事件は港からやって来た……横浜・神戸 二都物語
2005
12
Oct
Posted by 佐田 薫子 on 00:00 / Category : 横浜・神戸二都物語
●山手の景観を守れ!
  …そんな、バカな!
 山手に住む住民たちは、その話に唖然とした。
 この地に古くから在るインターナショナルスクールのひとつ、セント・ジョセフが廃校となり、その跡地にマンションが建設されるとの話は、その内容といい規模といい、山手の住人たちを震撼させるものだったのだ。

 横浜の山手は、「横浜居留地改造及び競馬場墓地等約書」に基づき、一八六七年(慶応三年)に外国人の居住地区としての整備が始まった。生麦事件など外国人殺傷事件が後を絶たないことを理由に、居留地民の保護安全をうたって設置された英仏軍隊の駐屯地を背景とし、尾根沿いに、個人の住宅は勿論のこと、教会・ホテル・劇場・ダンスホールそして当初に設置された墓地の拡張など次々と建設され、今の素地が作られた地域である。


横浜史料 開港七十年記念から「山手外人居留地図」 横浜市立中央図書館所蔵

 埋立地である関内が、仕事の場とすれば、それを望むここ山手の丘は、彼らにとっての生活の場であった。辺境極東の地で本国と同様に快適な生活を営むため、出来うる限りの造作が行われたことは言うまでもなく、横浜に移り住んで来た家族のため、学校が切望されたのも当然のことであった。
 開校された学校は、当時から設立者の意図の下、そのいずれもが日本人にも開放され、外国語教育はもとより、国際感覚や西洋文化の素養を身につける場ともなり、ここから諸外国への道を歩んでいった日本人子女たちも少なくない。

 山手の丘は、関東大震災で崩壊し、第二次世界大戦による戦災は免れたもののその直後の接収、そして昭和四〇年代から始まる乱開発と六〇年代バブル期に到って拍車が掛かった住宅ブームなどに因って、開港時の華やかな姿は見事なまでに消え去り、今ではわずかに残った洋館に往時を偲ぶのみである。それでも未だここには、開港からの流れを汲むインターナショナルスクールが数多く存在し、そこに通う学生たちの姿に、ハイカラな香りを感じ取る人も多い。
 そのひとつとして、メインストリートの山手本通りにあり、山手らしい景観には欠かせない存在であったセント・ジョセフ・インターナショナルスクールが、突然廃校になると決まった。卒業生や父母たち、地元住民のショックは計り知れないものであったのだが、それ以上に驚愕の事実として、その跡地での大手開発業者による高層マンション計画が明らかになったのは、二〇〇一年(平成十三年)七月のことであった。

 セント・ジョセフは、このちょうど百年前の一九〇一年(明治三十四年)に山手に設立した。教員は、すべてカトリック・マリア会の修士であった。関東大震災後は一時神戸へ移ったが、二年後には横浜に戻って授業を再開している。また、大戦後は占領軍に利用されていた時期もあった。その後校舎を修復拡充し、山手の住人たちにもなじみの深い学校のひとつであった。
 校舎そのものも、山手本通りを挟んでななめ向かいにあるベーリックホールともども、横浜の山手を印象付ける建物であった。その廃校にあたっては、学校側としても土地建物の買い上げを各方面に嘆願するなどの動きはあった。その結果、かろうじて寄宿舎であったベーリックホールのみは、市役所が土地を買い上げ建物の寄付を受け入れる形で残ることとなったが、校舎本体まではとても手が届くはずもなく、保存運動も実ることなく民間業者への転売が決まったのであった。


ベーリックホール (財)横浜市緑の協会ホームページから

 この山手地区は、バブル期に端を発する開発ブームの影響が顕著であった。比較的東京圏へ通いやすく、知名度も高く、開発業者により仕込み土地として狙われたのは無理もないことであった。しかしながら、一九六九年(昭和四十四年)に港への眺望を損なうとして高層マンション計画の一部変更を説得した実績があり、それを普遍化するために、一九七二年(昭和四十七年)には『山手地区景観風致保全要綱』が定められていた。そして一九九八年(平成十年)九月には『山手まちづくり憲章』が創られるなど、景観を保全・考慮する地区として、住民と行政が一団となって、良好な環境を維持してきた場所でもある。
 このように、景観を共有の財産と捉え、個々人の利益偏重を抑え、歴史性と丘からの眺望をも意識させる街並みを維持する意味で、一定の役割を果たしてきたと自負する住民たちにとって、セント・ジョゼフの跡地に計画された、建築制限目一杯の開発、戸数二百を超え、五階建てで高さは限度ぎりぎりの十四.九九メートルのマンションは、許しがたいものに思えたのだ。

  山手の景観を守れ!
  高層マンションを許すな!


