2005
17
Sep |
■俊輔のぼやき
吾は末輩なれば書き残すは後難もあり、世に定まりし史実に異論を申さば、たわけ者とて物笑いになるも心外。よって吾の見さだめし神戸の変事の委細は、口伝に限るべし、と。
これは、四代前の彌輔爺様が変事を語ったときに息子(三代前)に命じた言葉だそうです。
爺様が見聞した神戸事件の詳細を、なぜ書き物にしないで口伝に限るなどと言い残したのか不思議に思いましたが、物語りの内容を聞くと……関係者の名誉や故郷の体面、何よりも武士の誇りとやらもからむようで、たとえ伝承の途中で私観が混じり意図的に脚色されても、それは吾ら一族の無学ゆえにかくなりぬとの、申し開きで済ませられると考えたのでしょう。
しょせん『史』と『事』は遠きにあるようで、神戸事件は世にある書を読み込むほど、伝聞を聞き探るほど、哀れにもわびしくもある始末だったようです。
事件発生後百数十年ともなれば、書き物にしても爺様はお叱りにならないでしょう。
さて……彌輔は長崎の小商人の倅に生まれた。
曲折はあったが長崎は南蛮貿易に門戸を開いて三百年を超え、オランダ、エゲレス、メリケン、清などの異国人との交易や交流を不思議ともしない風土となっていた。
雑貨屋の倅の彌輔は、父の商売を手伝いながら出入りする異国人と交わることを楽しみ、何ほどの苦労もなく自然と異国言葉をものにし、ついでに読み書きも見よう見まねでおぼえた。
世は幕末の混乱期、少年の夢は長崎を飛び出して上方向けて走り出し、長州で足を留めた。
深い意味はないが薩摩は態度がでかいので、なんとなく長州にしただけだ。
軽薄なもんじゃが、坂本龍馬も勝海舟もこの時代の神戸におった悪ガキじゃがな、と、爺様の声が聞こえるようだ。
長崎のこぎたない若者を拾ったのが伊藤俊輔だが、世間への体面から部下の山田三蔵の下役……最下級の臨時雇いのような小者として引き取らせた。役目はエゲレス語の通辞(通訳)だ。
伊藤俊輔、後の博文。
明治維新と名付けた新政府誕生の前後数年、俊輔は外交係の役目を足場に、あたかも風を背にしたように一気にのし上がる。その器量は、外国人にひるまない若さと先読みの知恵、そして部下に通辞役山田三蔵とその下男の吾があったからだと、彌輔爺様は胸を張る。
しかしまだ臍の緒を引く嬰児(ややこ)のような日本誕生間際に、俊輔が窮地に立ち生涯記憶を封印したい問題の決着があった。
それが神戸事件なのだが、事件の発生と経過に異説はない。
この年一八六八年(慶応四年)、新政府はできたが海外への宣言がまだだから、内乱は未決着で勝馬はどちらだと諸外国は見物の気配。この際に難癖をつけて条約を押しつけ権益を広げるやり方は、清国を喰い散らかした成功例がある。
俊輔は唇を噛んだ。似たような刃傷事件が各開港地で起きて、後始末に辛い決着を迫られてきたのだ。またしても……と。
横浜村に近い生麦で六年前に発生し、翌年の薩摩英国戦争では英国艦隊の砲撃で鹿児島の町が焼きはらわれた生麦騒動。
またわずか一年前の堺では、フランス兵を斬殺二人負傷七人の代償として、土佐藩士二十名が切腹を命じられた堺事件。
すでに各藩には重々ご注意ありたしと通達ずみなのに、いったい諸侯は何を学び何をお考えだと、外務係の俊輔はぼやいた。
親徳川の尼崎藩の動きを抑えるために出動を命じられた備前岡山藩の隊列を、武門御法度の供割(ともわり・行列の横断)をメリケンとフランス兵が犯した。
これを制止したが言葉が通じない。恐怖に駆られたメリケン兵がピストルを向けたので銃撃戦になり、槍で軽傷を負わせた。
