源ヶ橋あたりから、南をのぞむ
JR寺田町駅から奈良街道(国道二十五号線)を東に歩くと、じきに「源ヶ橋」という交差点に行き当たる。街道と交差しているのは猫間川筋であり、つまり「源ヶ橋」というのはここに架かっていた橋がそのまま地名となって残っている。
この橋にまつわる昔話があり、橋が無い時代に渡しをしていたものが実は盗賊であり、名前が「源の字」だったらしいが、生き別れた子供を殺してしまう。世を儚みかつ深く悔いた源の字が私財を擲って橋を架けたのが源ヶ橋である、というのがあらすじになる。いかにも旅の聖が道端で仏説を説くのに創作しそうな話であり(筆者はほぼ同じ設定のヨーロッパのどこだかの実話という怪談を読んだことがある)、鵜呑みにする訳にもいかないが、街道を渡す橋を私財で架けるような話が歴史に埋もれているのかもしれない。大阪にはそういう私財で道を整備したとか、川を開削したとかいう話も残っている土地なのである。その気風こそ遺すべきものではないだろうか。
その観点からみて気になるのが源ヶ橋近くの公園である。大阪環状線の外側にあり、地図上に「猫間川」という地名残る数少ない場所であり、「猫間川公園」という。下町の住宅ひしめくなかにぽつんとある公園で、どういう経緯で公園とされたのか、なぜ猫間川を名前に冠したのか良く分からない。避難場所指定からも外れているような、ごく小さな公園である。なんとなく、行政でなく地のひとの匂いを感じるのだがどうなのだろうか。
源ヶ橋から南(上流)は自然に湾曲していて、おそらく自然の流路であったろうと思われる。それはまた分けて書き述べたいが、ここでは街道の先、南東方向に目をやりつつ、いままでなかなか触れずにいた話を書いてみたい。
「猫間川」という名前についてである。
南東方向、東部市場駅辺りで街道は平野川(平野運河)と交差するが、その付近で支流の今川が合流し、更に今川には駒川が合流している。この駒川について念頭に置きながら考えたい。
「猫間川」の由来については、『東成区史』(昭和三十二年刊)に『摂津名所図会大成』からの二説が載せられている。孫引きだが、
一)猫間殿の屋敷があったため
二)「高麗川」(こまがわ)と呼んでいたのが訛って「猫間川」になった
というものである。このうち一)説はほとんど採ることができない。「猫間殿」というのは平家物語に木曽義仲との諍いで登場する猫間中納言藤原光隆かその父親清隆らしいが、これは住んでいた壬生辺りを「猫間」とも呼んだらしく(もしそうならこれも「高麗」からの転訛であろう)そこからの呼称であり、それが別の地の名に成るほど彼に影響力があったようには私には思われないのだがいかがなものだろうか。別の説で、聖徳太子が子馬を飼わせた場所を通っていたから「子駒川」という説も目にしたが、より有り得なさそうにおもえる。私は二)説の方が真実に近いと考えているのだが、なぜ頭に「ね」が付いたのだろうか、なぜ「こまがわ」にならなかったのだろうか、というのが私の屈託である。
ここで、確証に乏しいことをいいことにかなりいい加減な仮説を述べると、猫間川と駒川そんなに離れていなかった。この辺りは大坂夏の陣・冬の陣の頃は沼沢地といっていい環境であり、川筋が変わることも有り得たとするならば、猫間川と駒川は中世には同じ川であると、ひとびとから考えられていたのではないだろうか。
『大阪府の地名』(平凡社刊)の記述になるが、猫間川の水源について
摂津国南田辺村の桃ヶ池(股ヶ池、現阿倍野区)をはじめ、
近辺の溜池からの小流及び河内八上郡方面からの小流が住吉
郡桑津村(現東住吉区)の北西で落ち合い、東成郡(現天王
寺区)付近で一筋の流れになって北流していた川で(以下略)
と記述している。また、孫引きになるが、前出の『東成区史』では畑中友次氏の『仁徳治河の新研究』を参考にして
猫間川(西除川系)もまた古えは狭山池に発して依網池を経て
長池、股ヶ池を過ぎて上町丘陵東端に沿うていたが、上代にお
