(拾遺)源ヶ橋温泉
『源ヶ橋あたりから、南をのぞむ』で触れた源ヶ橋は、かかっていた猫間川が埋められてしまっているのでもちろん橋も現存せず、ただ交差点の名前として名を残している。
この源ヶ橋交差点から東に「生野本通商店街」というアーケードの商店街が延びている。 東にずうっと歩いていき、ある路地を右に曲がったところに「源ヶ橋温泉」という銭湯がある。
この銭湯は建物が古く、登録有形文化財に指定されているというもので、遠地はるばる湯に浸かり、建物の雰囲気を楽しみに来る方が居られるらしい。私も銭湯は好きで大阪市内でもあちこち行った経験があるのだが、残念ながらこの銭湯は入ってみたことがない。
この銭湯の前に、源ヶ橋の柱が残されている……というような記述をネット上で検索していて見つけ、すぐに間違いだろう、と思った。そのような「遺跡」があればもっと他の文献でも言及されているはずだが、今まで目を通した資料、例えば『和楽路屋の地図』の章で触れた『わが郷土生野村を語る』というリーフレットなどには全く出てこない。
それでも、現地には行ってみた。風呂には入ったことがないが、だいぶ以前にこの辺りは歩いていて、久々である。
丁度雨が降り出したなか、まだ日が高くて営業開始前銭湯の前に立った。確かに入り口の両側に石柱が建物にはめ込まれて立っていて、向かって右側は「源ヶ橋」、左側は「げんがばし」と彫られている。確かに橋柱の形状ではあるが、にわかに真贋見極め難い。
私は思い切って閉まっている引き戸に手をかけると、思いもかけず開いていた。男湯を開けて声をかけると、更に思いがけないことにご主人が出てこられ、相手をして下さった。
この前の橋みたいなのですが、ほんものですか、とたずねてみる。
「分からないですねぇ」
と春風が吹くような調子で答えが返ってきた。
「この建物が最初に登記簿に載ったのが昭和十二年。それより前は分かりません。建てたときの持ち主ももういませんし、分からないです」
「そもそもそんな昔にこれだけ綺麗に石が磨けたかどうか。怪しいですよ」
源ヶ橋を含む区間が埋め立てられたのは昭和三年~一三年の間である(『東成区史』より)。橋が撤去された時に、何かの経緯で橋柱が引き取られ、建物の一部に取り込まれたとして、有り得ないタイミングではない。ただ、源ヶ橋は少なくとも元々は木製の橋だったようで、石であった時期があるかどうか、定かでない。
「そういけばこんなものが……」
とご主人が銭湯の脇にあるご自宅の方の玄関に入り、門の後ろに捨て置かれている石柱を見せて下さった。その石柱にも源ヶ橋、と彫られているのだが、途中で折れている。よくよく見ると上には温泉マークが彫られていて、それを見つけて思わず声をあげて笑ってしまった。これがもし今の「橋柱」の前身とすると、やはりその出自はあやしいようである。
雨が強くなってきたので、銭湯の入り口に避難して、話は続いた。
「私もいろいろ調べてみましたが、川がどこを通っていたか、橋がどこにあったか、はっきりとは分からないですねぇ。川も昔は違う字だったようですが、今は猫に間でねこまがわ」
「源ヶ橋については、ここより上流(南)に橋はなかった。ここが最初の橋なのでみなもとの橋で源ヶ橋という説。それからもうひとつの説はご存知ですか?」
「この橋のあった辺りに盗賊が居て、ある時若い男を殺して金品を奪うのだが、これが生き別れた息子だった。それを悔いて橋をかけたのだが、この男が源某だったので源ヶ橋という説もあります」
あとの方の説は私も知っている。これが定説らしい、と思っていたが、そうでもないらしい。
「商店街を少し左(西)に行って、郵便局のある方に路地を曲がると祠があって、そこにいわれが書いてあります」
この祠も以前、訪れたことがあるのですぐに思い当たった。改めてあとで行って見たら盗賊の話以外に「有源という人物が水難で亡くなったひとを弔うため、地蔵を彫った」という話も、祠の中に掲げてある。要するに橋の名前の詮索など、誠に空しい。

「生野高校は、今は松原の方に移ってしまいましたが以前はこの商店街沿いにあった。そこの教師で奥村先生というのが本を書いたということで、ポストに入れて下さっていたことがありました。エスペラント語で猫間川について詳しく書かれた本でした。学校に通うのにこの商店街を通られていたのでしょうね、源ヶ橋温泉ということで関係があるということで入れて下さったのでしょう。そのころ私はこういうことに興味がまだなくて、ちゃんと読まずにおりましたが」
エスペラント語なんかで書かれてたら、読まれしまへんな、と混ぜかえすと、
「いえ、対訳なんです。左のページにエスペラント語、右のページに日本語、というふうに。生野区役所に頼まれていろいろ調べたときに、奥村先生にも聞いてみようとおもって尋ねたんですが、もう亡くなられたとのことでそこであきらめてしまいました。それがもう三、四年前でしょうか。エスペラント語の普及に、実績を残されたとおもうんですよ」
