光竜寺川-猫間川をさがせ by 椋 康雄 マチともの語り-地域・物語り・短編小説
光竜寺川
author: 椋 康雄
Posted on 02/11
 前章で書いた三明町をもう少し南に行くと、桃ヶ池がある。この池は思い出深い。 私が通っていた大学はJR阪和線沿いにあり、桃ヶ池はこの阪和線沿いにあり、私は学生だった四年間、電車からこの池を眺めて行き来していたことになる。

 阪和線沿いは住宅密集地と思ってよい。堺を過ぎ南下し、和歌山に近づいていかないとなかなか緑が見えてこない。そんななか、阪和線の始点である天王寺駅にほど近いまちなかにありながら、桃ヶ池は公園となっていて樹木が残されている。池には噴水が設けられていて、高層マンションも建ち並ぶなかで周りと空気を異にした場所となっている。

 前章で猫間川の源流はこの池よりも少し北、現在の阿倍野区役所の前あたりだったということを書いた。ここで源流、というのは大和川付け替え(宝永元年/一七〇四)以後の、ということである。それ以前、猫間川はもっと南から流れていたのではないかということを私は考えており、そのことをまとめてみたい。

 桃ヶ池辺りより上流(南)に来ると私にとって学生時代以来の身近な場所になってくるわけだが、反比例するかのように猫間川にかかわりのある情報は乏しくなってくる。川があったとして大和川付け替え以前の話なのだから当然ではある。ただそれでも、地図を眺めていると速断をしたくなる誘惑に駆られてしまう。

 というのは、たとえば大和川より北については桃ヶ池から長池、更に長居公園の池や依網池(よさみいけ、現存せず)といった溜め池が連なり、これらの池を縫って流れる川があっただろうと想像したくなるのである。
 更に手元にある和楽路屋刊の地図を見ると、町境線がいい具合に湾曲していて、田畑の広がっていた時代に境界線が引かれたのなら、それは川の存在を根拠として引かれ、それがこの地図の時期である昭和初期に残存していたのではないかという気がしてくる。

和楽路屋刊地図、桃ヶ池~依網池付近
和楽路屋刊『大阪市区分地図』(昭和十一年)


 ただ、あくまでも推論の域を出ない。さまざまな観点から探したが、江戸初期以前に川があったかどうか、というようなことについての記述はなかなか見つからない。

 依網池の北に江戸期まで広大な寺域を誇ったという大聖観音寺、つまり「あびこ観音」などは、猫間川が流れていたとすればすぐ近くに境内があり、あるいは境内を川が縦断していたかもしれないとおもい、何か縁起などに残っていないか調べてみたのだが、何も出てこなかった。というのもこの寺は明治に入って火災により一切を失っているのである。もしかしたら灰の中に私が探しているものはあったかもしれないが、聖徳太子以来とも言われる歴史については失われたものの方が多いようである。

 あとこの地で事跡が文章や古地図に降り積もって残る可能性があるのならばそれは水利に関係してのことになると思われる。そして具体的には「大和川」ないし「狭山池」という言葉を触媒として残されている。特に大和川の付け替えが周囲に与えた影響はこと農作に関しては生命に直結することだったという意味で根本的なものだった。それがため、愁訴の行動が文章になって残されている。

 このような古文書がまとめられたものとして、『松原市史』史料編がもっともまとまったものと言えるようである。現在の大和川より北の地域、田辺、長居、我孫子、杉本町、庭井といった地区の文書は対象となっていないようであるが大和川以南についてはおおくの古文書が参照しやすいかたちで収められている。実際「猫間川の写真」の章で言及した城連寺村の古文書もここに収められているというものである。

 この城連寺村の資料が猫間川の上流部の川筋を推測できるものとしてはいまのところ唯一のもので、この文章に書かれた猫間川がその位置関係から「源ヶ橋あたりから、南をのぞむ」の章で引用した大依羅神社(おおよさみじんじゃ)蔵『大和川開鑿前地方図』の一番西の川筋であろうと考え、「猫間川は依網池を通る流路を上流に持っていただろう」という論を私は持っている。ちなみにこの古地図が収録されている『絵図に描かれた狭山池』(大阪狭山市教育委員会、狭山池調査事務所編)が古地図の方がもっとも見やすくまとめられた書籍ということになるだろう。

