2005
15
Oct |
■六甲の南山麓に開花した華
神戸の建物を話題にすると、北野の異人館や海岸通りの石造建築ばかりが中心となるのは、残念だとする神戸っ子が多い。
建物の存在が経済効果をもたらす観光資源として、異人館と呼ばれる建物が神戸の一面を代表していることは事実だろう。
また海岸通りや旧居留地に姿を残す大正・昭和初期の石造ビルジングは、確かに一時代の建築様式を今に残していて貴重だが、東京や横浜にも残る建物の類型であり……ほとんどが東京を本拠にした企業の出先ビルの意識はぬぐえない。だから建築に期待するオリジナリティーの面で、神戸の代表建物とすることに逡巡を感じる。
この問題には建築の専門家で、しかも神戸純血種に聞くのが、より早道だと考えた。
瀬戸本淳、神戸生まれ、小学校から神戸大学までひたすら神戸。
一九七七年、瀬戸本淳建築研究室設立、神戸の建築家として最も輝いている一人。兵庫県建築設計監理協会会長、神戸市建築文化賞ほか地元での作品を評価されたアワードが多く、神戸オリジナリティーの代表作家だろう。
瀬戸本の建築論は分かりやすい。
住宅やマンションは当然だが、オフィスも商業施設も「住まい」が設計発想の原点で、そこに住む人の「よい生き方」の夢を、建物で実現するのが自分に与えられた使命だと明快である。
さらに彼の場合、東神戸の六甲山麓の伝統的モダニズム文化の中で育ったステイタスに恵まれ、神戸的洗練性の遺伝子を血肉に受け継いでいる。
しかも建築界によく見る孤高寡作の名匠気取りはまったくなく、多分、神戸で最も多作の建築家だろうと笑う。営業的手腕もあるが気取らないところがいかにも神戸っ子。若者時代、富豪の息子と友人だったので画家の小出楢重のアトリエで(現在、芦屋市立美術博物館に移築)遊んでいたと、さらりと言っても嫌みがない。
そこで……
●新旧を問わない、公共か民間も問わない、建物の用途も自由、これぞ神戸の建物(自作でもいい)と誇れるのはどれだろう?
数日後……
神戸市灘区の住吉・御影地区に現存する『旧乾新兵衛邸』を推薦してきた。設計は渡辺節(一八八四~一九六七)、三六年(昭和十一年)竣工の住宅である。
建築主は神戸の独立系海運会社の乾(いぬい)汽船の社長。もちろん建築規模や投下予算などで乾邸を上回る建物は他にも多いが、建築主が酒造家を祖に持ち、三代前に海運業に転換。四代目(建築時の当主)が第一次大戦時に財をなしワイヤーの製造や倉庫業にも事業を拡張した。仕事ばかりでなく粋人でゴルファーとしても高名な趣味人であるところが神戸っ子代表にふさわしい。
建築の渡辺とは友人関係にあり、建築家が精魂を込めて創りあげた建物が、まさにある時代の神戸を象徴的に表現している意味でも神戸建築のオリジナリティー表現の一つの頂点を示している。
乾邸建築時の背景をなした当時の、阪神間の文化状況について説明する必要があるだろう。
明治末から昭和十五年ころまでの約三十年前後、神戸は大きく変化をとげた。それは変貌という表層的なものでなく、文化面で見ると見事な創出期であったと言うべきだろう。
阪神間の官営鉄道開通が明治七年、阪神電鉄開通が同三十八年、阪急電鉄神戸線が大正九年に開通して一挙に阪神間の状況が変化をとげた。
『煙の都に住む不幸な大阪市民は、美しい阪神間に来たれ』『真の有識階級や資産家は、大阪に会社を所有し、阪神間に邸宅を構え、六甲山頂に別荘を持つことなり』と、阪急小林一三のキャッチフレーズは具体的であり、心をくすぐる誘いに充ちていた。
住友(財閥本家)、弘世(日本生命)、武田(製薬)、野村(證券)など関西を代表するリッチ層が居を移し邸宅設計に有名建築家が腕を振るい、彼ら自身もこの一帯に住む。
安井、竹腰、村野、渡辺など、時代の気鋭が顔をそろえる。