事件現場は開港と居留地づくりを急ぐ神戸村三宮神社前の西国街道である。
事件発生翌日、神戸沖に停泊中の列強艦隊から陸戦隊が上陸、神戸はたちまち占領された。
その後の経過は、予想通りの筋書きとなる。
双方に死者はないのだが弱い新政府は足元を見すかされ、軍事力を背景にかさにかかって難題を持ち込まれた。特に困った和解条件が、関係外国公館人立会で責任者の処刑、である。
俊輔は五代才介や伊達宗城らとともに交渉した。
双方に死者はない。生麦事件でも例があるように日本の武門には御法度があり通達ずみだ。そちらの水兵にも落ち度がある。
NO! われわれはいつでも神戸の町を鹿児島同様の廃墟にする用意があるのだ。今後の見せしめのためにも犯人の処刑だ。
徒労のにじむ交渉の席で、俊輔の横にいたのが通辞役の山田三蔵。あまりうまくない山田のエゲレス語通訳を、後ろで補佐していたのが彌輔爺様だった。
■無情にして、無常
明治政府が発足して初めての外交事件の交渉は完敗した。
すべての要求を呑むことになった。が、誰を犯人にするかで新政府と備前藩とが紛糾した。
やがてしわ寄せは藩主から家老へ、さらにその下へ、事件に関係した藩士へ押しつけられた。
出陣部隊の砲隊長で槍をふるった滝善三郎が不運だった。
武士道の「死ぬことと見つけたり」が語られ、この一義は主君の馬前に散るのと同じだと口説かれた。
ここから以下の決着が、彌輔爺様が口伝に限るとしたのも頷ける内容なのだ。
滝本人も申し立てる。無礼を犯したのは相手であり、しかも軽傷だから、当方の死罪は納得できない、と。
その通りだ、だからひとまず罪に服したと見せる。その間に交渉して助命に持ち込む。ここは理を通そうとすれば明治大帝も危うく、備前藩取りつぶしもありうる。切腹の間際の席に赦免の知らせを持ち込めば、相手もそれ以上の意地は張るまい。お国のためお家のため、また滝家の誇りのためで、これ以上のご忠義と君愛に報いる機会があろうか、と。
外交役筆頭は東久世通禧だが公家(後の伯爵家)の力量では頭をかかえるばかり。しぼり出した俊輔の知恵に新政府高官の三条、岩倉、島津も花押は印さなくとも首を縦にふったはずだ。
二月九日、兵庫の永福寺に切腹の席が設けられ、列強の武官七名、日本新政府の外交担当俊輔たち七名が立ち会う。
控えの間に入った時から、滝は赦免の特使到着を待ち、たびたびまだかと尋ねる。いまだ到着せずと、係の者は答える。
爺様も万一の通辞に備えて末席にひかえていた。何度にもおよぶ「まだか」のやりとりを聞き、吾は気付いたぞ! と、爺様は声を低めて語る。
まるで仮名手本忠臣蔵ではないか、「由良之介はまだ参らぬか」と無念の思いを伝えたい塩谷判官がくり返し尋ねる。「いまだ到着致しませぬ」と答えは同じ。
……そうか、筋書きがある出来芝居なのだ。
末席で爺様は政治の無情と無常に身震いしたという。
彌輔爺様はその前の年の秋、巷で評判の芝居を見物したばかりだった。皮肉というか偶然というか、この時代の三宮神社の境内には芝居小屋があり、それが爺様の記憶を呼び覚ましたようだ。
なだめすかされて切腹の席についたのが午後十一時近いというから、最後まで滝ははめられたことに気付いていないのだ。
しかしさすがに哀れになったのか、義憤を感じたのか、備前藩士の一人が、白装束で切腹の席に座る滝に耳打ちした。
多分、使者は来ないし赦免はない、だからお家のため侍らしい最期を、と、引導を渡すつもりだったのだろう。だがその瞬間、滝は逃げ出す気配をしたようだ。途端に、介錯人が首を落とした。