 この依網池を通る川について考えるとき、光竜寺川という小流の存在が重要なものになる。

 現在の光竜寺川は堺市にある大泉池を河川法上の起点とし、北流して西除川に注いで終わっている。ほぼ依網池のあった位置である。細く、かつ水が生活排水で汚れた川であるらしい。

 地図をみていてこの川かもう少し西で西除川に合流している狭間川のいずれかが猫間川の古い川筋の今の姿ではないかと考えていたが、いずれも決定的とは思われずにいた。その理由は両川についての情報が著しく少ないこともあるし、少ない情報に猫間川に関係するような記述が皆無なこともあるし、何よりもいまの流路には人の手が入り変わってしまっていることが挙げられる。戦後の区画整理で直線的な流路に変えられてしまったらしいが、元は自然河川としての流路を持っていた。

 光竜寺川の重要性に気がついたのは前述『松原市史』の第一巻の方を眺めていて、松原市域に残る条里制の区画の痕跡について書かれた部分に収められている地図を見ていたときのことだった。この地図では光竜寺川は元の流路で描いてある。この地図について松原市の教育委員会にメールで問い合わせなどするうちに、旧陸軍参謀本部測量部による地図にはちゃんと旧流路が記録されていることを確認できた。この流路は依網池を掠め、少し南下したところにある大泉池を掠め、さらに南になる大池を掠め、石原という村落にある埴池を源流にしているように見える。この石原という場所をさらにもう少し南下すると、「源ヶ橋あたりから、南をのぞむ」の章で古地図上源流地に見える、とした丈六という村落になるのである。実際にはこの石原あたりが猫間川の大和川付け替え以前からの源流地ではないだろうか。

旧陸軍参謀本部地図の、光竜寺川部分
旧陸軍参謀本部明治四十一年作成地図に描かれた、光竜寺川

 ただ、この光竜寺川については前述の通り情報が少ない。川の名前の由来もわからないし、そもそも旧流路もこの名前で呼ばれていたのかわからない。いつ現在の流路に変更されたのかもわからない。松原市に問い合わせをした際、「昭和二十二年に撮影された航空写真では、光竜寺川はまだ旧水路を保っており周辺も水田地帯となっている」という情報を頂いたが、この終戦二年目に撮影されたらしい航空写真の現物を私は確認していない。そもそも他に文章で区画整理が実施された期間や経緯を説明するものにもお目にかかっていない。現時点で断定できるのは、大依羅神社蔵の地図で依網池を通る川と光竜寺川の旧流路が同じものを指しているだろう、ということである。これがさらに猫間川の古い流路と同一であることが証明できれば、私にとってのパズルがひとつ出来上がることになる。

 ただ、大依羅神社蔵地図では川は桃ヶ池がある北というよりも北東方向を指して流れているようで、現在の川で言うと駒川ないし今川の流路を指しているようでもある。駒川と猫間川がもともとおなじ「こまがわ」だったかもしれない、ということは以前書いたような気がするのでこの流れが猫間川だ、という言い方は間違っていないのかもしれないが、まぁそのような穴のある持論ということでやはり速断かもしれない、ということは書き添えておく。

 最後に、現在の光竜寺川は大泉池を起点としているということは書いたが、地図を見る限り石原の埴池から大池に北上する小流が今も残っている。おそらくは明治期の地図に残っている光竜寺川の痕跡であろう。ただし、何と呼ばれているかは未確認のままだ。これがもしかしたら、痕跡ではなく川として現在も残っている猫間川なのかもしれない。

大依羅神社蔵『大和川開鑿前地方図』
大依羅神社蔵『大和川開鑿前地方図』再掲。『絵図に描かれた狭山池』(大阪狭山市教育委員会、狭山池調査事務所編)より。光竜寺川と思われる部分を拡大し、他の地図と比較し易いように上下逆にして北を上にした。

本日:1 今週:19 累計:4883(5/9 15:00より)



あおい
on 06/25 at 01:26:AM
初めまして。夜分遅くに大変失礼致します。
1946~1947年の航空写真ならインターネット上で無料で閲覧することができますよ。航空写真・米軍とキーワードを入力してみて下さい。
on 06/25 at 10:10:AM
あおい様