「生野区を(十字線で)四つに分けると、この地区には遺跡もなにもないんです。つまり、南西部。なにしろ田畑だけの土地だったんですから。南東には舎利寺などありますし、北にも「つるのはし」跡とかあるがこの地区は本当に何もない。大阪冬の陣・夏の陣のときも、この辺りは下級武士が守ったんじゃないかとおもうんです。名のある武将が守れば事跡が残りますから。生野区役所もそれで私に頼んだとおもうんですが、その後どうなりましたか」
私はある程度、猫間川の姿を掘り起こせたようにおもっていた。というか、今もそのようにおもっているのだが、ご主人のお話を聞いていて、また猫間川が霧の向こうに隠れていくような気分を味わった。この地に住まわれて、区役所に依頼を受けるほどの方が「分からない」とおっしゃられる。
「結局、この柱はこの建物のために、あとに作られたのだとおもいますよ。お役に立てずに」
その挨拶を契機に、こちらも長居を詫び、お暇した。

この源ヶ橋交差点から東に「生野本通商店街」というアーケードの商店街が延びている。 東にずうっと歩いていき、ある路地を右に曲がったところに「源ヶ橋温泉」という銭湯がある。
この銭湯は建物が古く、登録有形文化財に指定されているというもので、遠地はるばる湯に浸かり、建物の雰囲気を楽しみに来る方が居られるらしい。私も銭湯は好きで大阪市内でもあちこち行った経験があるのだが、残念ながらこの銭湯は入ってみたことがない。
この銭湯の前に、源ヶ橋の柱が残されている……というような記述をネット上で検索していて見つけ、すぐに間違いだろう、と思った。そのような「遺跡」があればもっと他の文献でも言及されているはずだが、今まで目を通した資料、例えば『和楽路屋の地図』の章で触れた『わが郷土生野村を語る』というリーフレットなどには全く出てこない。
それでも、現地には行ってみた。風呂には入ったことがないが、だいぶ以前にこの辺りは歩いていて、久々である。
丁度雨が降り出したなか、まだ日が高くて営業開始前銭湯の前に立った。確かに入り口の両側に石柱が建物にはめ込まれて立っていて、向かって右側は「源ヶ橋」、左側は「げんがばし」と彫られている。確かに橋柱の形状ではあるが、にわかに真贋見極め難い。
私は思い切って閉まっている引き戸に手をかけると、思いもかけず開いていた。男湯を開けて声をかけると、更に思いがけないことにご主人が出てこられ、相手をして下さった。
この前の橋みたいなのですが、ほんものですか、とたずねてみる。
「分からないですねぇ」
と春風が吹くような調子で答えが返ってきた。
「この建物が最初に登記簿に載ったのが昭和十二年。それより前は分かりません。建てたときの持ち主ももういませんし、分からないです」
「そもそもそんな昔にこれだけ綺麗に石が磨けたかどうか。怪しいですよ」
源ヶ橋を含む区間が埋め立てられたのは昭和三年~一三年の間である(『東成区史』より)。橋が撤去された時に、何かの経緯で橋柱が引き取られ、建物の一部に取り込まれたとして、有り得ないタイミングではない。ただ、源ヶ橋は少なくとも元々は木製の橋だったようで、石であった時期があるかどうか、定かでない。
「そういけばこんなものが……」
とご主人が銭湯の脇にあるご自宅の方の玄関に入り、門の後ろに捨て置かれている石柱を見せて下さった。その石柱にも源ヶ橋、と彫られているのだが、途中で折れている。よくよく見ると上には温泉マークが彫られていて、それを見つけて思わず声をあげて笑ってしまった。これがもし今の「橋柱」の前身とすると、やはりその出自はあやしいようである。
雨が強くなってきたので、銭湯の入り口に避難して、話は続いた。
「私もいろいろ調べてみましたが、川がどこを通っていたか、橋がどこにあったか、はっきりとは分からないですねぇ。川も昔は違う字だったようですが、今は猫に間でねこまがわ」
「源ヶ橋については、ここより上流(南)に橋はなかった。ここが最初の橋なのでみなもとの橋で源ヶ橋という説。それからもうひとつの説はご存知ですか?」
「この橋のあった辺りに盗賊が居て、ある時若い男を殺して金品を奪うのだが、これが生き別れた息子だった。それを悔いて橋をかけたのだが、この男が源某だったので源ヶ橋という説もあります」
あとの方の説は私も知っている。これが定説らしい、と思っていたが、そうでもないらしい。
「商店街を少し左(西)に行って、郵便局のある方に路地を曲がると祠があって、そこにいわれが書いてあります」
この祠も以前、訪れたことがあるのですぐに思い当たった。改めてあとで行って見たら盗賊の話以外に「有源という人物が水難で亡くなったひとを弔うため、地蔵を彫った」という話も、祠の中に掲げてある。要するに橋の名前の詮索など、誠に空しい。