 横断幕が掲げられた山手本通りや幾つもの坂。休日ともなれば観光客が通り過ぎる道であり、多くは怪訝な顔で眺めながら、中には顔を顰める者さえ居る中で、住民たちは必死に訴えた。
 マンションの計画は、勿論合法的なものであった。開発業者と住民サイドとの話し合いも幾度となく行われはしたものの、その主張は平行線をたどり、司法の場に持ち込まれることになった。そして、二〇〇四年(平成十六年)七月十六日、横浜地裁は原告の「人格権としての景観権を侵害された」と訴える高さ一〇メートルを超える部分の撤去の求めを認めず、判決では「景観権を人格権としては認めることはできない」として結審した。そして、マンション分譲も完了した。

 ほぞを噛む思いであった住民たちは、この後も、山手の丘で次々と計画されるマンション計画に対して、自分達の居住環境は自分達で守らないといけないという危機感をバネに、地区環境を保全するための法的制度を求め、同年二月に「地区計画案を市長に提出」し、それに基づき具体的な規制内容が盛り込まれた『山手町地区計画』が十二月には制定された。行政側においては『地下室マンション条例』や『まちのルールづくりセンター』をつくり、住民からの相談に積極的に応じる体制を整えている。
 しかしながら、わずかな土地の隙間を縫い、丘陵を巧みに利用して計画される開発は、止まるところを知らず、山手の丘やその周辺はかっこうのマンション用地として、今日も華やかな売り出し文句が紙面に躍るチラシが、近在の各戸に配布されているのだ。

●景観法とまちづくり
「景観法」は、都市、農山漁村等における良好な景観の形成を図るため、良好な景観の形成に関する基本理念及び国等の責務を定めるとともに、景観計画の策定、景観計画区域、景観地区等における良好な景観の形成のための規制、景観整備機構による支援等所要の措置を講ずる我が国で初めての景観についての総合的な法律である。(二〇〇四年(平成十六年)六月十八日法律第一一〇号)

 国は新たな法律として、景観法なるものを昨年制定し、良好な景観を守り育っていく姿勢を示した。この法律の下、単体の建物から総合的要素を重視する景観への意識転換、いわば個人の財産や意識の尊重から集合意識を醸成し、共有概念をもって組織的に活動することの重要性を、行政としても明確に政策の中に位置づけることが出来るようになった。それとともに、自ら景観を守ろうとする住民たちを、法的な面からも支援することが求められるようになったのである。
 その一方で、今年三月の地価公示発表時においては、十四年ぶりに上昇傾向が報告された。そして八月一日付け相続税路線が発表され、十三年ぶりに地価が上昇に転じるとの報道があった。続いて九月二十一日には、都道府県地価調査の結果も公表され、名古屋圏域では、一気に三割もの上昇との報道がなされたのはまだ耳新しい。勿論、横浜市内の状況も、上昇傾向がより一層強まった感を受ける内容である。
 バブルの再来かと神経を極端に尖らせる必要はないとは言え、単純に経済の上向き傾向を喜ぶだけとはいかない。需要が見込まれる土地の価格は一層高まり、そうでない場所との格差が一段と開き、それが際だって行くとともに、開発業者の思惑が売れる土地に集まるのは必定であるのだ。
 このような状況下だからこそ、自分たちの街を自分たちの責任で守り、次世代に伝えていくことこそが、今求められていることではないか。
 そのために、新たな法律がどれほどの威力を秘めているものなのだろうか。まだ、効果的な手段を持って、住民の声に応えるすべもないのが現状である。

●山手に暮らし、景観となる
 開港の丘・山手に悠然とそびえるマンションに暮らす住民たちは、眼下に広がる良好な眺望を楽しみながら、日々の暮らしを送っている。
 この地や近隣で売り出されるマンションの宣伝文句には、異口同音にその歴史性を謳い、景観を誇り、そして山手で暮らすことで醸し出される生活レベルのクオリテイの高さを仄めかすものばかりである。
 しかし、その眺望が、これまでの歴史的積み重ねの中で作り出されてきたこと、その長い流れの中では、今も一こまにしか過ぎず、それでいてそこに居る事が、大きく影響することを感じているのだろうか。いつか、自分たちの前にも、その眺望を阻害する障壁が横たわるかもしれないということは、想像しているのだろうか。その時は、山手に暮らす住民の一人として、どのように思い行動するのだろうか。

 景観は誰のものであるのか。
 観る側のモノなのか、観られる側のものなのか。
 いくら法律が出来ようと、組織が出来ようと、これらの疑問にストレートに応えることは誰にも出来ないのだろう。山や川など自然の景観ですら、田んぼや畑などの人の手が加わり、懐かしい風景=景観として、私たちに訴え掛けてくるものである。まして都市部においては、一つ一つの建物が織りなすスカイラインこそが、街の個性を醸し出す景観として機能している場合もあるのだ。しかし、建物に住む人々の意識の中には、自分たちの生活の場所いわば暮らしそのものが、その景観の一部となっているという自覚はあるのだろうか。
 ただ一つはっきりと言えることは、壊された景観は二度と元に戻らず、崩された時間の蓄積も、誰の手元に帰ることはないということだ。

  山手の景観を守れ!
  私たちの街を守らなければ!


 山手の住人たちは、変わり行く景観を見詰め続けながら、思いを噛み締めるのであった。そして、マンション建設反対のスローガンが書かれた横断幕が、今では風雨にさらされ排気ガスにまみれ、行き交う人々の目に汚い姿を晒し続けていること自体が、山手の景観を損ねているという皮肉な事実に、気が付いてはいないのだ。

《山手まちづくり憲章》から抜粋

山手は、近代日本の夜明けに居留外国人によってつくられた町並みと自然環境が調和した住宅・文教地区です。また、港や横浜の眺望に恵まれ多くの人が訪れる印象深いまちです。私達はさらにこの優れた環境と歴史的遺産・遺構を活かした魅力あるまちづくりを進めるために、ここに『山手まちづくり憲章』を定めます。

山手地域に住む者・働く者・学ぶ者一同 平成十年九月
(了)

 



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