 コメントありがとうございます。椋です。

 教えて頂いた航空写真の検索サイトは、これを書いたあとで私も気がつきました。「参考文献一覧」http://machi.monokatari.jp/...には載せていたりします。本文執筆中に気がつくべきだったのですが、あとで気がつき、そのままできました。でもご指摘頂けるのはとてもありがたいのです。

 改めてみると、確かに光竜寺川の川筋が読み取れます。本文最後に書いている、埴池からの流れも、偶然この文章の公開あとに時間があって、駆け足で見に行きました。この章は時間をかけた割りに、そんなことがたくさんありました。
あおい
on 06/25 at 18:01:PM
私は猫間川の存在を「猫間川源流探検記」や「猫間川についての覚え書き」、そしてこちらのホームページで知りまして、とても興味を持ち今日に至っています。猫間川は古地図によると、高松の地で終わっているものもあれば、桃ヶ池から流れているように描かれているものもあり、なかなか源ヶ橋以南の流路は特定できません。
明治前期昭和前期大阪都市地図などを見ますと、住吉区は細江川の支流が網目状に走っており、その支流の中には長池のすぐ近くまできているものもあります。長池・桃ヶ池も昔は繋がっていたように描かれている地図もあります。そして堺市にはちょうどよさそうな位置に狭間川・光竜寺川がある。私も大和川付け替え工事以前はこの二つの川のどちらかが猫間川に通じていたと思っていました。でも資料が少ないので、妄想の域を出なかったわけですが…。
on 07/03 at 22:12:PM
あおい様

 コメントをありがとうございます。あおい様からの3回目のコメントがサーバ移行の際に消失してしまったようです。申し訳ありません。Googleのキャッシュから取得してきましたので、引用します。

(以下引用)

度々失礼致します。今日大学図書館で狭山町史とう本を見つけました。その中にある地図に、光竜寺川の旧流が見受けられました。こちらははっきりと埴池(あるいは吉田池とも繋がっているように見えます)と住吉区庭井の池、おそらくよさみ池を繋いでいる様子がはっきりと描かれています。よさみ池付近は細井川が網目状に走っていたので、細井川とも何らかの形で接続していたものと思われます。

(引用ここまで)

「狭山町史」の地図は私も再確認してみます。そして細井川ですが、この川といえば私は阪堺電車の細井川駅を思い出します。この駅付近の細井川は、彫刻刀で深く抉ったように川岸が切り立っていて、その様を見るたびに猫間川を思い出しました。両川が実はつながっていたとしたら、私としては直感が当たっていたように感じます。

 さて、サーバ移行の際には、著者の不注意でリンクが切れた画像があります。ファイル名に日本語を使っていたためです。これからその復旧を致します。
綱吉
on 07/09 at 18:47:PM
「猫間川をさがせ」おもしろく拝読いたしました。で、反論です。が、貴殿のように調べた訳ではなく、感覚的に思ったことで間違ってたらごめんなさい。
まず源流を阿倍野区役所あたりとする説。基本的に猫間川は上町台地の東斜面の水を集めて流れてた川で、上町台地は区役所よりもっと南の万代池から住吉大社のあたりまであるのだから変だと思います。流路が確認できるのが阿倍野区役所までで、源流はやはり桃ヶ池、長池と台地の東のそこにある池を辿るのでは?
次に大和川付け替え前は堺の石原にある埴池を源流とする説、これも上町台地は今の長居公園通りあたりでいったん低くなり(猫間川の流域の南限)、我孫子から浅香山とまた高くなる。その浅香山を開削して大和川を流したのだから、猫間川と大和川の付け替えは関係しないのでは?
根拠にされた『大和川開鑿前地方図』でも依網池からの北流はだいぶ東に振れ駒川、今川の方角に流れてる。
大阪府立狭山池博物館に狭山池の潅漑範囲が点灯するディオラマ
がある。確か依網池は点灯するが桃ヶ池、長池は範囲外だったように記憶しています。
on 07/11 at 01:46:AM
綱吉様

