事件は港からやって来た……横浜・神戸 二都物語
2005
01
Oct
Posted by 田中良平 on 17:58 / Category : 横浜・神戸二都物語
■ザ・ホテル
 うたかたの思いを深くしております。と、彼は口を開いた。
 古稀も近いと見える彼の口から『うたかた』という言葉が出ると、水の泡のようにはかない古語の意味が、今も生きた言葉として桃華の胸に迫る。
「あ、ごめんなさい。うたかたなんて言葉、いまありませんね。昔、『うたかたの恋』という、たしかダニエル・ダリューとシャルル・ボワイエの美男美女コンビによるフランス映画の名作がありましてね。その後、四回もリメークされたとかで驚きましたが」
 懐かしい思いをこめて、小ぶりのチューリップグラスのコニャックに口をつけた。つられて桃華もチェリーブランデーに指先を伸ばす。彼が相談役をつとめるプチホテルのバー。窓から見える摩耶山に陽はかくれて、その上の雲に茜色が広がりだしていた。
「さて……バー木犀の梨華マダムがあなたの叔母様とは驚きました。ホテルマンはお客様のプライベートな情報をもらしてはならないと、オリエンタルホテル入社以来、厳しく教えられてきた心得ですが、ご本人の依頼ですしこの頃はホテルも変わってしまいましたからね。仕事上のモラルも時代で変化するのですね」
 わが国最古の洋風ホテル発祥が神戸のオリエンタルホテルであり、激動の時代に翻弄されながら受け継がれた名門も、今日では外資の支配下に入っていることも衆知の事だった。
 シティー、ビジネス、リゾートなどの分別がなくホテル数も少なかったころは、サービスや料理、環境や歴史がステイタスを創り上げて、地元の誰もが認めるホテル……ザ・ホテルが各都市にはあった。札幌のグランド、東京の帝国、横浜のニューグランド、大阪の新大阪(現ロイヤル)、京都の都、奈良の奈良ホテルなどと並んで、神戸ではオリエンタルホテルが開業以来、神戸市民の愛着を集め誇りともされてきた。
 オリエンタルの何が魅力となっていたのか、また逆に、ある時期を境に長年の『うるさ型』の顧客が離れていった原因は何なのか……このあたりに人間くさいドラマを感じた物書きの桃華が取材を始めて、ゆきついた人物が、ホテルに長年勤務した彼だった。
 初対面以来、お行儀正しい答えしか聞けなかったが、訪問数回目の話題の中に、『神戸では名の通ったバー木犀のマダム梨華』の名が飛び出し、それ私の叔母ですと桃華が声を上げた時から、彼の話題も話し方も一挙に身近なものになった。
 また、いまはハワイで晩年を楽しむ叔母から彼宛ての、懐かしさを込めた手紙を持参すると、一層、彼の口が滑らかになった。
 「ドアマンから掃除のおばさん、重役にいたるまで徹底したモットーが、『お客様には笑顔でおいでいただき、十分にお喜びいただいてお送りする』でした。これは明治十五年に創業した外国人グループから、地元神戸財界有志の経営に引き継がれた大正十五年の開業時に決められたホテルサービスの原点ですし、私が退職した一九八八年(昭和六十三年)まで厳しく守られてきました。
 地元神戸の皆様方、特にオピニオンリーダーとも言える御影や住吉の、ある意味では神戸の『うるさ型のご夫人』にザ・ホテルとしてお認めいただいてきた接客の基本のモットーでした」
 彼が退職した八八年という年のある事実に、桃華は気づいた。
 それはオリエンタルが新神戸駅前に姉妹ホテルを開業した年である。世間から見れば最も華やかなこの年に何かがあったにちがいない。まさに日本中がバブル経済の頂点で浮かれて、すぐ先に崩壊が待っているとは夢にも思わなかった時期である。その三十年前の六○年前後に、彼はホテルマンの人生を踏み出した。
