猫間川の写真-猫間川をさがせ by 椋 康雄 マチともの語り-地域・物語り・短編小説
猫間川の写真
author: 椋 康雄
Posted on 10/08
 前章でも猫間川の写真を取り上げたが、実は手元にもう一枚写真がある。『東成区史』に掲載されている写真である。 『東成区史』には一九五七年刊のものと一九九六年刊のものがあるが、どちらにも猫間川の写真、ということで掲載されている。

東成区史に掲載されている猫間川の写真

 この写真は前章の写真とともに『猫間川源流探検記』というWEBサイトでその存在を知った。前章の写真は下水道関係の書物に載っていたのだが、この写真は『東成区史』という、猫間川について調べようと思ったら外せない書物に載っていたのであり、長い間見落としていたというのを我ながら恥ずかしくおもいながら、これを書き出している。

 小さな川が住宅が密集して建っている間を流れている。前章の写真では、猫間川に沿って未舗装の道が通っていたが、こちらの写真では建物のすぐ背後が川という光景であり、右手の岸は草が生い茂っている。夏に写した写真だろうか、という印象である。

 私はこの写真についても時期や場所を知りたいと思ったが、前章で「細工谷辺りの猫間川」と判断した写真と違い写り込んでいる情報がいかにも少ない。本当に猫間川の写真なのかも、にわかに判断出来かねる写真である。東成区役所に電話して聞いてみたが、撮影日時、場所、所有者のいずれも分からないとのことだった。猫間川を追っていると、こういうことが多い。

 先に白状してしまうと、現時点で明確にこの写真の撮影された時期と場所は分かっていない。それでも、ある程度まで推測を進めることはできたので、その経緯を書いてみたい。
 まず、写真から見てとれることである。

 ・川が右に湾曲していること(ただし、上流に向かっているのか、下流に向かっているのかまでは判断できない)

 ・川が住宅密集地を流れていること

 ・左手の河岸が石垣となっていること

 ・流れる水の量が(猫間川にしては)多いこと

 ここでいきなり話がそれるが、ちょっと大雨が降ると猫間川はすぐに溢れたようである。この写真は、雨の上がったあとで、水量がまだあるときに撮影したのかもしれない。猫間川の増水については書物や口碑から記憶を漁ることができる。
『甦えるわが街 戦災復興土地区画整理事業(東成玉造地区)』という行政が出版した書物には題にある区画整理事業の関係者による座談会が収められていて、

   (東成区中道校区には)西側の方には猫間川という川が
   ございまして、毎年出水の時には水をかぶったという
   ことがよくありました


 という話が出てくる。
 また、「源ヶ橋あたりから、南をのぞむ」の章に頂いたコメントにおいて、暗渠化されたあとも増水時には地上に水が逆流していた様子が見られたという記憶を、お書き頂いている。うろ覚えだが「黒門の石橋はよう水に浸かった」という話を読んだか聞いたかしたような気がする。兎に角、回りから雨水が流れ込む猫間川は、普段と増水時の変わりようが激しかったようで、それが住民から疎まれて暗渠化されてしまった要素のひとつだったといえるのだろう。

 そもそも水害については「物語の中の下流」の章へのコメントというかたちで中九兵衛氏からご教示頂いた『城連寺村記録/乾』(長谷川家文書・『松原市史史料編』所収)において、西除川と猫間川が桑津で合流しているので南田辺村・砂子村・桑津村は水難多き場所にて候、としていることからも分かるように、大和川付け替え以前からの大阪というまちの問題点であった。水捌けのよくない低湿地に川が何流も集まっているために増水時は行き場がなくなり、すぐにまちが水に浸かってしまったのである。いまの大阪が元々の地理条件と見比べてみて割りと水害から免れているのは、地下貯水施設を設けるなどの公共工事を積み重ねてきた結果であろう。現在、台風が上陸してもそうそう排水溝から水が溢れるようなことはそうそう起きていないのではないか。これらの設備がなければ、今でも大阪は台風の到来のたびに、水に浸かっているはずである。

