あとがき
『猫間川をさがせ』は二○○五年二月一日に最初の文章を公開しており、一年以上にわたって不定期に発表してきたことになる。
「(拾遺)あるエスペランティストの小伝」を最後の章として、いったん完結したい。
最初の半年は月二回のペースでの発表を行ってきたが、その後はかなり間隔が開いてしまったこともあった。それでもなんとか「書き上げた」と自分がおもうところまで書けたのは、あせらないように助言頂くといった配慮を頂いたMAOさん、WATAさんの御蔭によるところ大きく、感謝したい。ありがとうございます。
今改めて読み返し、細かい点で記述が合っていない点もあり、そればかりか誤記・誤字まであり、WEBに書くという形態ならではのこととしても酷かったと反省したところである。
『猫間川をさがせ』はこの川について、記録と記憶と両面できちんと残したい、という欲求を形にしたものである。そして最初に書いた記憶があるが、書いていることによって情報が集まってこないか、という狙いもあった。
実のところ「光竜寺川」という章を書いた時点で完とする、ということも考えたのだが、取材していくなかで思わぬことで情報が集まることが何度かあった。そんな中で、特に教えて頂いたこと自体を書き残しておきたい、とおもうひとがいらっしゃり、本筋ではないという気持ちで(拾遺)と題につけて、更に四章を書いた。
完結するといいながら、実のところ文中でも仮定や想像で終わっている点が多々あり、そんなことについてまた新たな情報が積み重なってきたら、臆面もなく続編を書き始めるかもしれない。私にとって猫間川はまだまだ続いているテーマなのである。
今までお読み頂いた方々、アドバイス頂いた方々、新たな情報を教えて下さった方々に感謝し、これからも読んでいただける文章になるように、最後に仕上げをしたい。できれば大阪に行ったことが無い方にも読んで頂ける文章でありたいと願っている。
参考文献についても現在まとめており、近日中にここに公開して、本当の完了とする予定である。

最後に、『光竜寺川』の章で書いた、埴池からの流れ。猫間川かもしれない流れ。
最初の半年は月二回のペースでの発表を行ってきたが、その後はかなり間隔が開いてしまったこともあった。それでもなんとか「書き上げた」と自分がおもうところまで書けたのは、あせらないように助言頂くといった配慮を頂いたMAOさん、WATAさんの御蔭によるところ大きく、感謝したい。ありがとうございます。
今改めて読み返し、細かい点で記述が合っていない点もあり、そればかりか誤記・誤字まであり、WEBに書くという形態ならではのこととしても酷かったと反省したところである。
『猫間川をさがせ』はこの川について、記録と記憶と両面できちんと残したい、という欲求を形にしたものである。そして最初に書いた記憶があるが、書いていることによって情報が集まってこないか、という狙いもあった。
実のところ「光竜寺川」という章を書いた時点で完とする、ということも考えたのだが、取材していくなかで思わぬことで情報が集まることが何度かあった。そんな中で、特に教えて頂いたこと自体を書き残しておきたい、とおもうひとがいらっしゃり、本筋ではないという気持ちで(拾遺)と題につけて、更に四章を書いた。
完結するといいながら、実のところ文中でも仮定や想像で終わっている点が多々あり、そんなことについてまた新たな情報が積み重なってきたら、臆面もなく続編を書き始めるかもしれない。私にとって猫間川はまだまだ続いているテーマなのである。
今までお読み頂いた方々、アドバイス頂いた方々、新たな情報を教えて下さった方々に感謝し、これからも読んでいただける文章になるように、最後に仕上げをしたい。できれば大阪に行ったことが無い方にも読んで頂ける文章でありたいと願っている。
参考文献についても現在まとめており、近日中にここに公開して、本当の完了とする予定である。
最後に、『光竜寺川』の章で書いた、埴池からの流れ。猫間川かもしれない流れ。
本日:2
今週:10
累計:3191(5/9 15:00より)