 コメントをありがとうございます。

 猫間川の源流地については諸説あるようで、

松原からの流れもあったとする説もあり、
桃ヶ池や長池などからの小流を集めたとする説もあり、
もっと短いように書いてあるものもあります。

 私としてはより確実な裏づけがほしいわけですが、いまのところ『三明町の石垣』で引用した谷口利夫氏の文章が、文献的にも口碑としての価値も一番高いように評価している訳です。もしこれを越える文献があれば是非読んでみたいですし、そんな情報が集まってこないだろうか、と考えているところはあります。

 そしてもう一点のご指摘ですが、これは私の方が感覚的に書いていることを先に告白しておきます。

 たしかに私の文章は地勢面からの考察が薄いですし、なによりも「そうだったらいいな」という思いからこの『光竜寺川』の章は書いているところがあり、その点論理の弱いところを突かれたらすぐ崩れるような内容ではあります。

『大和川開鑿前地方図』の依網池(よさみいけ)から北への流路が東に向いていることもご指摘の通りで、この流路は駒川である、という判断をするのが通常正しいとおもいます。
 私の空想は、それはそれとして、依網池から北へも細い流路があったのではないか、というふうに飛躍している訳です。

> 大阪府立狭山池博物館に狭山池の潅漑範囲が点灯するディオラマ

 と書いていただいたように、狭山池から見た視点というのは、再度時間をとってチェックしてみたいとおもいます。
綱吉
on 07/11 at 07:49:AM
最近、市立中央図書館で「大阪府下洪水澱川沿岸被害細図(明治18年9月20日朝日新聞第1978号附録)」なる地図がケースに入れて展示されてました。ご存じかもしれませんが参考まで。谷口説から脱却されることを期待します。
綱吉
on 07/11 at 09:01:AM
それと、上町台地の南に続く我孫子台地の北端の微高地が今の阪和線沿いに臨南寺から山坂神社あたりまで北東に延びているので、長池のような狭長な池が出来たと思います。依羅池はその我孫子台地の東斜面にあるから自然のままでは、北や西には流れません。もちろん高低といっても高々5mぐらいのものだから人工的に流すことは出来たでしょうが、潅漑用水か何かの分流としてで本流には成り得なかったように思いますが…。
on 07/12 at 23:42:PM
綱吉様

 いろいろ情報をありがとうございます。
 この章の補足文章をどこかのタイミングで書かねばならないことが分かってきました。

 地勢の件については我孫子台地についての言及部分でイメージがつかめました。この章に引用した和楽路屋の『大阪市区分地図』(縦に細長い画像)の左下から右上に向かって、我孫子台地の北端が走っていて、ということになりますね。

 源流については教えて頂いた「大阪府下洪水澱川沿岸被害細図」はまず参照します。奈良教育大のサイト内に画像らしきものがリンクされているのですが、縮小されてよく分からない。オークションサイトなどにも1万円くらいで出ているログが拾えたのですが、大阪市立図書館に見に行けるかどうかを検討中です。

 谷口利夫氏の文章が誤って事実をとらえていたとしても、では何故地元の方が誤ったのか、というそのずれが私には興味があるので、いままでと違う観点の情報収集ができたら、とおもっています。

 私はまだ、ある時期や前提においての「源流」は阿倍野市役所付近にあったという考えが否定しきれないので(私もひつこいですね)訂正文章をまとめられるまでには時間がかかるかもしれません。
あおい
on 07/13 at 01:15:AM
こんばんわ。今日は光竜寺川を下流から大泉池まで歩いてみました。JR浅香池から西除川に沿って歩いていったのですが、地図を持って行くのを忘れており、名前のない小流を光竜寺川だと思いこんでいました。狭間川と光竜寺川の間にある本当に小さな河川です。この川は新浅香山小学校の北西で西除川に注いでいます。
上流に行くに従って細くなりどぶ川のようになりました。地元の人に聞くとこの川は光竜寺川ではないということで急遽引き返しました。あの川が猫間川の源流だという説もありえますね。

なお、どうしてこんな河川を光竜寺川だと思いこんでしまったのかと言えば、地図を忘れていたから&堺市の地理を把握していなかったからですw
報告は以上です。
on 07/13 at 23:27:PM
あおい様