いては平野川と共に河内川といわれ、鶴橋辺で難波刀(難波江)
にそそいでいたものであろう。
としている。一時期、私は(狭山池から現在も流れている西除川こそが昔の猫間川だったのではないのだろうか)と思っていたが、もしそうだったとしてもそれはよほど上代のことであり、大和川の付け替え工事が始められる宝永元年(一七〇四)より前の時点の古地図を見ると、西除川自体は現在の生野区舎利寺辺りで平野川に合流していたようで、『今川改修誌』という古文書にもそのように記載されているという。

『絵図に描かれた狭山池』(大阪狭山市教育委員会・狭山池調査事務所編)という書物の表紙に採用されている古地図『摂津河内絵図』(個人蔵)。狭山池からのふたつの流れ(西除川、東除川が四天王寺の北東で合流している様が鮮やかな筆で描かれている。本を借りた場所が分かるのはご愛敬。
もし西除川が猫間川だったのならば、上記引用でも「河内八上郡方面からの小流」と書かれたり、「猫間川(西除川系)」と表現されたりすることはないであろう。河内八上郡というのは今の行政上の地名には残っていないはずだが、だいたい堺市美原町辺りだとおもえばよかろう。源ヶ橋辺りから見れば、狭山池との間の土地である。そして「河内八上郡方面」といってよい「丈六」(現在の堺市丈六)という辺りを源流とし、狭山池からの流路と合流して依網池(よさみいけ)を経て北流する流路を記録した古地図が、依網池近くに鎮められている大依羅神社(おおよさみじんじゃ)に遺されているのである。(依網池は現在の西除川と新大和川の合流地点付近にあったが、いまは川に貫かれ、残りは埋め立てられている。大和川によって命脈を絶たれ、緩やかに消えていった経緯は猫間川のそれとかぶってみえる。神社は現在の住所表示で住吉区庭井二丁目に今も祭られている)これが畑中氏が指摘したという旧猫間川流路ではないのか。

上記の大依羅神社蔵の『大和川開鑿前地方図』。やはり『絵図に描かれた狭山池』より。依網池が右下(狭山池の北西)に描かれている。
そして、おおさかのひとたちはこの川を元々は「高麗川」と呼び、「こまがわ」とよんだり「くまがわ」とよんだり「ねこまがわ」とよんだりしていたのではないだろうか。ただ、大水による流路の自然変更か、新大和川付け替えによるものか、この流れが途中で分かれた時期があり、国分村から桑津村辺り(つまり、源ヶ橋近辺のどこか)で再合流していた時期もあった。更には江戸期には真っ直ぐ北流する川と桑津村付近で平野川の方に合流してしまう流れに分かれてしまったのではないか。
この時、もともと同じ川だったものを呼び分けるきっかけがうまれてしまった。そこで同じ川だったものを「猫」(ねこま、は猫の古語だ)と「駒」に呼び分けたのではないだろうか。
ただ、「ねこまがわ」という呼び名自体は決して新しくはないようだ。前出『大阪府の地名』では『天文日記』に「子コマツゝミ」に土筆を摘みにいった、という記述があるのが「ねこま」という名前を確認できる最初であり、このころ既に「ねこまがわ」と呼んでいたであろう、としている。この記述は天文二十年(一五五一年)のものである。『天文日記』は本願寺教団の十代目宗主証如の日記で、本願寺教団はこの時代石山本願寺に本拠を置いており、猫間川べりは土筆採りは春先の娯楽であり、堤は手近で格好の場所だったのであろう。ただ、この時期は織田信長が台頭してくる直前である。(この天文二十年、織田信長は織田家の家督を継いでいる)嵐の前の静けさといったら大袈裟だろうか。
わずか二十年後、本願寺教団と織田信長は全面戦争に突入し、その戦争状態は十年にも及んだ。猫間川も土筆つみを安全にするようなのどかな場所ではなくなったはずである。結果として石山本願寺は織田信長の城(大坂城)となった。以後、大坂冬の陣・夏の陣や練兵場や砲兵工廠の舞台としての時期も猫間川にはあり、猫間川が太平な時代をすごせたのは中世以前の、名前があったかなかったかの頃だったといえる。