また作家、詩人、画家、写真家など芸術家がアトリエを移し、資産家の情熱で人材育成の学校(甲南、甲陽、灘など)が開校。ソサエティーの交流から独自のライフスタルが生まれる。
それは『阪神間モダニズム文化』と呼ばれた。
東急電鉄の支配者五島慶太が、東横線開発に際して阪急小林一三の手法を師として阪神間に学んだことからも分かるだろう。
谷崎潤一郎が『細雪』に描いた地域と時代であり、彼自身も阪神間に住むことで、この名作を世に出せたことは間違いない。
住吉地区の南向き斜面に建つ乾邸は、阪神間モダニズム建築文化の見事な結実を示した建物といえよう。
薄茶色で落ち着いたテクスチャーの外壁と薄赤の瓦、窓やテラスに見られるスチールバーの細工。そして一歩室内に入ると圧倒されるばかりの精緻な彫刻細工の壁、床、天井。
初期のリビングルームの写真のマントルピース上部の飾り棚には、地元の画家・小磯良平の女性像が収まるべくして収まっていた。
「これは小磯作品を愛した当主が設計段階からここに飾ることを決めていたにちがいない。この素晴らしい室内造作や家具類は、神戸家具の伝統を受け継ぐ永田良介商店の仕事だろう」と、瀬戸本は分析したが、最近の同邸の写真には小磯の額も永田の家具も姿を消している。一枚の絵と建物の間にさえ緊張感を感じさせるほど素晴らしい、とは瀬戸本の述懐だがこれには原因があった。
約十年前、乾邸は相続税代わりに物納され、神戸市の管理下にあるのだ。文化継承に水をさす税制を、いまさら難じてもしかたがないのだが。
神戸の誇りばかりか民族遺産として遺すべきだと、顎足(あごあし)弁当自前で頑張る団体「六甲山麓の環境文化を生かそう『旧乾邸』活用応援倶楽部」は、地元建築家の熱い思いから組織されている。
発起人であり面倒な事務局を引き受けるのは、これも神戸純血種の野崎隆一と留美の建築家夫妻(建築事務所・遊空間工房)だが黒子の世話役に徹している。
神戸には建物ばかりでなく、血の熱い建築家が多いのも誇りといえよう。阪神大震災で「建物」の辛い消長を眼にしただけに、地元建築家たちの心に残る乾邸は、かぎりなく貴重な建物なのだ。
■灘浜に神戸の汚点建物
いまさら言うまでもなく建築物は、公私を問わず所有者の資産であり、関与した建築家の作品としての価値を持ち、同時に社会資産として認識される。だから街並みを構成する要素として、社会的価値と併せて景観や近隣への責任も求められるだろう。
神戸の『最低』の建築を語るのは、専門家より神戸市民がふさわしく阪神大震災被災者が適任だから、筆者が報告する。
大震災八年後、神戸市も表層的には八割方復興し市民生活も落ち着きを取り戻した。
この年、奇妙な建物が完成した。
場所は巨大な製鋼工場跡地の灘浜海岸一帯を再開発した、HAT神戸(ハットコウベ)の一角だ。
一辺四三メートル、八階建てで四面の外壁は総ガラスの箱……隣接のコンクリートの建物と会わせて震災記念館「人と防災未来センター」と名付けられた公共の建築物である。
瀬戸内海を目前にしてガラスの建物は輝き、夜間、建物に照明が点灯すると巨大な灯りの箱となり、近くの高速道路を走るドライバーの眼を引き付ける。
問題は総ガラスの建物を、震災記念館として企画し、被災地の中心に建てたこと、予算は当然、税金でまかなわれたことに神戸市民である被災者は、やりきれない神戸の土建体質の一面を見る思いがする。計画した国と県と、依頼を受けて設計した建築家の、感性や技術以前の常識を疑いたいのだ。

阪神大震災の被災者が唖然とし怒った、外壁総ガラスの「建物」。
「人と防災未来センター」の存在はいまも物議の中心であり、国と建築家の愚昧の「記念館」として永遠に残れと被災市民は願っている。