 レポートありがとうございます。

 確かに新浅香山小学校の近くで西除川(厳密には大和川に平行して走っている西除川放水路)に流れ込む流れがありますね。ちょっとしらべても川の名前は出てきません。

 私が考えている光竜寺川は引用した地図にあるようにもうちょっと東で、最近できた大型ショッピングセンターの「ダイヤモンドシティ・プラウ」がある辺りを南北に流れていたのではないかと思っているのですが、なにしろこの辺りは地理の変遷が意外なほど残っていない。断言はできないですね。

 ここ数日の綱吉様とのやりとりで、これが桃ヶ池近辺から北流する「猫間川」につながる可能性は甚だ低いようだ、ということになっているのですが、依網池(よさみいけ)~駒川につながる流れあった可能性はあるようにおもいます。私の頭の中では駒川と猫間川は同じ川と認識されていた時期があるのではないか、という考えがあるのです。

 ちなみに話が逸れますが、あおい様のコメントを読みながらGoogleMapを眺めていて、数年前にJR浅香駅を降りて、西除川放水路や狭山池のそばをあるいたことがあったのを、今日突然思い出しました。
あおい
on 07/14 at 01:11:AM
狭間川は大和川付け替え以前の地図によりますと、大和川の現在の流路に沿って大阪湾に注いでいたようです。それではどのような流路だったのかというと、狭間川の現在の流れを保ちつつ大阪市内に目をやると微妙に河川跡らしい道路が見受けられますよね。
山之内4丁目と5丁目の間の道路のことです。その道路はやがて西に折れ大和川の右岸に達します。もしかしたらこの道路が・・・と思っているのですがどうでしょうか。

光竜寺川についてですが、明治前期昭和前期大阪都市地図によると、現在の住吉区は細井川の水路が網目状に張り巡らされており、その細井川の水路の源流とされる依羅池に光竜寺川の旧流が注いでいるわけですから、細井川と光竜寺川は過去の一時代において繋がっていた可能性があります。更に細井川は長池のすぐ傍まで達しており、もしかしたら接続していた可能性もあります。
もちろん狭間川と光竜寺川の間の小さな名も無き川も昔の猫間川のイメージに近いところがあり、気になる存在ではありますが。
猫間川は古地図によると桃ヶ池から発しているように描かれているものがあります。そして長池と桃ヶ池は明治時代の地図によると繋がっているように描かれています。
無理矢理こじつけていますが、夢は大きい方がいいかとw
このように複数の水路や池を媒介して、猫間川と光竜寺川は接続していた可能性も捨て切れません。
ところで私には今川と鳴戸川がそれぞれどこからどこまでなのか分かりませんが、湯里の東端を流れている河川は、その東側にあった西池(交差店名に残る)を源流としているように描かれていますが、そう判断していいのでしょうか。
あおい
on 07/16 at 00:02:AM
報告です。
先日狭間川と光竜寺川の間の小河川について取り上げましたが、その名前は浅香川というそうです。地元の人は西除川放水路とひっくるめて西除川と読んでいましたが。光竜寺川は別の名前を仁王門川というそうです。いずれの名前にせよ寺院に関係があるようなので、その寺院の歴史を調べれば何か分かるかもしれません。
on 09/21 at 23:27:PM
綱吉様

『大阪府下洪水澱川沿岸被害細図』を実見する機会を得ました。

 凡例から判断して、猫間川の流路が、南田辺より更に南にある「池田池」から発しているように読み取れます。そしてその流域が全て浸水被害に遭ったようにも読み取れます。

「池田池」が現在のどこかをまだ調べられていないので中途半端な状態です。
あおい様

>山之内4丁目と5丁目の間の道路のことです。その道路はやがて西に折れ大和川の右岸に達します。もしかしたらこの道路が・・・と思っているのですがどうでしょうか。

 この道路は私もよく知っているのですが、地図でみるとなるほど今の大和川に沿った流路跡にもみえます。この辺りの、大和川付け替え以前の地図といったものは見たことがなく、せめて明治期の地図から見直してみようかと考え始めました。
on 10/03 at 15:27:PM
狭間川と細井川について、ご参考まで