源ヶ橋の交差点から南をのぞむ。雑然としたまちなみに沼沢地の面影は全くない。左に車で真っ直ぐいくと桑津(今川と駒川の合流点がある)はすぐである。
その観点からみて気になるのが源ヶ橋近くの公園である。大阪環状線の外側にあり、地図上に「猫間川」という地名残る数少ない場所であり、「猫間川公園」という。下町の住宅ひしめくなかにぽつんとある公園で、どういう経緯で公園とされたのか、なぜ猫間川を名前に冠したのか良く分からない。避難場所指定からも外れているような、ごく小さな公園である。なんとなく、行政でなく地のひとの匂いを感じるのだがどうなのだろうか。
源ヶ橋から南(上流)は自然に湾曲していて、おそらく自然の流路であったろうと思われる。それはまた分けて書き述べたいが、ここでは街道の先、南東方向に目をやりつつ、いままでなかなか触れずにいた話を書いてみたい。
「猫間川」という名前についてである。
南東方向、東部市場駅辺りで街道は平野川(平野運河)と交差するが、その付近で支流の今川が合流し、更に今川には駒川が合流している。この駒川について念頭に置きながら考えたい。
「猫間川」の由来については、『東成区史』(昭和三十二年刊)に『摂津名所図会大成』からの二説が載せられている。孫引きだが、
一)猫間殿の屋敷があったため
二)「高麗川」(こまがわ)と呼んでいたのが訛って「猫間川」になった
というものである。このうち一)説はほとんど採ることができない。「猫間殿」というのは平家物語に木曽義仲との諍いで登場する猫間中納言藤原光隆かその父親清隆らしいが、これは住んでいた壬生辺りを「猫間」とも呼んだらしく(もしそうならこれも「高麗」からの転訛であろう)そこからの呼称であり、それが別の地の名に成るほど彼に影響力があったようには私には思われないのだがいかがなものだろうか。別の説で、聖徳太子が子馬を飼わせた場所を通っていたから「子駒川」という説も目にしたが、より有り得なさそうにおもえる。私は二)説の方が真実に近いと考えているのだが、なぜ頭に「ね」が付いたのだろうか、なぜ「こまがわ」にならなかったのだろうか、というのが私の屈託である。
ここで、確証に乏しいことをいいことにかなりいい加減な仮説を述べると、猫間川と駒川そんなに離れていなかった。この辺りは大坂夏の陣・冬の陣の頃は沼沢地といっていい環境であり、川筋が変わることも有り得たとするならば、猫間川と駒川は中世には同じ川であると、ひとびとから考えられていたのではないだろうか。
『大阪府の地名』(平凡社刊)の記述になるが、猫間川の水源について
摂津国南田辺村の桃ヶ池(股ヶ池、現阿倍野区)をはじめ、
近辺の溜池からの小流及び河内八上郡方面からの小流が住吉
郡桑津村(現東住吉区)の北西で落ち合い、東成郡(現天王
寺区)付近で一筋の流れになって北流していた川で(以下略)
と記述している。また、孫引きになるが、前出の『東成区史』では畑中友次氏の『仁徳治河の新研究』を参考にして
猫間川(西除川系)もまた古えは狭山池に発して依網池を経て
長池、股ヶ池を過ぎて上町丘陵東端に沿うていたが、上代にお
いては平野川と共に河内川といわれ、鶴橋辺で難波刀(難波江)
にそそいでいたものであろう。
としている。一時期、私は(狭山池から現在も流れている西除川こそが昔の猫間川だったのではないのだろうか)と思っていたが、もしそうだったとしてもそれはよほど上代のことであり、大和川の付け替え工事が始められる宝永元年(一七〇四)より前の時点の古地図を見ると、西除川自体は現在の生野区舎利寺辺りで平野川に合流していたようで、『今川改修誌』という古文書にもそのように記載されているという。

『絵図に描かれた狭山池』(大阪狭山市教育委員会・狭山池調査事務所編)という書物の表紙に採用されている古地図『摂津河内絵図』(個人蔵)。狭山池からのふたつの流れ(西除川、東除川が四天王寺の北東で合流している様が鮮やかな筆で描かれている。本を借りた場所が分かるのはご愛敬。
