三明町の石垣
三明町(さんめいちょう)という漢音の地名を持った土地が大阪市阿倍野区にある。
阿倍野区役所のすぐ北あたりである。阿倍野区役所の前を、あびこ筋を通ってよく自動車で通って母校の大学に行き来したものだが、交差点の名前にでもなっていなければ途中の地名など気にも留めないもので、猫間川筋を歩いていて公園の名前としてはじめて認識したものだった。
三明をサンミョウと読めば呉音であり、仏教用語になるらしい。調べてみるとこの地名は三明池という名の池がこの地にあったことが起源であるようだが、最初はサンミョウイケだったようだ(『角川日本地名大辞典』や陸軍測量部地図による)。四天王寺に近いことから想像してしまうが、現在の行政区域でいう大阪市東成区から生野区、天王寺区、阿倍野区といった土地は早い時期から仏教の影響があったとしても不思議ではない。
以前にも書いたようにおもうがこの付近は割と最近まで農村地帯だった。今は違う。むしろ住宅密集地域といってもいい。
この地が開けてくるきっかけは学校だったかもしれない。私が最初に三明町という地名に気づいた、と述べた三明町公園の東側には府立天王寺高校があるが、この地に最初に校舎が出来たのが大正八年という。そのときはまだ人家はなく、ただ田畑が広がっていたらしい。阿倍野区役所の南側にある大阪市立工芸高校は大正十三年に現在地(文の里一丁目)に校舎ができたそうだ。こちらは創立当初の校舎の写真というのを見たが、だだっ広い場所に校舎が唐突にたっているような印象の光景である。ちなみにこの時立てられた校舎は建築物として美しく、現在に至るまで保存工事を経て大事に使用されているらしい。あびこ筋からわずかに入ったところにあるため今は建物が間にあり、自動車で幾度と無く前を運転したはずの私には印象が薄いが、要はそれくらい今は街になってしまっている。
何の話をしているのかというと、この三明町に猫間川の痕跡らしきものが残っていて、そのことを書き記したく、そのための前講釈である。
現在も道路として残っている猫間川筋は、三明町公園の西側の箇所で終わりとなる。ここで道路は西に曲がり、あびこ筋に合流してしまう。実際の猫間川は恐らくこの道のようにではなく、阿倍野区役所前の交差点に向かってそのまま南西から流れていたのではないかと考えている。ここまではたぶん、正しい推測だろう。
この三明町公園は猫間川筋から見ていくぶん土地が高くなっているのだが、その公園の壁が石垣になっている。この石垣が、猫間川が流れていた時代以来のものであるかもしれない、という示唆を最初に受けたのは土井聡夫氏(関西テレビディレクター)から頂いたコメントによるものだった。その後、「わがまち天王寺町」というWEBサイトを運営されている写真家亀井吾郎氏に昔の高松(三明町から国道二五号線をはさんで北のあたり)の様子を問い合わせていたところ、亀井さんのお父さんの友人であるという、谷口利夫氏の筆による猫間川について書かれた文章を参考に送って頂くことができた。
この文章に、
その名残が、今でも天王寺高校西側の公園下に見られる「野
づら式」の石積みで、かつて猫間川の護岸に用いられたもの
であると見られる。また天王寺町南二丁目には小字名八反田
より、渡り所に向けて架けられていた石橋の一部が敷石とし
て現存している。
と書かれている。この「天王寺高校西側の公園」というのが三明町公園である。

猫間川筋の南端、三明町公園の石垣、つまり、猫間川の石垣
繰り返して書いているが、石垣は猫間川のひとつの象徴のようで、残っている絵でも写真でも、河岸を石垣で固められた、川と言うよりは堀のような姿が常にある。「本当に猫間川の石垣か」ということになると、いずれの情報も推測の域を出ていない、ということになるようなのだが、ここではこの石垣は猫間川の遺構である、ということにしておきたい。するとこれは、河口部分や三軒茶屋の石橋と較べても遜色ない、規模からいえばむしろ大きな遺構が、まだ残されているということになるのである。