ガラス外壁やピロティーが地震にいかにもろいか、あの日あの場所に立ち会った神戸市民百五十万人が知っている。まして全壊被災者や身近に犠牲者を出した者のトラウマ(心の傷害)を、建設を推進した関係者はどう考えているのだろうか。
この建物のガラス外壁に恐怖や疑問を持ったのが被災者だけではなかったことは、センター開館時に受付横に置かれた簡易なコピー複写のチラシが、皮肉にも内情を語っていた。
チラシのキャッチフレーズは『なぜこのような建物なのだろうか?』『阪神大震災級の地震に対しても被害が発生しないようになっている』と、技術用語をちりばめた解説文の背景には、この種の質問が多く、受付嬢では到底納得してもらえる回答が困難であることを語り、皮肉な笑いと怒りを誘った。
耐震計算で確認ずみなのは当然だが、何でわざわざ被災市民の心を逆なでするようなデザインを採用するのか、建築とはそこに生き暮らす人間の思惑や心象風景も無視するほどに価値の高い行為なのか。と、多くの被災者が呆然とした。
もはや館内の展示など、言及するまでもない。この建物は存在自体が異様であり、震災と被災市民の怨さの記念館として永遠に遺れと神戸市民は念じている。
地震によるガラス破損の恐怖は、○五年の玄界灘地震のときの博多のビルの衝撃的な映像が記憶に新しい。
また残念なことに神戸では、公共の大型建築物の設計も施工も、地元の建築家や建設業者に託されることが少ない。実績がないという役所基準のせいである。華ある建物が民間の建築家に託された時代に郷愁を感じてやまないのだ。
●参考資料
天空の[建築・まち]へ・瀬戸本淳建築研究室(建築ジャーナル別冊)
神戸商工だより(神戸商工会議所)
乾邸資料提供(六甲山麓の環境文化を生かそう「旧乾邸」活用応援倶楽部)
●写真提供
六甲山麓の環境文化を生かそう「旧乾邸」活用応援倶楽部
神戸の建物を話題にすると、北野の異人館や海岸通りの石造建築ばかりが中心となるのは、残念だとする神戸っ子が多い。
建物の存在が経済効果をもたらす観光資源として、異人館と呼ばれる建物が神戸の一面を代表していることは事実だろう。
また海岸通りや旧居留地に姿を残す大正・昭和初期の石造ビルジングは、確かに一時代の建築様式を今に残していて貴重だが、東京や横浜にも残る建物の類型であり……ほとんどが東京を本拠にした企業の出先ビルの意識はぬぐえない。だから建築に期待するオリジナリティーの面で、神戸の代表建物とすることに逡巡を感じる。
この問題には建築の専門家で、しかも神戸純血種に聞くのが、より早道だと考えた。
瀬戸本淳、神戸生まれ、小学校から神戸大学までひたすら神戸。
一九七七年、瀬戸本淳建築研究室設立、神戸の建築家として最も輝いている一人。兵庫県建築設計監理協会会長、神戸市建築文化賞ほか地元での作品を評価されたアワードが多く、神戸オリジナリティーの代表作家だろう。
瀬戸本の建築論は分かりやすい。
住宅やマンションは当然だが、オフィスも商業施設も「住まい」が設計発想の原点で、そこに住む人の「よい生き方」の夢を、建物で実現するのが自分に与えられた使命だと明快である。
さらに彼の場合、東神戸の六甲山麓の伝統的モダニズム文化の中で育ったステイタスに恵まれ、神戸的洗練性の遺伝子を血肉に受け継いでいる。
しかも建築界によく見る孤高寡作の名匠気取りはまったくなく、多分、神戸で最も多作の建築家だろうと笑う。営業的手腕もあるが気取らないところがいかにも神戸っ子。若者時代、富豪の息子と友人だったので画家の小出楢重のアトリエで(現在、芦屋市立美術博物館に移築)遊んでいたと、さらりと言っても嫌みがない。
そこで……
●新旧を問わない、公共か民間も問わない、建物の用途も自由、これぞ神戸の建物(自作でもいい)と誇れるのはどれだろう?