滝の遺体には切腹の跡はなかったそうだ。しかしこの当時、腹を切る痛さを避けて扇で切腹のしぐさをして介錯される『扇子腹』という作法もあったので、傷跡のないのも当然という説もある。
備前藩では忠君愛国の烈士として、遺族は厚く遇された。立派な慰霊碑が建立され、郷土史には左脇腹から右一文字に、さらに上に引き上げる作法で腹十文字にかき切った、と記されている。
俊輔が事件を耳にしたとき「西国街道をなぜ進んだ? 備前藩は愚か者」と断じたのには理由がある。
開国以来、再々の供割りや行列と外国人の刃傷沙汰に備え、幕府は居留地を迂回する街道を開き各藩に通達していた。
須磨から上方方面へは、西国街道を大蔵谷あたりから摩耶山麓を目指し、六甲山麓を経て西宮ヘ出るわき道を開いていたのだ。
なぜその街道を利用しなかったのだ、と。
実はその街道は『徳川道』と名付けられていたから、勤王側の備前藩は……と、これは爺様の説だ。
さらに滝の首を落とした介錯人らしい侍が、前夜遅くまで俊輔と三宮神社境内の居酒屋の隅で、長時間、杯を交わし話し込んでいた、と。もちろんこれも爺様の口伝である。
そして爺様は締めの言葉も語っている。
「よいかな、吾は根からの侍でないことを喜んだものよ。名もなき者は『史』を見て喜び怒り悲しみ、『実』を見誤るのも無理なきこと。それで良いのじゃ。史も実もはかないものよ」と。
●当シリーズ登場の皆様への敬称は略させていただきます。
●参考資料(シリーズ中に重複参考のものは、初出時に掲載)
兵庫史の謎(春木一夫)

● 開港百年記念として三宮神社境内に立てられた神戸事件記念碑。

● 北側から見た三宮神社、背景のビルは旧居留地に建つ神戸大丸のビル。
吾は末輩なれば書き残すは後難もあり、世に定まりし史実に異論を申さば、たわけ者とて物笑いになるも心外。よって吾の見さだめし神戸の変事の委細は、口伝に限るべし、と。
これは、四代前の彌輔爺様が変事を語ったときに息子(三代前)に命じた言葉だそうです。
爺様が見聞した神戸事件の詳細を、なぜ書き物にしないで口伝に限るなどと言い残したのか不思議に思いましたが、物語りの内容を聞くと……関係者の名誉や故郷の体面、何よりも武士の誇りとやらもからむようで、たとえ伝承の途中で私観が混じり意図的に脚色されても、それは吾ら一族の無学ゆえにかくなりぬとの、申し開きで済ませられると考えたのでしょう。
しょせん『史』と『事』は遠きにあるようで、神戸事件は世にある書を読み込むほど、伝聞を聞き探るほど、哀れにもわびしくもある始末だったようです。
事件発生後百数十年ともなれば、書き物にしても爺様はお叱りにならないでしょう。
さて……彌輔は長崎の小商人の倅に生まれた。
曲折はあったが長崎は南蛮貿易に門戸を開いて三百年を超え、オランダ、エゲレス、メリケン、清などの異国人との交易や交流を不思議ともしない風土となっていた。
雑貨屋の倅の彌輔は、父の商売を手伝いながら出入りする異国人と交わることを楽しみ、何ほどの苦労もなく自然と異国言葉をものにし、ついでに読み書きも見よう見まねでおぼえた。
世は幕末の混乱期、少年の夢は長崎を飛び出して上方向けて走り出し、長州で足を留めた。
深い意味はないが薩摩は態度がでかいので、なんとなく長州にしただけだ。
軽薄なもんじゃが、坂本龍馬も勝海舟もこの時代の神戸におった悪ガキじゃがな、と、爺様の声が聞こえるようだ。
長崎のこぎたない若者を拾ったのが伊藤俊輔だが、世間への体面から部下の山田三蔵の下役……最下級の臨時雇いのような小者として引き取らせた。役目はエゲレス語の通辞(通訳)だ。