ただ、それを示すものは現地にはない。おそらく公園内に碑もないのではないか。それでも市井の方の文書がそのことを残されている、というのがいかにも大阪らしく、好ましいように私には感じられる。
私は三明町公園のある猫間川筋の終端にも何度か足を運んでいるが、川のあった時代からの遺構が目の前にあることには気付かずにいた。ちなみに、続けて書かれている天王寺町南二丁目の「石橋の一部」はJR阪和線の通っている辺りとおもうが、敷石が残っているということにはついぞ気付かず、こちらについては通ってはいるはずだが記憶や写真から探ることができない。どうも私は宝の前をうろうろしてちっとも見つけられない、といったふうであるようだ。

JRが上を走る「猫間川第二高架橋」。上記敷石の残っているはずの辺りである。
さて、さきに引用した谷口利夫氏の文章は、猫間川についてでも特に源流地について述べられた部分になる。私も猫間川の源流については以前に言及したことはあるが、かなり大づかみな書き方になっていた。谷口氏の文章はその点、精緻である。
猫間川の源流地は当初阿倍野区内の桃ケ池・長池あたり
から発しているという説もあったが、地元の説や東成区
史・東成区誌によるといずれも源流は天王寺村大字天王
寺小字高松と記されている。
(中略)
また地元(高松)に伝わることでも先に記述した各説を
裏付けするかのように発流地は旧小字八反田付近にあっ
た通称「ボテショの池」といわれた池の付近だと言う。
私はもうすこし南に位置する「桃ヶ池・長池あたりから発している」という説も、全く外れてはいないのではないか、と考えているのだが、少なくとも大和川の付け替え(宝永元年/一七〇四~)以降から暗渠化までは「ボテショの池」付近が源流地だったと確定してよいだろう。明治期の地図(陸軍測量部の明治十九年と四十一年測量のものが手元にある。この地図についても谷口氏の文章できちんと触れられている)を改めてみると、確かに猫間川は現在の阿倍野区役所あたりで止まっているように見える。私などは、桃ヶ池が源流であろうという先入観に囚われていてこの部分を過小評価していたが、地元の言い伝えを念頭に置いて読めば地図の記述は正確であると思えてくる。
冒頭に書いた三明池は川より西にあったようで、今でいうとJRと近鉄の線路に挟まれたあたりになるのだろう。現在は大きなショッピングセンターやあびこ筋の北端部分、あるいは天王寺小学校になっている。
「ボテショの池」は三明池とは別の池で、源流部分かと思われる箇所(阿倍野区役所付近)より東の、現在のJR美章園駅西側あたりに位置していたらしい池がそれだろうか。池が源流池だったわけではなく、池の近くに別に水が少量ながらも沸く場所があり、それが猫間川の始点を為していたようだ。今のように建物が立ち並んでいない昔は見渡す限りの田畑か雑木林、という風景で、そのなかでふと、水溜り程度の大きさから始まっていたように思われる。濫觴、という言葉を思い出すが、猫間川は短く、か細かったのであり、このことばを生んだ大陸のひとに聞かれれば私の連想は笑われてしまうだろう。

上記地図のうち、明治四十一年測量の地図。右上が源ヶ橋。中央辺りからの流れがそこに向かっているように読める。
三明をサンミョウと読めば呉音であり、仏教用語になるらしい。調べてみるとこの地名は三明池という名の池がこの地にあったことが起源であるようだが、最初はサンミョウイケだったようだ(『角川日本地名大辞典』や陸軍測量部地図による)。四天王寺に近いことから想像してしまうが、現在の行政区域でいう大阪市東成区から生野区、天王寺区、阿倍野区といった土地は早い時期から仏教の影響があったとしても不思議ではない。
以前にも書いたようにおもうがこの付近は割と最近まで農村地帯だった。今は違う。むしろ住宅密集地域といってもいい。