もし西除川が猫間川だったのならば、上記引用でも「河内八上郡方面からの小流」と書かれたり、「猫間川(西除川系)」と表現されたりすることはないであろう。河内八上郡というのは今の行政上の地名には残っていないはずだが、だいたい堺市美原町辺りだとおもえばよかろう。源ヶ橋辺りから見れば、狭山池との間の土地である。そして「河内八上郡方面」といってよい「丈六」(現在の堺市丈六)という辺りを源流とし、狭山池からの流路と合流して依網池(よさみいけ)を経て北流する流路を記録した古地図が、依網池近くに鎮められている大依羅神社(おおよさみじんじゃ)に遺されているのである。(依網池は現在の西除川と新大和川の合流地点付近にあったが、いまは川に貫かれ、残りは埋め立てられている。大和川によって命脈を絶たれ、緩やかに消えていった経緯は猫間川のそれとかぶってみえる。神社は現在の住所表示で住吉区庭井二丁目に今も祭られている)これが畑中氏が指摘したという旧猫間川流路ではないのか。

上記の大依羅神社蔵の『大和川開鑿前地方図』。やはり『絵図に描かれた狭山池』より。依網池が右下(狭山池の北西)に描かれている。
そして、おおさかのひとたちはこの川を元々は「高麗川」と呼び、「こまがわ」とよんだり「くまがわ」とよんだり「ねこまがわ」とよんだりしていたのではないだろうか。ただ、大水による流路の自然変更か、新大和川付け替えによるものか、この流れが途中で分かれた時期があり、国分村から桑津村辺り(つまり、源ヶ橋近辺のどこか)で再合流していた時期もあった。更には江戸期には真っ直ぐ北流する川と桑津村付近で平野川の方に合流してしまう流れに分かれてしまったのではないか。
この時、もともと同じ川だったものを呼び分けるきっかけがうまれてしまった。そこで同じ川だったものを「猫」(ねこま、は猫の古語だ)と「駒」に呼び分けたのではないだろうか。
ただ、「ねこまがわ」という呼び名自体は決して新しくはないようだ。前出『大阪府の地名』では『天文日記』に「子コマツゝミ」に土筆を摘みにいった、という記述があるのが「ねこま」という名前を確認できる最初であり、このころ既に「ねこまがわ」と呼んでいたであろう、としている。この記述は天文二十年(一五五一年)のものである。『天文日記』は本願寺教団の十代目宗主証如の日記で、本願寺教団はこの時代石山本願寺に本拠を置いており、猫間川べりは土筆採りは春先の娯楽であり、堤は手近で格好の場所だったのであろう。ただ、この時期は織田信長が台頭してくる直前である。(この天文二十年、織田信長は織田家の家督を継いでいる)嵐の前の静けさといったら大袈裟だろうか。
わずか二十年後、本願寺教団と織田信長は全面戦争に突入し、その戦争状態は十年にも及んだ。猫間川も土筆つみを安全にするようなのどかな場所ではなくなったはずである。結果として石山本願寺は織田信長の城(大坂城)となった。以後、大坂冬の陣・夏の陣や練兵場や砲兵工廠の舞台としての時期も猫間川にはあり、猫間川が太平な時代をすごせたのは中世以前の、名前があったかなかったかの頃だったといえる。
源ヶ橋の交差点から南をのぞむ。雑然としたまちなみに沼沢地の面影は全くない。左に車で真っ直ぐいくと桑津(今川と駒川の合流点がある)はすぐである。
本日:2
今週:14
累計:8402(5/9 15:00より)
on 06/16 at 01:29:AM
> 「古代はネコマといったのを、後代に下を略してネコといい、> 上を略してコマともいう」というものの「コマ」が「高麗」へ転じ
> たのか、それとも逆に「高麗」の「コマ」が「猫間」へ転じたのか
そう、ねこは外来動物だそうなので名前と一緒に渡来した可能性も否定できないのですね。「ねこま」と聞こえる名前で呼ばれていたのかもしれない。それが中国語なのか、古代朝鮮語なのか。