伊藤俊輔、後の博文。
明治維新と名付けた新政府誕生の前後数年、俊輔は外交係の役目を足場に、あたかも風を背にしたように一気にのし上がる。その器量は、外国人にひるまない若さと先読みの知恵、そして部下に通辞役山田三蔵とその下男の吾があったからだと、彌輔爺様は胸を張る。
しかしまだ臍の緒を引く嬰児(ややこ)のような日本誕生間際に、俊輔が窮地に立ち生涯記憶を封印したい問題の決着があった。
それが神戸事件なのだが、事件の発生と経過に異説はない。
この年一八六八年(慶応四年)、新政府はできたが海外への宣言がまだだから、内乱は未決着で勝馬はどちらだと諸外国は見物の気配。この際に難癖をつけて条約を押しつけ権益を広げるやり方は、清国を喰い散らかした成功例がある。
俊輔は唇を噛んだ。似たような刃傷事件が各開港地で起きて、後始末に辛い決着を迫られてきたのだ。またしても……と。
横浜村に近い生麦で六年前に発生し、翌年の薩摩英国戦争では英国艦隊の砲撃で鹿児島の町が焼きはらわれた生麦騒動。
またわずか一年前の堺では、フランス兵を斬殺二人負傷七人の代償として、土佐藩士二十名が切腹を命じられた堺事件。
すでに各藩には重々ご注意ありたしと通達ずみなのに、いったい諸侯は何を学び何をお考えだと、外務係の俊輔はぼやいた。
親徳川の尼崎藩の動きを抑えるために出動を命じられた備前岡山藩の隊列を、武門御法度の供割(ともわり・行列の横断)をメリケンとフランス兵が犯した。
これを制止したが言葉が通じない。恐怖に駆られたメリケン兵がピストルを向けたので銃撃戦になり、槍で軽傷を負わせた。
事件現場は開港と居留地づくりを急ぐ神戸村三宮神社前の西国街道である。
事件発生翌日、神戸沖に停泊中の列強艦隊から陸戦隊が上陸、神戸はたちまち占領された。
その後の経過は、予想通りの筋書きとなる。
双方に死者はないのだが弱い新政府は足元を見すかされ、軍事力を背景にかさにかかって難題を持ち込まれた。特に困った和解条件が、関係外国公館人立会で責任者の処刑、である。
俊輔は五代才介や伊達宗城らとともに交渉した。
双方に死者はない。生麦事件でも例があるように日本の武門には御法度があり通達ずみだ。そちらの水兵にも落ち度がある。
NO! われわれはいつでも神戸の町を鹿児島同様の廃墟にする用意があるのだ。今後の見せしめのためにも犯人の処刑だ。
徒労のにじむ交渉の席で、俊輔の横にいたのが通辞役の山田三蔵。あまりうまくない山田のエゲレス語通訳を、後ろで補佐していたのが彌輔爺様だった。
■無情にして、無常
明治政府が発足して初めての外交事件の交渉は完敗した。
すべての要求を呑むことになった。が、誰を犯人にするかで新政府と備前藩とが紛糾した。
やがてしわ寄せは藩主から家老へ、さらにその下へ、事件に関係した藩士へ押しつけられた。
出陣部隊の砲隊長で槍をふるった滝善三郎が不運だった。
武士道の「死ぬことと見つけたり」が語られ、この一義は主君の馬前に散るのと同じだと口説かれた。
ここから以下の決着が、彌輔爺様が口伝に限るとしたのも頷ける内容なのだ。
滝本人も申し立てる。無礼を犯したのは相手であり、しかも軽傷だから、当方の死罪は納得できない、と。
その通りだ、だからひとまず罪に服したと見せる。その間に交渉して助命に持ち込む。ここは理を通そうとすれば明治大帝も危うく、備前藩取りつぶしもありうる。切腹の間際の席に赦免の知らせを持ち込めば、相手もそれ以上の意地は張るまい。お国のためお家のため、また滝家の誇りのためで、これ以上のご忠義と君愛に報いる機会があろうか、と。