「初めてマダム梨華にお会いしたとき、ホテルマンとして忘れられない出来ごとがありましてね……」
 念願のフロント係としてカウンターに立った最初の日の最初のお客様がマダムだったのですと、彼は遠い眼の色を見せた。
 夕方七時前後、特急列車が三宮に到着しタクシーで七、八分のホテルではチェックイン客でフロントは大忙しの時間帯です。
 初日の緊張で硬くなっている私の前に、素敵にドレスアップされたマダムがお立ちになり、「予約した梨華です」と。
 素早く予約表を見ましたが梨華というお名前はありません。数度やりとりしてフルネームが分かり、リザーブもありますのでレジスターカードの記入をお願いしました。
 宿泊はお二人でツインルームの予約ですが、カードにご記入されたのは梨華様だけ。お連れ様は? の質問に、あとから参ります、とのお返事です。それでは、お連れ様のお名前のご記入をとお願いしました。
 一瞬の間があって「書かないといけないの? 」と返ってきたのには、正直、驚きました。書いてくださるのが宿泊客の常識であり、ステイタスホテルへ泊まる当然の手続きです。
 戦後、解放された現象に男女関係があり、私も当然だと思いますし、安直な連れ込みホテルや温泉マーク(こんな言葉、もうありませんね)が北野あたりに派手なネオンで繁盛しています。
 男女のかかわりは自由ですが、ご夫婦以外のペアがオリエンタルをそのようなあからさまな目的にご利用されるのはご遠慮いただくというのが、このホテルの節度であり一流といわれる暗黙の了解事項だと教えられてきました。もちろんお二人が別個にお部屋をキープされた場合、それから先の出来事までは存じませんが。
 梨華様はハンドバッグだけで宿泊客としてのお荷物がない、さらに同宿者のお名前もお書きにならない……明らかにホテルとしてはお泊まりをご遠慮いただくお客様の部類です。
 フロント係として最初のお客様が、どうも『その筋の女』だとは……お断りの言葉を出そうとしたとき、バックヤードから出てきた先輩が尋常でない空気を察してあわてて割って入りました。
「これはこれはマダム梨華、いつもご利用ありがとうございます。フロントマンの新入りでございまして、失礼を申し上げました。たしかお兄様は良樹様でございましたね。ただいまお部屋へご案内いたします」と、彼女の書きかけのレジスターカードの同伴宿泊者欄を、先輩は自分で書き込んだのです。
 つづいてマダムの声が「このお兄さんにお部屋に案内をお願いできるかしら」と。
 急場を先輩に救われた安堵と、モラルをゆがめられた不満とで、複雑な思いにかられながらマダムを部屋へご案内しました。各階に一室しかない角部屋で広くて眺めも素敵なので、飛び入りの常連客用に、最終客のチェックインまでキープするルームなのです。
「あなた新顔なのね。ごめんなさいね。立派なホテルをランデブーに使ったりして。人生いろいろあるのよ、ごめんね」
 先ほどからのなりゆきで、無理難題をふっかけられると覚悟していたので、あっけらかんとしたマダムの言葉に驚きました。
「このホテルは神戸市民の誇りなのよね。だからあたしがお邪魔する時は、衣装も化粧も控えめにしているのよ。もちろん御影あたりのご夫人方のように生まれながらのお品(ひん)には欠けるけれど、それなりにこのホテルを大切に思っているのよ。
 でもね、たまにしか来ないパトロンには、神戸の立派なホテルに泊まってほしい、恋人としての願いなの。わかってね。一度、非番の日にあたしのお店にいらっしゃいな。あたしのお店でも時にはお断りするお客だってあるのよ」
 この日以来、彼はすっかりマダムのファンになった。

