事件は港からやって来た……横浜・神戸 二都物語
2005
14
Sep
Posted by 佐田 薫子 on 00:00 / Category : 横浜・神戸二都物語
●ピクニックの惨劇
 慌てて手綱を引いたので、がくんと前のめりになり、ボンネットが覆い被さって来たのは憶えている。一瞬の後、目の前をヒュンと甲高い音を立て何か白いモノが横切ったのと、それが熱く感じられたのが同時だった。
 ボンネットがぱらりと落ちて視界が開けると、チャーリーが馬上で大きくのけぞり、獣じみたうなり声を上げていた。激しく左右に首を振る馬の前には、サムライが一人腰を屈めて立っている。その向こうには、黄と朱の房で飾られた黒光りする大きな箱が、大勢のサムライたちに囲まれ、前後を十人ほどの足踏みを続けている人足に担がれて微かに揺れていた。馬の鼻先のほんの数ヤード先にあるその箱が、並木から溢れている陽光に煌き、とても綺麗に見えた。
 腰を屈めた姿勢のサムライの手元で光っているのが、サーベル状の長い刀だと気が付いた時、後ろから「マギー、戻れ、早く戻れ」と叫ぶ、ウィルの声が聞こえて来た。暴れる馬の上で顔を歪めているチャーリーの真っ白なリネンの上着が、息を呑む間もなく真紅に染まるのを見て、マーガレットには、彼が日本人に切られたということが、やっとわかったのだ。


東京横濱名所一覧図会 生麦風景 三代広重 横浜市立中央図書館所蔵

 一八六二年九月十四日(文久二年八月二十一日)、公武合体を進めるべく幕府との談判を終え、江戸から戻る島津久光候の行列が生麦村に差し掛かった時、反対の神奈川方面から馬を走らせて来たイギリス人と遭遇したのは、午後の二時頃。ウィリアム・マーシャル(三十五才)、ウッドソープ・チャールズ・クラーク(二十八才)、チャールズ・レノックス・リチャードソン(二十八才)、マーガレット・ボロデイル(二十八才)の四人は、居留地の横浜村から出かけて来たところだった。

 マーガレットは「急いで、もっと急いで」と鞭を振るった。
 ウィルたちとは、神奈川の船着き場近くにあるアメリカ領事館の前で別れた。無我夢中で惨劇の場を逃れた後は、自分が皆に知らせなければいけないという気持ちでいっぱいだった。
 彼女は、乗っている馬の扱いづらさに苛立ちながら、左手に広がる湾の対岸に見える居留地を一心に目指していた。朝と同じ様に舟を使えば良かったかと考えが頭を過ぎったが、皆が皮肉交じりに「タウン」と呼ぶそこまでは、このまま海岸伝いに進み、前方に見える丘の切り通しを越えて一本道だと聞いていたし、日本人と一緒にいる方が恐ろしくて、馬を駆った。

 乗馬は得意であった。
 イギリスに居た時も、夫の商売先の香港でも、遠乗りに出かける事が多く、自分用の鞍は作らせてあった。勿論、横浜にもそれは持って来てはいたのだが、ずんぐりとした日本馬には合わずに、仕方なく男性用の鞍で間に合わせていた。沼地に出来た馬場での乗馬の時の様に、ラウダー家のメアリーから借用さもらうつもりだったのだが、結婚式をあげたばかりの彼女の手を煩わせるのも悪くて、言い出しそびれてしまったのだ。