大和川付け替え以前の拙家絵図に、依網池(味右衛門池)の西方辺りから北西に流れ安立町の南端から西方に流れて海に達するやや大きな川が描かれています。私はこれが「狭間川」と考えています。
安立町の南には橋が描かれています。阿倍野方面へのルート以外、いつも付け替え検分の西端個所であった「手水橋」と考えられます。紀州街道が通っており、ここでお清めをしたと伝えられています。
が、検分とは違って実際の工事は依網池を南西に突き抜けた後、上記の川を利用して北西に進んだあと、手水橋より南の位置で西向きに変えて海に達するルートをとったことが書き込まれています。従って、狭間川と思われる川は、新大和川の北側に並行して残ることになりますが、流れが新川で途絶えたことから、樋を設けて細い水路を残し埋めたてられた模様です。
付け替え後、その水路を「手水川」と記されている絵図が堺市博物館か図書館にあります。橋もそれにつれ小さなものとなりました。現在は水が流れていませんが、「手洗橋」として残っています。

府学芸員の小山田宏一氏は、上町台地を人工的に開削した住吉の掘割(現在の細江川)について「西除川の河水を引き込むように計画された依網池は、西除川の洪水水量の低減をはかる遊水池と考えられ、依網池から住吉大社に至る住吉の掘割は、依網池に流れ込む洪水水量を大阪湾に放流する水路である」とされています。
細江川(細井川)は、依網池の西北個所から北流したあと西流、安立町の北を住吉大社の南に達していました。
あおい
on 10/09 at 18:46:PM
中九兵衛様、情報をどうもありがとうございます。やはり狭間川はJR浅香駅以降、現在の大和川の流路を辿っていたんですね。「http://www.geocities.jp/iko...」の地図を見る限りでも、その手水川の辺りまで狭間川の広さがあったということが分かります。
さて依網池と細井川についてですが、これらの源流は、大和川付け替え工事以前は光竜寺川(現在の光竜寺川ではない昔の光竜寺川)と西除川からの支流(巨~何川だったか忘れましたが)からなっているようです。更に依網池からは駒川も出ており(古地図で確認済み)、ズバリ以下のような構図になるかと思います。

旧光竜寺川       細江掘割(細井川)
       →依網池→  
西除川支流       駒川
あおい
on 10/09 at 18:53:PM
失礼しました。西除川からの支流は巨麻川でした・・・っけ?
つまり猫間川はやはり高松の地・ポテショの池・桃が池辺りから出ていたと解するべきでしょうね。あと、言い忘れましたが、私は中九兵衛様の意見には全面的に賛成です。全く異論はございません。
最後にこれは余談ですが、先日狭間川をJR浅香駅から源流まで沿って歩きました。どういうわけか大和川流入地点付近では堤防が異常に高かったのですが、あれは大和川が天井川で、狭間川の方に水があふれて家屋が浸水するのを防ぐためのものでしょうね。
あおい
on 04/20 at 01:50:AM
お久しぶりです。旧光竜寺川について、大まかな流路を特定しました。
ダイヤモンドシティ東側の道路(西除川から府道28号に至る道です)が下流部分で、西除川の南岸には、その水路があったことを物語る鉄製の扉(水門?)が残っていました。
猫間川についての情報もここで。
天王寺高校の西側でぷつんと途切れていましたよね。そこからごく近い
コジマの南側辺りから、28号に沿って、阪神高速の一筋北東の道に入っていく流れを確認しました。
阪神高速に沿って…ですが、こちらも途中で途切れます。
あおい
on 04/20 at 01:55:AM
それと、「猫間川(跡)下流探訪 - まちかど逍遥」というサイトさんに興味深い記述がありました。
歩道のタイルの組み合わせが違う箇所・JRの敷地内にある鉄製の橋跡?らしきもの(大阪砲兵工廠にいたる通路跡と言及されているようですが、猫間川跡としか思えませんわ)。
是非一度ご覧になって下さい。
on 04/20 at 23:20:PM
あおい様