もちろん、朝鮮半島から来たので「こま」と呼ばれたという短絡も捨てがたいです。その場合、「ね」は日本語の接頭語か、多言語のそれかというのもまた判断が難しいところです。
on 08/30 at 18:02:PM
猫間川の考証、興味深く読ませていただきました。実は私は小学校が源が橋の近くの高松小学校というところで、高松公園の前の道を「猫間川筋」と地元では呼んでいました。源が橋を北へ渡り、北西に電気館(昔の映画館)を通り此花商業に向かう道も今も「猫間川筋」と呼ばれています。高松公園近くを通る関西線の高架には「猫間川」と書かれていて、ここが川筋であることが分かります。
そのほかは地元の伝聞ですが、天王寺高校横の三明町公園のところに石垣があり、断崖になっていますがここの横の道は猫間川だつたそうです。それが我孫子筋につながるのかそれとも桃が池のほうに向かうのか?私も上流を探ってみたことはあるのですが、
それ以上は分かりませんでした。母親は大正生まれで阿倍野区天王寺町南に住んでいましたが、子供の頃にドブ川があったという記憶は有るとのことです。30年ほど前は、大雨が降るとこの川が今は暗渠になっているため、水があふれよく周囲は浸水していました。文献等は全く無いのでご参考にならないかと思いましたが、うれしくも猫間川を研究されている方を発見し、書かせてもらいました。
on 08/30 at 21:31:PM
土井聡夫様コメントをありがとうございます。また実績のあるひとに情報を頂けました。
三明町公園のところは気になって、今年になって改めて見に行っていましたが、あの石垣はもしかしたら川があるときからのものなのかもしれないのですね。私はおそらく、続いて大阪工芸高校の横を通って桃ヶ池の方に流路があったのではないかと想像しています。
> 母親は大正生まれで阿倍野区天王寺町南に住んでいましたが、子供の頃にドブ川があったという記憶は有るとのことです。
ということですが、じつはここのところを今調べておりましてあつかましくもここで問いかけをしてみたいのです。というのは、お母様が幼少のころ、恐らく大正末期から昭和初めにかけて、源ヶ橋以南は既に市街化が進んでいたのか、まだ農地が結構残っている状態だったのか、ということを今調べようとしています。そんなことは、分かりますでしょうか?誠にあつかましいですが…
on 08/31 at 16:04:PM
メール頂いた亀井です。先ほど父に会いましたので、猫間川の件は谷口さんにも聞いてくれるように頼んでおきました。父が子供の頃には既に暗渠になっていて、たまに汚い下水が溢れたなぁなどと言ってました。
ところでコメント欄に土井さんのお名前がありびっくりしました。土井さん、以前にメールを頂きましたよね。お久しぶりです。
ウェブサイトの制作も滞っています。文章は全て出来たのですが、写真を撮影に行く時間がなかなかありません。
on 09/01 at 07:28:AM
亀井吾郎様椋です。別途メールも再度送らせて頂きました。一方的に質問を投げかけましたのに対応頂き、ありがとうございます。
土井聡夫様へのコメントにも同じような質問を書いているのですが、猫間川筋で都市化の進んだ時期を今調べており、それをもとに判断できることがあるのではないか、と考えています。
その調査をしているうちに輪がひろがっているような感じになっています。
on 09/13 at 14:19:PM
亀井さんってウロボロス堂の・・・ですね。お久しぶりです。さて、市街化についての件、これまた伝聞で申し訳ないのですが、戦前までは少なくとも畑の広がるのんびりした地域であったと聞いています。というのも農地解放までは地主の所有する土地であったためあちこちに借家はあったものの、家が密集ということはさしてなかったようです。もちろん寺田町の一角や源ヶ橋は市電もあり、商店街もできた(源ヶ橋商店街)ので部分的密集は想像できますが。私が小学生の頃(約35年前)には商店街の近くに養鶏場があったり、現在25号線となったところに金魚池があったり、という状態でした。高松地区自体が阿倍野の中でのんびりした所という特殊性があるかもしれません。むしろ生野の猫間川筋の方が埋め立て工事の記録などを見ると、朝鮮の方も含め密集していたと思います。