■うたかたの……
 憶えていますか? ハリウッドの青春映画『卒業』を、と彼は笑いをこらえてあるシーンを描いて見せた。
 皆さんはエンディングの花嫁略奪シーンがお好きなようですが、私はホテルへのチェックインシーンが素晴らしいと思います。
 恋人の母親から誘惑された若者が街一番の名門ホテルのフロントでチェックインのとき、情事への利用を見透かされたフロント係から意地悪い質問が出る。「お荷物は? 」と。どぎまぎしたダスティン・ホフマンの若者がポケットからあわてて取り出したのが一本の歯ブラシ。黙ってルームキーを渡すフロント係。坊やこのホテルの使い方を早く覚えろよと言わんばかりの表情。大人の対応ですね。笑いましたよ。このユーモアに近付きたいというのが、その後のホテルマンとしての目標となりました。

 一九四五年の敗戦目前の神戸大空襲でホテルは廃墟となり、どうにか復興にこぎ着けた途端、進駐軍に接収された。市民や地元経済人の熱望を背に変転を重ね、四九年わずか三十三室で再起。
 また、進駐軍に使用されていた『オリエンタル』の名称を取り返したのが五○年、神戸の代表ホテルとして立ち直ったのはほとんど八○年に入ってからだった。
 神戸の代表的静謐(せいひつ)の街路の京町筋と仲町筋の角地で、独特のブラウンのシックなタイルをまとった十一階の建物が市民の誇りと馴染みのザ・ホテルとして定着したのもその頃だ。
 ところが八八年、新幹線新神戸駅前に姉妹ホテルが誕生し、古くからのホテルは頭に『京町』と冠をつけられ、あたかも支店か出店扱いになった頃から、お馴染み客の様子が変わってきた。
「私が退職を決意したのもこの時でした。いえ、チェーンホテルが増えることに不満はありません。残念ですが長年の赤字がつづいて、本拠の京町のホテルは設備も古く百九十室程度では採算の好転も困難です。でもそれが理由ではなく、トップがホテル経営にかける志の高低というか品性のありようというか、それらを知らされて、もういいや、と考えたのです」
 新神戸駅前に完成した素晴らしい新ホテル開業時に、地元テレビが中継したトップの開業メッセージを観ていた神戸っ子は、案外、多かったようだ。
 華々しいセレモニーが進み、トップの開業宣言となった。
 彼は価格破壊をスローガンに掲げて戦後日本に消費革命の嵐を巻き起こした経済人である。『世界一多くの商品を世界一安く消費者の手に』と、さえぎる者をなぎ倒し、あらゆる業界に買収の手を伸ばして傘下に納めたわが国経済界の英雄であった。またオリエンタルホテルの所有は彼のロマンだと称えられたが、買収が神戸っ子の反感をかった訳ではない。
 彼は地元ばかりか日本の経済界のお歴々を前に、プロジェクトを完成させた有名ゼネコンの社長に対して、またテレビの電波の先にいる視聴者であるユーザーにも聞かせる意識で口を開いた。
「ホテル戦争やと言われる神戸にこれだけのホテルを開業するんやから、儲けさせてくれよな」と、得意げに語った。
 この話題は数日で神戸の御影、住吉の御屋敷町に住む夫人がたの間を駆け回った。潮がひくように夫人がたの利用中止につづき、息子や娘の結婚披露やパーティー、ついには旦那がたの企業の利用が途絶えた。
 素敵な駅前ホテルは二○○三年、外資に売却された。開業以来経営にタッチした元役員の著書によれば、立派に利益を出しているのに、投下資本五百五十億円のホテルが百二十五億円に買いたたかれたそうだ。
 また神戸っ子には忘れがたい京町のホテルは阪神大震災で被災し、再建も困難で更地のママに遺されている。
ホテルという仕事は、経営スタッフや社員だけでなく、お客様とごいっしょに育てる事業なんですね。だけど叔母様にもう一度お会いしたいな。若造の失礼を笑って見逃された神戸っ子でしたのでね、うたかたの憧れ人でしたと、彼は最後に微笑んだ。

 数年後の二○○五年九月十九日、かつてオリエンタルホテルを支配したトップの死が報じられた日の夕方、桃華から電話で感想を聞かれた彼はしばらく沈黙した。
「罪を憎み人を赦す日本人的倫理観からか、マスコミはいっせいに彼は偉大であったとその功を喧伝していますから、それはそれでいいのです。ただ、トップの野望の蔭に、神戸市民が愛してやまなかったザ・ホテルが経済変動のおもちゃにされて無残に息絶えたことを記憶しておきたいものですね。やはりあの人は時代の英雄というより梟雄(きょうゆう)であったのでした。
 神戸は開港以来、海外からのさまざまな影響を受けてきた都市であり、洋風ホテルも神戸が日本初とするひとつですが、外来のすべての物や考えを政治や経済のフィールドでよりも、市民文化の土壌に受け継ぎ育て上げてきたと思います。だからこの都市には英雄も、まして梟雄は迷惑なのじゃないかな。文化として育てる高い志や視線があってこそ、市民の共感を呼ぶのだと思いますね」

第三話 了

●参考資料
 オリエンタルホテル三十年の歩み(オリエンタルホテル)



オリエンタルホテル跡地
昔、ザ・ホテルここにありき。
手前は神戸市立博物館、その右側の空地(現在は有料駐車場)が京町オリエンタルホテル跡地。


京町筋
神戸の「静溢の大通り」と呼ばれる京町筋。
ホテルはこの大通りに面して建っていた。

 



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