数日後……
神戸市灘区の住吉・御影地区に現存する『旧乾新兵衛邸』を推薦してきた。設計は渡辺節(一八八四~一九六七)、三六年(昭和十一年)竣工の住宅である。
建築主は神戸の独立系海運会社の乾(いぬい)汽船の社長。もちろん建築規模や投下予算などで乾邸を上回る建物は他にも多いが、建築主が酒造家を祖に持ち、三代前に海運業に転換。四代目(建築時の当主)が第一次大戦時に財をなしワイヤーの製造や倉庫業にも事業を拡張した。仕事ばかりでなく粋人でゴルファーとしても高名な趣味人であるところが神戸っ子代表にふさわしい。
建築の渡辺とは友人関係にあり、建築家が精魂を込めて創りあげた建物が、まさにある時代の神戸を象徴的に表現している意味でも神戸建築のオリジナリティー表現の一つの頂点を示している。
乾邸建築時の背景をなした当時の、阪神間の文化状況について説明する必要があるだろう。
明治末から昭和十五年ころまでの約三十年前後、神戸は大きく変化をとげた。それは変貌という表層的なものでなく、文化面で見ると見事な創出期であったと言うべきだろう。
阪神間の官営鉄道開通が明治七年、阪神電鉄開通が同三十八年、阪急電鉄神戸線が大正九年に開通して一挙に阪神間の状況が変化をとげた。
『煙の都に住む不幸な大阪市民は、美しい阪神間に来たれ』『真の有識階級や資産家は、大阪に会社を所有し、阪神間に邸宅を構え、六甲山頂に別荘を持つことなり』と、阪急小林一三のキャッチフレーズは具体的であり、心をくすぐる誘いに充ちていた。
住友(財閥本家)、弘世(日本生命)、武田(製薬)、野村(證券)など関西を代表するリッチ層が居を移し邸宅設計に有名建築家が腕を振るい、彼ら自身もこの一帯に住む。
安井、竹腰、村野、渡辺など、時代の気鋭が顔をそろえる。
また作家、詩人、画家、写真家など芸術家がアトリエを移し、資産家の情熱で人材育成の学校(甲南、甲陽、灘など)が開校。ソサエティーの交流から独自のライフスタルが生まれる。
それは『阪神間モダニズム文化』と呼ばれた。
東急電鉄の支配者五島慶太が、東横線開発に際して阪急小林一三の手法を師として阪神間に学んだことからも分かるだろう。
谷崎潤一郎が『細雪』に描いた地域と時代であり、彼自身も阪神間に住むことで、この名作を世に出せたことは間違いない。
住吉地区の南向き斜面に建つ乾邸は、阪神間モダニズム建築文化の見事な結実を示した建物といえよう。
薄茶色で落ち着いたテクスチャーの外壁と薄赤の瓦、窓やテラスに見られるスチールバーの細工。そして一歩室内に入ると圧倒されるばかりの精緻な彫刻細工の壁、床、天井。
初期のリビングルームの写真のマントルピース上部の飾り棚には、地元の画家・小磯良平の女性像が収まるべくして収まっていた。
![]() | ![]() |
![]() | 写真上左:乾邸階段親柱 写真上右:乾邸居間階段 写真左:乾邸居間暖炉 写真下:乾邸南側外 |
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「これは小磯作品を愛した当主が設計段階からここに飾ることを決めていたにちがいない。この素晴らしい室内造作や家具類は、神戸家具の伝統を受け継ぐ永田良介商店の仕事だろう」と、瀬戸本は分析したが、最近の同邸の写真には小磯の額も永田の家具も姿を消している。一枚の絵と建物の間にさえ緊張感を感じさせるほど素晴らしい、とは瀬戸本の述懐だがこれには原因があった。
約十年前、乾邸は相続税代わりに物納され、神戸市の管理下にあるのだ。文化継承に水をさす税制を、いまさら難じてもしかたがないのだが。
神戸の誇りばかりか民族遺産として遺すべきだと、顎足(あごあし)弁当自前で頑張る団体「六甲山麓の環境文化を生かそう『旧乾邸』活用応援倶楽部」は、地元建築家の熱い思いから組織されている。
