の南で平野川と合流していたと考えるべきようなのである。序章で触れた『新修大阪市史』ではこの部分が自然流路をであろうという説を採っている。
そう考えると、「ひとの手で掘ったために天井川化し易かったのであろう」という上記の私の推測が、源ヶ橋から⑥の合流点、つまり勝山通りとの交差点辺りの猫間川筋についてあたらなくなるので、実のところ困ってしまった。困りながらも、次の章で想像を働かせたことを書いて見たいとおもっている。
明治四十一年(一九○八)参謀本部作成地図。⑥の流路が、それより上流の猫間川とつながって自然なカーブを描いているのが分かるだろうか。
本日:3
今週:10
累計:5341(5/9 15:00より)
yanyan
on 12/22 at 18:37:PM
たまたま通りがかりました。「猫間川筋」のお話、なつかしく読ませていただきました。桃谷商店街のすぐ近くに住んでおり(今も実家があります)、五条宮の近くの五条小学校に通っていました。少なくとも私の住んでいた付近では「猫間川」は天井川ではなく、上町台地の東の裾に沿って流れていたのではないでしょうか。上町台地からの急傾斜を下った付近に猫間川筋はあり、付近の地形はさらに東にゆるく傾斜して下っています。「細工谷」はまさに「谷」で上町台地からの水流を猫間川に運んでいたものと理解しています。
yanyan
on 12/22 at 19:48:PM
掲載されている明治41年の地図、興味深く拝見しました。私の家は「猫間川」の「間」の字の辺りです。「間」の字の少し北を東西に走る道は現在の「桃谷公園」南側をJRの高架の方へ登る道でしょうか。かなりの急坂です。「川」の字の少し北の東西に走る道が現在の桃谷商店街でしょうか。これも結構登っています。「女子師範」とあるのは夕陽丘高校、鳥居のマークはかつての堂ヶ芝廃寺(豊川稲荷でしたか)付近ですか。いや~なつかしいですね。
on 12/23 at 10:43:AM
yanyan様コメントありがとうございます。椋です。
大阪も上町台地の端は急な坂が多いですが、桃谷の商店街も坂だったでしょうか。
天井川になっているのは勝山辺りより南ですね。猫間川は埋められたあとしかご存知ないですか?
yanyan
on 12/24 at 23:38:PM
桃谷商店街はJRの高架付近からかなり東に下っています。猫間川筋と交差するあたりでは傾斜は相当緩くなっていますが、それでもまだ東に少し下っていたような記憶があります。私は昭和30年生まれです。小さい頃は川なんかどこにもないのに、母親が「猫間川の通り」とか「猫間川」とかいうのをいつも不思議に思っていました。
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