(拾遺)あるエスペランティストの小伝-猫間川をさがせ by 椋 康雄 マチともの語り-地域・物語り・短編小説
(拾遺)あるエスペランティストの小伝
author: 椋 康雄
Posted on 05/01
 奥村林蔵(おくむら・りんぞう) 一九一二(大正元)年四月十三日、和歌山に生まれる。教師、エスペランティスト。大阪府立生野高校などで数学教師として教鞭を取る傍ら、エスペラント語の教育に取り組み、世界エスペラント協会(UEA)の大阪市教育部門都市代表者も務めた。 またエスペラント語による俳句の創作、詩・昔話などの翻訳に実績を残した。二〇〇〇(平成十一)年八月十八日、大阪市内の病院にて肺炎のため死去。享年八十八歳。

 前章の源ヶ橋温泉の郵便受けに「猫間川について詳しく書かれた、日本語とエスペラント語対訳の本」を入れられた奥村先生について、「生野高校」「エスペラント語」「奥村」という言葉を頼りに調べた結果、ごく型通りな略歴を書き上げると冒頭のようになる。
 実際には奥村先生は上記では書きつくせない人間味に溢れた人物であったらしい。それは生野高校の卒業生やエスペラントの教え子の方々が「おくりん先生」とあだなで呼んで懐かしむ様子からも伺える。

 エスペラント語という人造の国際語について私の理解は浅く、子供の頃にその存在を知って以来、今回までその名を聞いた記憶があまりない。
 英語(米語)が標準語として圧倒的な地位を掴み取ってしまった感のある今日、エスペラント語が占める役割や関わられている人数には限られたものがあるようだ、というのが私の正直な感想ではある。
 もちろん、エスペラントを創り出す前のラザロ・ルドヴィコ・ザメンホフも英語の使い易さについては認識していたようで、今の事態は想定されたことなのだろう。それでも「国際語として英語を使えば、アメリカ人が得をするのである。中国語では中国人が、日本語では日本人が得をする。それでは不公平なのである。その点、エスペラントというのは、どんな国の人でも、必ず少しは勉強せんならんのである。だれでも少しづつ苦労するから、エスペラントは公平なのである」と奥村先生は語り続けられた(松田克進氏による追悼文より。関西エスペラント連盟の機関紙『La Movado』二〇〇〇年十月発行の第五九六号)。

 ただ、上記のように言われながら奥村先生がエスペラント語の状況について客観的な目を持っておられた。『大阪エスペラント運動史』(松本茂男編、柏原エスペラント資料センター刊)に寄稿され、その第三部に掲載されている「大阪での私のエスペラント活動」という文章がある。あくまでもその時代の現場に居られたエスペランティストを読者として想定して書かれた文章なので私のような部外者にとって読みやすいとは言い難いものだが、奥村先生自身から発せられた自伝という意味では、今回に参考にさせて頂くこと大だった。
 この文中に「(先輩である進藤静太郎氏が、教え子がエスペラント語とフランス語のどちらをやろうかと考えていたが、エスペラント語をやることに決心してくれた、と嬉しそうに話してくれたのをきいて)エスペラント語は儲からないと思う。もし、こちらからすすめて、それで決心なさったのならば、あとでうらまれるかもしれない」と思った、と書かれている。決してエスペラント至上だけに盲従されるような精神ではなかったことが、この一文からも分かる。
 それでも、既に生野高校のエスペラント部の指導をされて何年も経った時期にふと「他に何の道楽もない私、エスペラントを一生の道楽にしよう」という決心を改めてした、と書かれているのがいかにも好ましい。

 世界エスペラント協会の役職をされたことについても言われたままに引き受けた、ぐらいにしか書かれておらず、ここら辺肩書きや国などに幻惑されずに奔放に活躍できる、和歌山人らしい一面が伺える。

 ところで私の興味は奥村先生が書かれたとおぼしき「猫間川についてのエスペラント対訳本」になるのだが、これがどうもよく分からない。奥村先生自身の創作物としては、句集『Guto da roso』(露の一滴、とでも訳せるか)の第一集、第二集がある。また、昔話などの翻訳としては『生野の民話 Historiaj popol-rakontoj de Ikuno』(一九九〇)、『平野のおもろい話 Distraj legendoj de Hirano 』(一九九二)、『岸和田の昔話 Folkloroj de Ki^si~uada』(一九九八)が確認でき、手元にある。いずれも自費出版のようでその勢力的な仕事ぶりが見て取れるし、費用的にも見返り薄い出版だったであろうことをおもうと「一生の道楽」の面目躍如という気がする。