 結婚式は昨日、盛大に開かれたばかりだ。
 イギリス領事館で華やかに行われた式に、ヴァイス領事も満足した様子で、何杯もワインを空けていた。ジャーディン・マセソン協会からはハムやチーズなどが届けられ、もうすぐ完成予定のクラブハウスのコックが腕を奮ったシェパーズ・パイにプディングス、フルーツケーキやスコーンなど、一同まるで本国に居る様だと楽しみ、賑やかに新郎新婦の門出を祝ったのだ。
 今日のピクニックは、その時に話が決まったものだった。マーガレットが居留地からまだ出たことがないとふと口にすると、上海から横浜を訪れているチャーリーが案内すると言い出し、義兄のウィルが、一緒に行くという話がまとまった。マーシャル家には馬が二頭しかなく困っていたところに、ハード商会に雇われているチャックが、アスピナル家から借りればいいとうまく話をつなぎ、四人で出かけることになったのだ。
 ついこの間起きたばかりの、イギリス公使館への切り込み事件を忘れていたわけではない。クラブニュースで噂になっていたので、日本人が「トウカイドウ」と呼ぶ海沿いのザ・アベニューをサムライの行列が通るということも知っていた。ウィルが領事に聞くと、行列通過は明日か明後日だろうと言われ、ちょうど見られるかもしれないと、チャックなどは大喜びだった。
 居合わせたアーネスト・サトウが、先週横浜に着いたばかりだというのに、そんなチャックをたしなめる言葉を強く口にしたので、すっかりその場がしらけてしまったことを、馬を急がせているマーガレットは思い出さなかった。

●一路、居留地へ
 どうしてこんなことになったのだろうか。居留地で会う日本人は皆、愛想が良くて私たちを大事にする。もっとも、彼らが自分たちに丁重に接するのは当然のことだ。それなのに、到着し姉夫婦の家に落ち着き最初に言われたことが、ここでは彼らと話す時には「please」を付けるということだったから、正直びっくりしたし、とても気分が悪かった。

 騎乗のまま近づいた彼らに対して、警護の侍たちは身振りで制止したが通じず、右往左往するうちに行列をかき乱すこととなり、これに怒った供侍が斬りかかり、リチャードソンが死亡、マーシャルとクラークが負傷した。深手ではあったものの、マーシャルたちはアメリカ領事館のある神奈川の本覚寺に逃げ込み助けを求めた。そして、帽子と前髪の一部を斬られたボロデイル夫人は居留地に逃げ帰ったのだった。

 神奈川で別れてきたウィルもチャックも、二人とも上半身血まみれだった。領事館に向かう階段を器用に登っていく馬の上で、チャックは体をうつ伏せ今にも落ちそうだった。チャーリーがどうなったかは、わからない。
 夫に勧められて、横浜に来たのはちょっとした転地療養のつもりだった。マーガレットには、香港の暑さや蚊に、それから街中を包む香料のきつい香りにも我慢がならなかった。イギリスに帰っても良かったのだが、ここにいる姉のクレメンチナに会いたくて、こんな極東の僻地まで来たのだ。

 切通しの上に着くとそこから居留地を見下ろしながら、彼女は二ヶ月前、香港から横浜に着いた時のことを思い出した。
 降り立つと危なっかしくぎしぎしと足元で音がした桟橋も、もうすっかり出来上がっているのがわかった。あの時、桟橋に姉の姿を見付けた時には、運ばれる小舟で思わず立ち上がってしまうくらい、嬉しかった。夢中になって手を振るマーガレットに向かい、ほとんど裸同然の姿で小舟を漕いでいる日本人が、何か叫んだ様だったが、気にもならなかった。
 桟橋から左手には商人たちが集まっている日本人町があり、その手前陸側に広がる沼地の中に、何棟もの大屋根が連なって見えている。
 姉が少し眉をひそめながら「ヨシワラ」と言い、ウィル兄をはじめとして紳士方が、商人たちとよく出かけては、夜遅くになって上機嫌で帰宅する場所だ。それでも、姉があまりうるさくいわないのは、相手が日本人の女だからだということは、マーガレットにもわかっていた。香港でも夫がメイドに手を出したことも有ったが、代わりは何人でもいるから、別に何でもないと思っていた。