on 09/13 at 23:21:PM
土井聡夫様貴重な情報をありがとうございます。口碑であっても伝聞であっても情報が欲しいと考えているところです。
最初にコメントを頂いてから土井さんが文章を書かれた『残影』をアマゾンで購入し、手に取っては読んでいます。これもまたいろいろ考えるもとにさせて頂いています。
on 09/15 at 16:28:PM
むくのき様残影購読ありがとうございます。それで思い出したのですが、
鶴橋商店街振興組合(旧 国際マーケット)で数年前に仕事で
お世話になったとき、商店街の通路のマンホール(大阪では「かいしょ」とか言いますよね)を商店の人が指差して、「この下、猫間川が流れとんねんで」とおっしゃっていたのを思い出しました。たしか
振興組合の事務所やお地蔵さんのある通りだったと思います。
全く別の話ですが、これも思い出したので。4年前ほどに、昭和町4丁目交差点を少し東に(南田辺駅方面)入った散髪屋さんで「うちのエアコンは地下水を使っていますねん。ちょうどチンチン電車の高台からこの前の道に雨水が流れてくる地下水の道があって桃が池か長池にに流れてるらしいですわ」と言われていました。猫間川とはあまり関係ないかも知れませんが、水源を考える材料になればと。
on 09/23 at 01:56:AM
土井様明治時代の地図(陸軍参謀本部作成の)とにらめっこし、近鉄鶴橋駅のガード下の商店街を通る道が猫間川の川筋あとに違いないと考え、そのことを「猫間川筋」という章の冒頭で書きました。
他の地図を見ると、ずうっと環状線沿いに川が流れているようになっているものもあるので、どっちが本当だろうと内心思っていました。
> 振興組合の事務所やお地蔵さんのある通りだったと思います。
この通りがまさに私が川筋だろうとおもった路地で、自分の想定が間違っていなかったらしいということもさることながら、商店街の方々はそういう歴史もちゃんと呑み込んだ上で生活されているのだ、ということが分かり、嬉しくなりました。ありがとうございます。
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ちょっと「ねこま」で調べてみると、
「猫
和名抄に、和名禰古萬(ねこま)とあり、古代はネコマといったのを、後代に下を略してネコといい、上を略してコマともいう。
年を経た老猫は、体大きく、尾が二股に分かれて妖怪変化をなす。これを猫マタという。尾が二股になっているからであろう。近ごろ、ある屋敷で猫にさまざまな怪異があった。屋根の上に寝ているその猫を見たら尾が二股であったと、その家中の侍が話していた。徒然草に“ねこまた”のことが書かれており、昔から言われていることと見える。」
……安斎随筆 〔古来の朝廷や武家の礼式・官職・法令などに関して考説した、江戸中期の幕臣で故実家・伊勢貞杖(1717~1784)の随筆。33巻。〕
というのが見つかりました。
また、扇の親骨の透彫の一種。或いは円く或いは細く連続して彫りすかし、猫の目のようにさまざまに形をかえたものを猫間(ねこま)と呼ぶようですし、建築用語に、片引き猫間(かたびきねこま)というのもあり、透かし彫りの入った細工を猫間(ねこま)と呼んでいる。
やはり、最初の「古代はネコマといったのを、後代に下を略してネコといい、上を略してコマともいう」というものの「コマ」が「高麗」へ転じたのか、それとも逆に「高麗」の「コマ」が「猫間」へ転じたのか、なかなか興味深いです。