 上記以外に奥村林蔵の名前で確認できる、購入可能な、あるいは検索可能な書物が無いことが、私を戸惑わせている。
 よってここからは推測になってしまうのだが、源ヶ橋温泉のご主人の記憶は勿論間違いではなく、ただ対訳本は恐らく手製の小冊子というような体裁のもので、正式に出版されたものではなかったのではないか。

 奥村先生が「猫間川」に興味を持っておられた痕跡を探すと、上記『生野の民話』に見出すことができる。原本は堀井守三編、「生野民話の会」刊となっている書物で一九八八年に出版されている。奥村林蔵訳本には巻末にインデックスが付されているのだが、このインデックスの中に「Nekoma-ga~ua」が上げられていて、出現箇所として二ページが書かれている。どうもこのインデックスは奥村先生が作成されたと思しい。

 ちなみに内容については、エスペラント語を訳しているといつまでかかるか分からなかったので、堀井守三氏編の方を参照した。最初の記載箇所「第十五話 源ヶ橋の由来」では、私が前章でわざわざ調べにいったことについて「入口に橋の親柱と同じ石碑を建て、源ヶ橋温泉の看板にしています」と明記されている。
 もう一箇所はそのものずばり「第三十九話 猫間川」の章となる。他の資料では見つけられなかった内容が含まれており、猫間川にかかっていた橋について、私が始めて知った名前がいくつかあった。

 国分橋。勝山通りと源ヶ橋の間、東から四天王寺に至る俊徳街道が猫間川を渡る地点にかかっていた。

 府立農学校校道にかかっていた名の無い木の橋。今の勝山通り近辺にかかっていたかと思われる。

 三枚橋。二軒茶屋の少し南、玉造の東にかかっていた。幽霊が棲むという噂があった。

国分橋や三枚橋の位置
 和楽路屋刊『実地踏測大阪市街図』(大正十四年刊)に橋の大体の位置を書き込んだもの

 これらを読んでいて、もしかしたら源ヶ橋温泉のご主人が受け取られたのは、これらの文章の、猫間川についての部分だけを抜粋したものだったかもしれないとおもった。
 ただ、奥村先生が地元の歴史をもしかしたら生徒たちと調べるうち、ちょっとした本を書くくらいまで知識を集められたのではないか、それを形にしたのが幻の「対訳本」ではないか、という想像も、捨てきれないでいる。

 奥村先生がはじめてエスペラント語と出会ったという旧制生野中学五年生当時、昭和四年にはまだ猫間川は学校の近くを流れていた。前年の昭和三年より源ヶ橋より北部分の埋め立て工事が始まったことが記録として残っている。奥村先生にとっては猫間川は、川として、風景の一部として、学生時代に現存していたものだった。
 教師として生野高校(旧制生野中学の後身)に戻ってこられたのが昭和二十三年とのことで、埋め立ては完全に終わっていた。これより前に生野高女(現在の勝山高校の前身。前述の農学校の近くにあった頃か)に赴任されたとのことだから、生野に戻ってこられたのはもう少し前だろうが、戦火もあいまって学生時代との著しい風景の違いを実感されていたはずである。猫間川は「失われた光景」として奥村先生にとって分かり易く、また気になる存在だったのではないだろうか。

 エスペラントにも生野高校にも縁のないものに思われるのは奥村先生としては存外なことかもれしないが、猫間川についての先人として偲んでおきたく、想像も含めて斯様な小伝を書かせて頂いた。

(注 エスペラント語の表記は、"^"や"~"を文字の前にして筆者にとって記述し易いようにさせて頂いた。実際は文字の上に表記される)

本日:2 今週:11 累計:3862(5/9 15:00より)



on 05/02 at 05:53:AM
「クナーボ クーラス」
「クナビーノ カンタス」
ぼくがいま覚えているエスペラント語はこの二つだけ。
中学二年生の頃、エスペラント語のクラブができるというので、当時から好奇心旺盛なぼくはさっそく入会したのだ。教えるのは図工の年配の教師で、参加した生徒は数名だった。
授業で学ぶ英語と別にエスペラント語を学習するというのは、放課後の楽しみで、今でも覚えているくらいだから、かなり一生懸命だったらしい。