 ここら辺で写真に戻るが、写っている川を猫間川と考えてよいのかというと、やはりそう判断して良いだろうと考えている。河岸の石垣が、その証拠で、石垣は猫間川のシンボルだ。

 手がかりが限られているので、場所を消去法で絞ってみた。まず最初に、鶴橋~勝山通りではなかろうと考えた。この区間は人手で掘られた流路でほぼ直線であること、また前章で触れたの写真や絵から、猫間川に沿って道があったと思われる。写真の風景とは異なるのである。この風景は鶴橋から北(下流)であるか、勝山通りより南(上流)である、という推測が成り立つ。大雑把にいえば、真ん中は除外してよいようなので、どちらかの端だろう、ということだ。

 まず上流(南)はどうか。少なくとも源ヶ橋より上流であるとは考えにくい。というのは、そこまでいくと市街化が遅かったようなのだ。猫間川筋が現在のJR大和路線や国道二五号線と交差する辺りは高松というところで、いまは都会の景色だが第二次世界大戦直後の時点でもまだ農村風景が残っていたらしい。昭和初期の時点で市街化が進んだ南限は、源ヶ橋辺りだと思われ、橋付近より北は新平野川の開削開始(大正末期)から急速に工事に携わるひとが住み始めたようで、写真のように川があった時期に建物が建っていたとしてもおかしくはない。この区間は前章「和楽路屋の地図」でも触れたが昭和三~十三年の間に暗渠化されたらしい。写真が大正~昭和初期に撮影されたとすれば時期的にもありえるようだ。

 ただ、この区間の猫間川はかなり天井川化していたらしい、ということから考えると、写真の風景でありえる区間は絞られる。天井川の有様がいまに残っている話は「小流たち」の章で述べたが、写真を見る限り川ぎりぎりに建物が建っているふうで、川岸が堤防状に盛り上がっていたようには見えない。もし写真がこの区間のものだとすれば、源ヶ橋付近のごく限られた場所しかありえないのではないかと思われる。現在でも源ヶ橋の交差点あたりは道と回りの土地の高さにそれほど差がみられない。

 逆に下流(北)を検討してみる。中道の大和橋付近(以前書いたことのある、中道銀座通りで猫間川に掛かっていた橋)辺りまで、候補に挙げられる。大和橋より北はもう砲兵工廠や練兵場であり、民家が密集して建てられるような条件はなかったはずである。

 さてこの区間に含まれる玉造近辺だが、こちらは市街化が早かったらしい。先に引用した『甦えるわが街~』の座談会でも、時期について明確に言及されていないが中道地区が住宅密集地であったことが語られている。また、私は最近、玉造の日の出通商店街内にある「オカダヤ」という洋菓子店を訪れたのだが、ここでも市街化の時期についてヒントになるお話を聞けた。

 この店を訪れる経緯についてはまた章を分けて書きたいが、とにかくご主人は名前も名乗らない私にひとしきり玉造のまちについて話してくれた。そして私がお店がいつからあるのか尋ねると「大正七年から」であることを教えたうえで、玉造は大阪で一番はやくガス灯が整備された土地なのだ、ということを誇らしげに語って下さった。これは大正末期ごろの玉造の様子を推し量る材料になる。この付近の都市化が急速であったということで、まだ猫間川が流れていた時期に、住宅地の間を流れる写真が撮られていてもおかしくはない。玉造が城東線(今のJR環状線の前身)の始発駅だった時期、最も繁華なまちであり、演芸の中心地のひとつだったのであり、ガス灯の整備が早かったことは意外でない。

 以上のようなことを積み重ねてみて、私はなんとなく写真は下流側、昭和十年前後の小橋より北のどこかを撮ったのではないかという気がしている。もちろん独断である。あとは、現在の景色と照らし合わせて推測するしかないのかもしれない。
 実際、今まで撮影した写真に改めて目を通してみて気になる風景が見つかった。千日前通りから北に東小橋本通りを見た写真である。真っ直ぐな通りだとおもい込んでいたが、意外にも右にゆるやかなカーブを描いている。この区間が暗渠化されたのは昭和八~九年である。

東小橋本通り

本日:3 今週:24 累計:5273(5/9 15:00より)



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