この地が開けてくるきっかけは学校だったかもしれない。私が最初に三明町という地名に気づいた、と述べた三明町公園の東側には府立天王寺高校があるが、この地に最初に校舎が出来たのが大正八年という。そのときはまだ人家はなく、ただ田畑が広がっていたらしい。阿倍野区役所の南側にある大阪市立工芸高校は大正十三年に現在地(文の里一丁目)に校舎ができたそうだ。こちらは創立当初の校舎の写真というのを見たが、だだっ広い場所に校舎が唐突にたっているような印象の光景である。ちなみにこの時立てられた校舎は建築物として美しく、現在に至るまで保存工事を経て大事に使用されているらしい。あびこ筋からわずかに入ったところにあるため今は建物が間にあり、自動車で幾度と無く前を運転したはずの私には印象が薄いが、要はそれくらい今は街になってしまっている。
何の話をしているのかというと、この三明町に猫間川の痕跡らしきものが残っていて、そのことを書き記したく、そのための前講釈である。
現在も道路として残っている猫間川筋は、三明町公園の西側の箇所で終わりとなる。ここで道路は西に曲がり、あびこ筋に合流してしまう。実際の猫間川は恐らくこの道のようにではなく、阿倍野区役所前の交差点に向かってそのまま南西から流れていたのではないかと考えている。ここまではたぶん、正しい推測だろう。
この三明町公園は猫間川筋から見ていくぶん土地が高くなっているのだが、その公園の壁が石垣になっている。この石垣が、猫間川が流れていた時代以来のものであるかもしれない、という示唆を最初に受けたのは土井聡夫氏(関西テレビディレクター)から頂いたコメントによるものだった。その後、「わがまち天王寺町」というWEBサイトを運営されている写真家亀井吾郎氏に昔の高松(三明町から国道二五号線をはさんで北のあたり)の様子を問い合わせていたところ、亀井さんのお父さんの友人であるという、谷口利夫氏の筆による猫間川について書かれた文章を参考に送って頂くことができた。
この文章に、
その名残が、今でも天王寺高校西側の公園下に見られる「野
づら式」の石積みで、かつて猫間川の護岸に用いられたもの
であると見られる。また天王寺町南二丁目には小字名八反田
より、渡り所に向けて架けられていた石橋の一部が敷石とし
て現存している。
と書かれている。この「天王寺高校西側の公園」というのが三明町公園である。
猫間川筋の南端、三明町公園の石垣、つまり、猫間川の石垣
繰り返して書いているが、石垣は猫間川のひとつの象徴のようで、残っている絵でも写真でも、河岸を石垣で固められた、川と言うよりは堀のような姿が常にある。「本当に猫間川の石垣か」ということになると、いずれの情報も推測の域を出ていない、ということになるようなのだが、ここではこの石垣は猫間川の遺構である、ということにしておきたい。するとこれは、河口部分や三軒茶屋の石橋と較べても遜色ない、規模からいえばむしろ大きな遺構が、まだ残されているということになるのである。
ただ、それを示すものは現地にはない。おそらく公園内に碑もないのではないか。それでも市井の方の文書がそのことを残されている、というのがいかにも大阪らしく、好ましいように私には感じられる。
私は三明町公園のある猫間川筋の終端にも何度か足を運んでいるが、川のあった時代からの遺構が目の前にあることには気付かずにいた。ちなみに、続けて書かれている天王寺町南二丁目の「石橋の一部」はJR阪和線の通っている辺りとおもうが、敷石が残っているということにはついぞ気付かず、こちらについては通ってはいるはずだが記憶や写真から探ることができない。どうも私は宝の前をうろうろしてちっとも見つけられない、といったふうであるようだ。
JRが上を走る「猫間川第二高架橋」。上記敷石の残っているはずの辺りである。