「生野高校は、今は松原の方に移ってしまいましたが以前はこの商店街沿いにあった。そこの教師で奥村先生というのが本を書いたということで、ポストに入れて下さっていたことがありました。エスペラント語で猫間川について詳しく書かれた本でした。学校に通うのにこの商店街を通られていたのでしょうね、源ヶ橋温泉ということで関係があるということで入れて下さったのでしょう。そのころ私はこういうことに興味がまだなくて、ちゃんと読まずにおりましたが」
エスペラント語なんかで書かれてたら、読まれしまへんな、と混ぜかえすと、
「いえ、対訳なんです。左のページにエスペラント語、右のページに日本語、というふうに。生野区役所に頼まれていろいろ調べたときに、奥村先生にも聞いてみようとおもって尋ねたんですが、もう亡くなられたとのことでそこであきらめてしまいました。それがもう三、四年前でしょうか。エスペラント語の普及に、実績を残されたとおもうんですよ」
「生野区を(十字線で)四つに分けると、この地区には遺跡もなにもないんです。つまり、南西部。なにしろ田畑だけの土地だったんですから。南東には舎利寺などありますし、北にも「つるのはし」跡とかあるがこの地区は本当に何もない。大阪冬の陣・夏の陣のときも、この辺りは下級武士が守ったんじゃないかとおもうんです。名のある武将が守れば事跡が残りますから。生野区役所もそれで私に頼んだとおもうんですが、その後どうなりましたか」
私はある程度、猫間川の姿を掘り起こせたようにおもっていた。というか、今もそのようにおもっているのだが、ご主人のお話を聞いていて、また猫間川が霧の向こうに隠れていくような気分を味わった。この地に住まわれて、区役所に依頼を受けるほどの方が「分からない」とおっしゃられる。
「結局、この柱はこの建物のために、あとに作られたのだとおもいますよ。お役に立てずに」
その挨拶を契機に、こちらも長居を詫び、お暇した。
本日:2
今週:17
累計:3528(5/9 15:00より)
椋 康雄
on 04/18 at 22:57:PM
玉造猫様お読み下さり、またご指摘下さりありがとうございます。椋です。
東小橋北公園のモニュメントは見過ごしておりました。この公園の東縁及び南縁を猫間川は流れていたはずで、何か関わりがあるものがないかと何度も通ってみたことがあるのですが、やはりそういうものが作られていたのですね。
玉造猫
on 04/19 at 22:47:PM
椋さまモニュメントは公園の北東角にあります。
私が見つけたのはたしか1年ほど前ですが、椋さんがご存じないと言うことは、いつ作られたのでしょうか。お通りになれば必ず目に付くところですので。
作成時期、作成者など書いたものはなかったように思いますが、こんど、確かめに行ってみます。
公園と長堀通りを隔てた位置の、中道のカーブが、どうも川の感じみたいだと素人考えに思ってましたのが、やはり川の跡だったとわかり、なにかうれしいです。
モニュメントの写真をお送りする方法がありましたら、送らせていただきます。
on 04/20 at 19:44:PM
玉造猫様玉造近辺は最近も時々足を運んでいるのですが、公園を歩いたのは思えば昨年の2月頃が最後でしたでしょうか。
ただ、私は本当に見過ごしていることがあるのでお恥ずかしいようなことなのかもしれません。
もしメール添付でお送り頂けるようなら是非見させて頂きたく、郵送がよろしいようなら送付先をご連絡するように致します。
玉造猫
on 04/21 at 22:05:PM
椋さまメール添付で送らせていただきます。
ですが、どこを開けると椋さんのメールアドレスが出てくるのか、
いろいろ試みましたが、できません。
恐縮ですが、お教えください。
on 04/22 at 14:57:PM
玉造猫様椋です。
私が公開しているメールアドレスはqwl06676@nifty.comになります。このコメントの名前にもリンクを埋め込んでおりますのでご利用下さい。
時間があれば直接赴けば良いのですが、次いついけるかスケジュールが立っていません。大阪を離れて大阪を書くのもなかなか骨です。
on 04/22 at 12:16:PM
きょう 初めて見ました。私の父は猫間川にかかっている家で生まれました。大正14年。まだ その家が残っているはずなので、父とその弟(昭和3年生)を連れて、近く訪問しようと、思ってます。私は、昭和28年生、幼稚園から高校までの同級生が、玉造幼稚園前の、蓮久寺の住職をしています。
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「猫間川をさがせ」をたいへん興味深く読ませていただきました。
2年前に玉造に転居してきたことと、『夜を賭けて』「日本三文オペラ』を読んだこととで、猫間川に関心を持ちました。図書館でうまく資料が探せなかったところ、今回webで椋さんのサイトを見つけることができ、喜んでいます。
JR玉造駅東側の東小橋北公園に、とてもささやかですが、モニュメントがありますね。「ねこまがわ」と記した橋の欄干風のものと、溝の周囲に石を配置しています。
椋さんの続きを楽しみにしています。