on 05/10 at 21:39:PM
MAO様ありがとうございます。
フォーラムにも状況を書くようにします。最近mixiの方に専ら書いておりました。参考資料がまとまるまで、もう1週間はかかるかと思います。日常の些事に左右されてしまいますので。。。
あおい
on 09/13 at 21:36:PM
どうも、度々出没しておりますあおいです。「猫間川をさがせ」も最後のあとがきに至ったわけですが、これからも何か発見や変更がありましたらどんどん修正していって頂ければと思います。それにしても植池からの流れというのは何か河川跡というよりは水路と言った感じですね。それでは最後に私なりの見解を述べさせて頂きたいと思います。
つい先日中央図書館で古地図なんかを看破致しまして、先述の明治何年かの朝日新聞付録の大阪府下洪水~も拝見しましたが、やはり猫間川は高松の地・あるいはその辺りにあったボテショの池から流れ出ており、大和川付け替え工事以前は桃ヶ池から流れ出ていたのではないかという結論に至りました。
堺市の狭間川は古地図を見る限りでは、現在の大和川の流路をとっているようですし、住之江区内に手水川という狭間川の後身とも呼ばれる川が流れていたようです(現在は埋め立てられている)。
もう一方の光竜寺川はというと、細井川・駒川の両河川と接続していたようで、細井川は長池のすぐ近くに達してはいますが、土地の高低差からすると、長池から細井川に流れ出ていたようですね。古地図によると依網池から駒川が流れ出ていました。光竜寺川と細井川に関しては大阪府立狭山池博物館展示の図を参照して下さい(ネット上からでも閲覧可能)。
浅香川の存在も気にはなりますが、あれも大和川付け替え工事以前は細井川に連絡していたのではないかと思われます。
あおい
on 09/13 at 21:50:PM
二重投稿になって申し訳ありませんが、今のところ私が気になっているのは猫間川と和気清麻呂水路との関連性についてです。古地図によりますと、現在の天王寺にある庚申堂(正確には庚申堂の西側にあった庚申池)→寺田町→源ヶ橋と、小さな流れが確認できますよね。猫間川源流探検記でも取り上げて下さっていました。あれは和気清麻呂が開削した水路の跡であるとの論があり、つまり現在の桑津・杭全付近で平野川から上記のルートをたどり海に川の流れを変えたのではないかという説があるのです。
現在の河底池・そしてつい数十年前に埋め立てられた鼬川がその跡ではないかといわれていますが、正直なところ真偽は不明です。
on 09/23 at 02:14:AM
あおい様いつもコメントをありがとうございます。
猫間川上流部については、あおい様の情報量が圧倒的で、私は立ち尽くす感があります。私なりに調べるつもりでいますが、先の方のコメントの内容は説得力を感じています。
一方で和気清麻呂が指揮して開鑿工事を行ったという水路ですが、これは実在したとしてもせいぜい庚申池までではないかという印象を持っています。
あおい
on 10/09 at 19:00:PM
やはりそうでしょうね。和気清麻呂水路は鼬川・川底池・そして庚申池から源ヶ橋までの水路が古地図で確認できるだけですから。「庚申池から川底池」・「川底池から鼬川」の二つの流れが確認できたら和気清麻呂水路完成!なんですが、そんな資料はありません。つい最近の発見はといえば、鼬川の支流が川底池のすぐそば(上町台地の断崖下。天王寺動物園敷地内)まできているということを発見しただけです。
あともうひとつの発見は、鼬川の支流である長橋川の存在を確認することができたというものです。
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この「猫間川をさがせ」は、マチともの語りのコンセプトを体現した作品で、毎回読み応えのある内容に読者からの反響や情報提供まであって、ブログならではの展開になったと思います。
資料の整理が片付いたら今後の電子本化など、フォーラムの方で相談させてください。
野知潤一@マチともの語り