さて、さきに引用した谷口利夫氏の文章は、猫間川についてでも特に源流地について述べられた部分になる。私も猫間川の源流については以前に言及したことはあるが、かなり大づかみな書き方になっていた。谷口氏の文章はその点、精緻である。
猫間川の源流地は当初阿倍野区内の桃ケ池・長池あたり
から発しているという説もあったが、地元の説や東成区
史・東成区誌によるといずれも源流は天王寺村大字天王
寺小字高松と記されている。
(中略)
また地元(高松)に伝わることでも先に記述した各説を
裏付けするかのように発流地は旧小字八反田付近にあっ
た通称「ボテショの池」といわれた池の付近だと言う。
私はもうすこし南に位置する「桃ヶ池・長池あたりから発している」という説も、全く外れてはいないのではないか、と考えているのだが、少なくとも大和川の付け替え(宝永元年/一七〇四~)以降から暗渠化までは「ボテショの池」付近が源流地だったと確定してよいだろう。明治期の地図(陸軍測量部の明治十九年と四十一年測量のものが手元にある。この地図についても谷口氏の文章できちんと触れられている)を改めてみると、確かに猫間川は現在の阿倍野区役所あたりで止まっているように見える。私などは、桃ヶ池が源流であろうという先入観に囚われていてこの部分を過小評価していたが、地元の言い伝えを念頭に置いて読めば地図の記述は正確であると思えてくる。
冒頭に書いた三明池は川より西にあったようで、今でいうとJRと近鉄の線路に挟まれたあたりになるのだろう。現在は大きなショッピングセンターやあびこ筋の北端部分、あるいは天王寺小学校になっている。
「ボテショの池」は三明池とは別の池で、源流部分かと思われる箇所(阿倍野区役所付近)より東の、現在のJR美章園駅西側あたりに位置していたらしい池がそれだろうか。池が源流池だったわけではなく、池の近くに別に水が少量ながらも沸く場所があり、それが猫間川の始点を為していたようだ。今のように建物が立ち並んでいない昔は見渡す限りの田畑か雑木林、という風景で、そのなかでふと、水溜り程度の大きさから始まっていたように思われる。濫觴、という言葉を思い出すが、猫間川は短く、か細かったのであり、このことばを生んだ大陸のひとに聞かれれば私の連想は笑われてしまうだろう。
上記地図のうち、明治四十一年測量の地図。右上が源ヶ橋。中央辺りからの流れがそこに向かっているように読める。
本日:2
今週:17
累計:4680(5/9 15:00より)
土井
on 02/23 at 22:49:PM
途中で切れてすみません。意味不明で・・・。さて、金魚屋さんの北側のかんさいせんがの高架下あたりは、
いまでもそうですが 、水が溜まるイメージがあります。
母方の祖父が八反田の地主だったので、聞いておけばよかったと
悔やまれます。
on 03/17 at 02:06:AM
土井様椋です。またお読み下さりありがとうございます。
明治期の地図を見ると、書かれている金魚屋さん北側あたりは三明池のあった辺りのようで、「水が溜まるイメージ」というのはすごく分かる気が致します。土地勘を肌身にお持ちの方のお話ですね。
古い話というのは語られずに終わりがちで、特に人の出入りのあるおおきな都市ではそんなものなのかもしれません。それに抗いたくて、話が集まってくるきっかけとしたくて、この文章を書き始めたのでした。
夜桜地蔵
on 06/13 at 10:17:AM
こんにちは、はじめまして。楽しく読ませていただいております。
地図に示されたポテショ池、
位置がちがうように思います。
猫間川源流はかつて長居公園にあった池じゃないのかな?と長年考えております。
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興味深いですね。ちなみに私の家はかつて、元の鉄道病院=今のコーナンのすぐ近くにあったのですが、コーナンの国道を隔てたところは養魚場(金魚屋さん)でした。国道がいまの幅になったころ、
つぶれましたが・・・。さら