発起人であり面倒な事務局を引き受けるのは、これも神戸純血種の野崎隆一と留美の建築家夫妻(建築事務所・遊空間工房)だが黒子の世話役に徹している。
神戸には建物ばかりでなく、血の熱い建築家が多いのも誇りといえよう。阪神大震災で「建物」の辛い消長を眼にしただけに、地元建築家たちの心に残る乾邸は、かぎりなく貴重な建物なのだ。
■灘浜に神戸の汚点建物
いまさら言うまでもなく建築物は、公私を問わず所有者の資産であり、関与した建築家の作品としての価値を持ち、同時に社会資産として認識される。だから街並みを構成する要素として、社会的価値と併せて景観や近隣への責任も求められるだろう。
神戸の『最低』の建築を語るのは、専門家より神戸市民がふさわしく阪神大震災被災者が適任だから、筆者が報告する。
大震災八年後、神戸市も表層的には八割方復興し市民生活も落ち着きを取り戻した。
この年、奇妙な建物が完成した。
場所は巨大な製鋼工場跡地の灘浜海岸一帯を再開発した、HAT神戸(ハットコウベ)の一角だ。
一辺四三メートル、八階建てで四面の外壁は総ガラスの箱……隣接のコンクリートの建物と会わせて震災記念館「人と防災未来センター」と名付けられた公共の建築物である。
瀬戸内海を目前にしてガラスの建物は輝き、夜間、建物に照明が点灯すると巨大な灯りの箱となり、近くの高速道路を走るドライバーの眼を引き付ける。
問題は総ガラスの建物を、震災記念館として企画し、被災地の中心に建てたこと、予算は当然、税金でまかなわれたことに神戸市民である被災者は、やりきれない神戸の土建体質の一面を見る思いがする。計画した国と県と、依頼を受けて設計した建築家の、感性や技術以前の常識を疑いたいのだ。

阪神大震災の被災者が唖然とし怒った、外壁総ガラスの「建物」。
「人と防災未来センター」の存在はいまも物議の中心であり、国と建築家の愚昧の「記念館」として永遠に残れと被災市民は願っている。
ガラス外壁やピロティーが地震にいかにもろいか、あの日あの場所に立ち会った神戸市民百五十万人が知っている。まして全壊被災者や身近に犠牲者を出した者のトラウマ(心の傷害)を、建設を推進した関係者はどう考えているのだろうか。
この建物のガラス外壁に恐怖や疑問を持ったのが被災者だけではなかったことは、センター開館時に受付横に置かれた簡易なコピー複写のチラシが、皮肉にも内情を語っていた。
チラシのキャッチフレーズは『なぜこのような建物なのだろうか?』『阪神大震災級の地震に対しても被害が発生しないようになっている』と、技術用語をちりばめた解説文の背景には、この種の質問が多く、受付嬢では到底納得してもらえる回答が困難であることを語り、皮肉な笑いと怒りを誘った。
耐震計算で確認ずみなのは当然だが、何でわざわざ被災市民の心を逆なでするようなデザインを採用するのか、建築とはそこに生き暮らす人間の思惑や心象風景も無視するほどに価値の高い行為なのか。と、多くの被災者が呆然とした。
もはや館内の展示など、言及するまでもない。この建物は存在自体が異様であり、震災と被災市民の怨さの記念館として永遠に遺れと神戸市民は念じている。
地震によるガラス破損の恐怖は、○五年の玄界灘地震のときの博多のビルの衝撃的な映像が記憶に新しい。
また残念なことに神戸では、公共の大型建築物の設計も施工も、地元の建築家や建設業者に託されることが少ない。実績がないという役所基準のせいである。華ある建物が民間の建築家に託された時代に郷愁を感じてやまないのだ。
第五話 了
●参考資料
天空の[建築・まち]へ・瀬戸本淳建築研究室(建築ジャーナル別冊)
神戸商工だより(神戸商工会議所)
乾邸資料提供(六甲山麓の環境文化を生かそう「旧乾邸」活用応援倶楽部)
●写真提供
六甲山麓の環境文化を生かそう「旧乾邸」活用応援倶楽部
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