猫間川の記憶を書き記したエスペラント語の文章が存在するというのは不思議で、とてもワクワクする素敵なことですね。

ところで冒頭のエスペラント語の意味は
「少年は走る」
「少女は歌う」
on 05/02 at 17:32:PM
流石MAOさん、エスペラント語も勉強された経験があるのですね。

今回エスペラント語の文章にはほとんど歯がたちませんでした。『岸和田の昔話』の巻末に奥村先生による簡単な文法講座があったのと、『松岡正剛の千夜千冊』の伊東三郎『ザメンホフ』の回 http://www.isis.ne.jp/mnn/s... にちょっとだけ紹介されているのは参考にしたのですが、本当はちゃんと勉強せねばならなかったかもしれません。

奥村先生の翻訳は日本に限らず他の国のエスペラント団体においても販売されていたりするようで、遠い国のエスペランティストがNekoma-ga~uaという響きを口にすることもあるかもしれないというのは、確かに奇妙なような、凄いことのような気がしますね。
on 05/03 at 08:06:AM
ご紹介のあった『松岡正剛の千夜千冊』の伊東三郎『ザメンホフ』の回を読むと

>日本では1919年に日本エスペラント学会ができて、二葉亭四迷、土岐善麿、秋田雨雀、新村出、黒板勝美、それに大杉栄、山鹿泰治、長谷川テルなどが関心を寄せ、実際にも使用しました

とある。なかなか興味を惹かれる錚々たる顔ぶれですね。
しかし、昭和四十年代の北九州の中学校で、なぜエスペラント語を学ぶクラブができたのか不思議です。

東西冷戦の緊張した世相というのが背景にあったとしても、生徒たちにエスペラント語を紹介し、学ばせようとした図工の教師の真意はどこにあったのか? 考えれば謎が深まる。

言語のオープンソース化の先駆的な試みと考えると、インターネットが世界をつないだ今こそ、エスペラント語の精神が発揮できる時代が到来したといえるかもしれないですね。
on 05/04 at 22:49:PM
> 言語のオープンソース化の先駆的な試みと考えると

 という点については、私も今回そう思いました。こんにちのようにネットが普及すると、エスペラント語などは凄い威力を発揮する可能性があるのだが、実際どんなもんなんだろう。

 調べているなかで、ウィキペディアのエスペラント語版に行きあたり、奥村林蔵氏についても書かれているので感心したことがありました(→http://eo.wikipedia.org/wik...)。

 知らない間に、ダイナミックな動きがおきているのかな、と感じます。
on 05/15 at 00:19:AM
はじめまして。ウィキペディアの参加者です。「ウィキペディア」と「エスペラント」で検索したところ、偶然このブログを見つけました。

奥村林蔵氏につきましてはまったく知らないのですが、このブログの記事を見ながら若干加筆しておきました。

http://eo.wikipedia.org/wik...
on 05/17 at 04:47:AM
りょほう様

 コメントありがとうございます。椋です。

 ウィキペディアであれば当然ありうることながら、自分の書いたものがウィキペディアの参照した情報に逆反映されることになるとは思っておりませんでした。

 ブログも見せていただきました。本来、しかるべき質問先があるのでしょうが、かつ脱線なのですが、ここでひとつ伺ってみたいことがあります。
 エスペラント語でŬやŝなど、通常のキーボード上にないアルファベットがあるのですが、エスペラント語をWEBやワープロでお使いの方々はどのように入力されているのでしょう?
 上の文字はコピー&ペーストしたものなのですが、本文を書いているときにどうしようかと悩んだところなので、書かせて頂きました。
on 05/22 at 02:49:AM
入力方法は人によってさまざまですが、私は、あらかじめ単語登録しておいて、変換して入力する方法をとっていますc^→ĉ

キーボードの設定を変えて入力する方法では、
http://homepage1.nifty.com/...
「エスペラント語キーボードレイアウト」を使う方法があります

あと、文字コード関係でわからないことがあったら、http://www5d.biglobe.ne.jp/...
の掲示板で質問するのがお勧めです。
on 05/22 at 22:24:PM
りょほう様

 丁寧に教えて下さり、ありがとうございます。参考にさせて頂きます。どこかのタイミングで、本文中の綴りを直そうかと思います。
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