 桟橋の近くではためいている国旗が、思いの外よく見えることにほっとしながら、彼女は馬にもう一鞭当てて一気に野毛の坂を駆け下りた。
 神奈川の船着き場からついて来ていたアスピナル家の別当の馬を取り上げて乗り換えた後は、相変わらず鞍の乗り心地は良くなかったが、日本馬に比べればそれでもはるかに乗り易く、やはりアラブ馬でないと駄目だと感じていた。
 吉田橋の関所を過ぎ、海岸縁を周りながら湾の向かい側に目をやると、何かが並木道越しにちらちらと見え隠れしているのに気が付いた。さきほどの行列がゆっくりと動いているのだ。
 マーガレットはそれに目を据えながら、馬の脇腹を両腿できつく押さえて、早足を促した。海からの風が激しく頬を打つのを感じ、足元から巻き上がる砂埃で目ものどもざらつき、手綱を握る手も痛くなっていた。スカートの裾が捲れあがって、ブルマーが派手に覗いているのがわかっていたが、構わず手綱を絞って馬首を右に向かせると、なお一層急がせた。

●サムライガ オソッテキタ
 本町通りを走る抜ける途中で、誰かに呼ばれた気がしたが、挨拶を返す余裕はなかった。
 居留地には女性が少なかった。
 マーガレットは子供連れではあったが、外国人女性が十人に満たないここでは、大いに人気が有った。義兄が商売の相手にしている日本人商人たちが、物珍しい細工物を持って来ることも多く、言葉は通じないながらも顔見知りになっていた。
 女性の装身具だという「コウガイ」や「クシ」には、信じられないほど細かな細工が施されていて、びっくりした。鳥が餌をついばむ様子を巧みに彫り込んだものや、日本人が好む満開のサクラの枝を模した「カンザシ」など、それらをいつも頭に飾っているという女性たちの姿は、マーガレットには想像もつかなかった。そういう彼女に答えて、商人たちは「ヨシワラ」に行けば見られると笑っていた。
 でも、今は、誰の顔も見たくなかった。
 彼らが頭に乗せている「チョンマゲ」という髪の毛の房や、身にまとうぶかぶかとした衣装が、たとえようもなく薄気味悪く感じて、一刻も早く通り抜けたかった。

 イギリスの国旗を高々と上げているマセソン商会の建物が見えて来た。隣ではウォルッシュ・ホール商会がアメリカ国旗を負けじと掲げている。桟橋では、賑やかに積み卸しが行われていて、声高く荷物の数量を数えている買弁(コンプラドール)の声が聞こえて来た。二ヶ月の間、毎日の様に見ているいつもと同じ光景だ。

  ………私が話さなければ、私しか話す者がいないから………

 マーガレットは、興奮を憶えながら、ボンネットを飛ばされて乱れた髪を直そうと、頭に手をやった。そして、大きくウエィブさせていた前髪が、ばっさりと切り取られていることに初めて気が付き、ぞっとした。

 マーシャルたちの少し前に、アメリカ領事館書記のヴァン・リードが同じ行列に出会っていた。彼は、先触れの姿を見ると馬を降り脇に寄った。帽子を脱いで片膝を付き、そのまま一キロ以上も続く行列が過ぎるのを見送ったのだ。ヴァン・リードが無事であったことは言うまでもない。



 馬から降りると、別当に手綱を預け、彼女はしっかりとした足取りで進むと、ゆっくりと領事館のドアを押して中に入った。恐れとは違う今まで感じていなかった、憎しみに近い感情が沸き上がって来るのに任せて、マーガレットは口を開いた。

  サムライガ オソッテキタ
  ワタシ イガイハ ミンナ コロサレタ

 人たちが、口々に何か言いながら周りを取り囲むのを感じながら、パーティーの女主人さながら満足気な顔付きのまま、マーガレットは気を失ったのだった。

 この生麦事件の後、イギリス側は幕府と薩摩藩に対して関係者の処罰と賠償を要求するが、薩摩藩はこれを断固拒否し、翌年、薩英戦争が始まることとなる。(了)

【参照文献等】
・『幕末に殺された男-生麦事件のリチャードソン-』 宮澤眞一著 新潮選書
・日本ホテル館物語 長谷川堯著 プレジデント社
・図説 横浜外国人居留地 横浜開港資料館編著 有隣堂
・「生麦事件参考館」 淺海武夫館長 横浜市鶴見区生麦一丁目十一

 



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