ご無沙汰しています。椋です。

いわれているのは大阪工芸高校の前の道でしょうか? その道を川跡っぽいなぁと何度か歩いてみたことがありました。もし出典など教えて頂けるものでしたら、お教え下さい。

森之宮~大阪城公園間のところは、私も始めて気がつきました。面白い視点です。お教え頂きありがとうございます。
あおい
on 05/08 at 01:24:AM
明治前期昭和前期大阪都市地図というものですが、大きな図書館には置いてあると思います。
この地図は猫間川以外にも、大阪市の全域を網羅しているので、結構重宝しています。
あおい
on 05/08 at 01:32:AM
ちなみに細い流れは大阪工芸の前の道ではありません。うまく説明できませんが、あべの筋から分岐して、阪神高速の北側に平行して流れ、
途中で途切れます。
まぁ支流なのかそれともただの水路なのか分かりませんが、上記の地図には載っています。
猫間川の文の里以南については、資料もなく、古地図は信憑性がないので、どうにもならずお手上げです(笑)
。明治期の地図は現在の地図と照合しやすいのですが、猫間川の源流については記載されていませんし。
on 05/11 at 23:20:PM
あおい様

コメントありがとうございます。椋です。

> あべの筋から分岐して、阪神高速の北側に平行して流れ、

雰囲気としては分かります(笑)。教えていただきましたので、是非あたってみたいとおもいます。
あおい
on 05/19 at 22:39:PM
三明町公園(猫間川石垣の)を西に行くとあべの筋に出ますよね。その辺りから、阿倍野筋の西側(歩道かな)を、南へ進み、ロイヤルホストの手前辺りで、南東に折れます(信号はありません)。ちなみにその道を延ばすと、大阪民踊学校にぶち当たります(地図見て物を言ってます)。
分かりにくくて申し訳ないのですが、
自分は椋様に紹介して頂いた所までしか訪れておらず、まだ探索しておりません。猫間川の支流かなと思っていますが全く関係ないってオチもありますので(笑)。
あおい
on 05/09 at 00:13:AM
お久しぶりです。大阪市立中央図書館で猫間川絵図のようなものを貴重資料として保管していることを発見しまして、見せてもらったところ、猫間川は杉本村の辺りまで来ていたようです。狭山川(西除川)・駒川・平野川・菱江・玉串・久宝寺川など他の河川の位置も全て正しかったので、猫間川が桃ヶ池よりも更に南に源流地を持っていた可能性が出てきました。
細井川と光竜寺川の関係も地図を古地図と照合した結果、細井川の一流はほぼあべの筋に沿い大和川へ至り、旧光竜寺川の終点の丁度向かいです。地図によってはこの二つの川が繋がっていることを示しているものもありました
on 05/09 at 12:28:PM
あおい様

ご無沙汰しております。椋です。コメントのやりとりをさせて頂くのがほぼ1年ぶりですね。

それはさており、資料についてお知らせ頂きありがとうございます。『古大和川跡 平野川 猫間川絵図』という名前で保管されている資料でしょうか?

昨日日帰りで大阪に行っておりましたので、知っていれば西長堀まで言ってしまったかもしれません。
あおい
on 05/09 at 19:24:PM
たぶんそうだと思います。図書館の検索PCで「猫間川」と入力すれば出ます。杉本村と表記がわざわざあるのでその近くまで行っていたことは確かなんでしょうが、流路が分かりません。あと大阪の地形図を見ていると猫間川~桃ヶ池~長池~杉本村の辺りまで窪地で繋がっているようにも見えます。まさか人工の堀割・・・。
細井川は上流で堀割となっていましたからあり得ない話ではないですが、真相は不明です。
on 05/20 at 23:28:PM
あおい様

コメント頂いた翌週、再度関西に行くことがあり、無理すれば市立図書館に寄れないこともなかったのですが、なんとなくまたにしようと考え、東京に戻っておりました。現在別の書き物がまとまらずにいて、そちらを優先するつもりもあったのですが。

その後インフルエンザが出たわけで、もしかしたら虫の知らせでとっとと帰らされたのかもしれません。

流行が落ち着いて国内移動できるようになったら、行こうと考えております。

この辺りはご指摘の通り水が想像力をかきたてる感じで残っているので、情報が出てくると嬉しくなってしまいます。
あおい
on 05/21 at 23:57:PM
長池と細井川が接続していた証拠がようやく見つかりました。大阪市立中央図書館の3階地図コーナー・阿倍野区(?)の引き出しの古い地図です。また資料の名称が分かり次第、お伝えしますが、これで旧光竜寺川~依羅池~細井川~長池~(明治前期には繋がっていた)~桃ヶ池~猫間川が一本に繋がりました。
あと克服すべきは高低差と流れの向きです。
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