外交役筆頭は東久世通禧だが公家(後の伯爵家)の力量では頭をかかえるばかり。しぼり出した俊輔の知恵に新政府高官の三条、岩倉、島津も花押は印さなくとも首を縦にふったはずだ。
二月九日、兵庫の永福寺に切腹の席が設けられ、列強の武官七名、日本新政府の外交担当俊輔たち七名が立ち会う。
控えの間に入った時から、滝は赦免の特使到着を待ち、たびたびまだかと尋ねる。いまだ到着せずと、係の者は答える。
爺様も万一の通辞に備えて末席にひかえていた。何度にもおよぶ「まだか」のやりとりを聞き、吾は気付いたぞ! と、爺様は声を低めて語る。
まるで仮名手本忠臣蔵ではないか、「由良之介はまだ参らぬか」と無念の思いを伝えたい塩谷判官がくり返し尋ねる。「いまだ到着致しませぬ」と答えは同じ。
……そうか、筋書きがある出来芝居なのだ。
末席で爺様は政治の無情と無常に身震いしたという。
彌輔爺様はその前の年の秋、巷で評判の芝居を見物したばかりだった。皮肉というか偶然というか、この時代の三宮神社の境内には芝居小屋があり、それが爺様の記憶を呼び覚ましたようだ。
なだめすかされて切腹の席についたのが午後十一時近いというから、最後まで滝ははめられたことに気付いていないのだ。
しかしさすがに哀れになったのか、義憤を感じたのか、備前藩士の一人が、白装束で切腹の席に座る滝に耳打ちした。
多分、使者は来ないし赦免はない、だからお家のため侍らしい最期を、と、引導を渡すつもりだったのだろう。だがその瞬間、滝は逃げ出す気配をしたようだ。途端に、介錯人が首を落とした。
滝の遺体には切腹の跡はなかったそうだ。しかしこの当時、腹を切る痛さを避けて扇で切腹のしぐさをして介錯される『扇子腹』という作法もあったので、傷跡のないのも当然という説もある。
備前藩では忠君愛国の烈士として、遺族は厚く遇された。立派な慰霊碑が建立され、郷土史には左脇腹から右一文字に、さらに上に引き上げる作法で腹十文字にかき切った、と記されている。
俊輔が事件を耳にしたとき「西国街道をなぜ進んだ? 備前藩は愚か者」と断じたのには理由がある。
開国以来、再々の供割りや行列と外国人の刃傷沙汰に備え、幕府は居留地を迂回する街道を開き各藩に通達していた。
須磨から上方方面へは、西国街道を大蔵谷あたりから摩耶山麓を目指し、六甲山麓を経て西宮ヘ出るわき道を開いていたのだ。
なぜその街道を利用しなかったのだ、と。
実はその街道は『徳川道』と名付けられていたから、勤王側の備前藩は……と、これは爺様の説だ。
さらに滝の首を落とした介錯人らしい侍が、前夜遅くまで俊輔と三宮神社境内の居酒屋の隅で、長時間、杯を交わし話し込んでいた、と。もちろんこれも爺様の口伝である。
そして爺様は締めの言葉も語っている。
「よいかな、吾は根からの侍でないことを喜んだものよ。名もなき者は『史』を見て喜び怒り悲しみ、『実』を見誤るのも無理なきこと。それで良いのじゃ。史も実もはかないものよ」と。
第一話 了
●当シリーズ登場の皆様への敬称は略させていただきます。
●参考資料(シリーズ中に重複参考のものは、初出時に掲載)
兵庫史の謎(春木一夫)

● 開港百年記念として三宮神社境内に立てられた神戸事件記念碑。

● 北側から見た三宮神社、背景のビルは旧居留地に建つ神戸大丸のビル。
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