2005
19
Oct |
■三ノ宮を移転させろ
マーケティングや商業施設プランニングのプロが、意地の悪い質問を口にした。
……昔は新開地が華やかな繁華街で長田もそこそこの賑を見せる町だったようだが、戦災と阪神大震災の二度の災害や、都会消費層の移り気から、神戸のアミューズメントやショッピングのエリアが、三宮センター街、神戸大丸と旧居留地周辺、元町商店街、の三カ所に集約されたのは仕方のないことだろう。
大丸旧居留地エリアと、地下街のサンチカタウンから地上の三宮センター街につながるエリアも、混沌さのエネルギーを踏まえた強い姿勢が感じとれる。

●神戸大丸西側の元町一丁目商店街入口
ところが近代神戸の代表的繁華街と言われた元町は、いったいどうなっているのだ? 賑(にぎわい) は一歩南側の南京町だけ。立派なアーケードも敷きつめた歩道のタイルも、広さばかりが目立ち、わびしくなるばかり。
特に距離一・二キロメートルの商店街の約半分の三丁目以西は、眼のやり場に困るほどの閑散さ。敗戦直後、航空機工場から持ち出したジュラルミンで商店街を復興させ、元町ジュラ街の名を全国に広めた熱気はいったいどこへいったのだ。
元町の老舗ブリッ子の沈滞と、三宮の若づくりの熱気。まるで背中を向けあった倦怠期の夫婦だぞ。
新橋から始まり銀座、京橋、そして日本橋にいたる(その逆でもいいが)繁華街が、百年を越えても魅力を保つ原因は、そこに店を構える者たちが町名は変わっても一筋の道として認めあってきたからだとする意見がある。売買いずれの側からも理にかなった考えだ。その意味からも元町と三宮には、過去、癒しがたい軋轢があったのかな? と、最後に彼は皮肉な笑いを浮かべた。

●JR元町駅
野次馬的視野で探ると、恨(ね)はかなり深い、と、見た。
神戸の『元町』と『三宮』の対立の構図、対立が穏当でなければ並立でも対峙でもいいが、面白そうなので探りを入れてみた。
公開された資料で、三宮と元町にふれた一文の要旨を紹介する。
小林正信著『あれこれと三宮』昭和六十一年刊の自家版。筆者から直接頂戴したものだ。
文中の「三ノ宮駅・元町駅物語」の章にそれはあり、もともと官営鉄道(現JR)時代の三ノ宮駅は、現在の元町駅の場所にあった。実はこれが遺恨の土壌となった。
当時の三宮通りは八百屋や米味噌屋、風呂屋、畳屋などが点在し、商店街というよりも生活町内の様子であり、町の西端は寂しい町並みだったと記されている。
この町の散髪屋のSは、実行力がある腹の太い世話役だった。
昭和初期、三ノ宮駅の高架化が鉄道局で計画され、噂が町内に流れた途端、Sは飛び出した。あらゆる縁故や役所へのつてを使い三ノ宮駅移転誘致の猛運動を起こした。
「鉄道と神戸の将来を考えれば、もっと東のゆとりのあるところこそ駅にふさわしい」と、ひたすら訴えた。
昭和五年高架完成と同時に駅も雲井通り(現在の三ノ宮駅)に移転して開業した。
駅移転が三宮興隆の呼び水となり、阪神電鉄(八年)がそごう百貨店完成に合わせて地下駅で乗り入れ、つづいて阪急電車も官営鉄道と平行の高架で三宮をターミナルとして、映画館や飲食・物販の総合アミューズメント施設の阪急会館や楽天地を完成。
ついには神戸市役所が三宮エリアに移転することで、三宮一帯は神戸のシンボルゾーンとして、不動の地位を築いてしまう。
駅移転で仰天した元町側だが、創業百年を超える老舗の旦那衆は、高架計画から駅移転審議、着工まで何をしたのか目立った行動の記録はない。神戸随一を誇っていた繁華街は顧客の足の便を奪われたばかりか駅名の三ノ宮まで持っていかれた。
地域社会に影響の大きい鉄道の大工事が、地元関係者の耳に入らないはずがない。つい旦那衆のやり口である政治家や顔役への他人頼みか金銭頼みに任せ、自分の体を張るわずらわしさを避けて時代の推移を見誤ったのだと言われても返す言葉もない。
Sの着眼と行動力が神戸の地図も人の流れも変えてしまった街づくりの根源について、小林は次の一文を書き残している。
……勢いと言うものか、続いて神戸新聞会館がくる。市役所が東へ移ってくる。さんちかや国際会館もできると、雪だるま式に栄えてきたが、そごうの東に三越がくることや、磯上(三宮のエリア内)に競馬の場外馬券場がくることを反対した人たちの思慮の浅いことを、私は悲しむ。
街の発展には、やはり交通、ショッピング、娯楽の三つを兼ね備えることが大事だと思う(原文のママ、傍点筆者)……
著者の小林は明治十八年創業の小林酒店の三代目、戦前の店は旧阪神電車神戸滝道駅前(現在のフラワーロードと中道筋の角)にあり現在は向かい側の三宮町で営業中、まじりけなしの三代目神戸っ子三宮族だ。

●馬券売り場ビル
■元町を返せ
もちろん誇り高き元町が、泣き寝入りしたわけではない。
あわてた旦那衆は遅まきながら駅返還運動を始めた。が、あいかわらず地元政治家や有力者に任せて、自分で汗をかくことはなかったようだ。それが元町旦那のやりかただと、その後、元旦那だった者の述懐である。当然のように鉄道局の門前払いがつづく。
それではと、駅返還を新駅設置に変えて運動を再始動した。
しかしこの方策も、一キロ以内に二駅は置かない鉄道事業の原則に阻まれるが、旦那流の万策を使い、やっと特例として認めるかわりに、駅開設費用の地元負担で折り合いをつけた。約五億円という当時としては膨大な資金を集めてまで開設したのが、現在の元町駅であった。
ほとんど平行して阪神電鉄も三宮から地下鉄道を延長して元町に駅を設置。この地下駅が半世紀後に大問題発生の火種となる。
駅の移転・新設問題のあとも、元町・三宮繁華街は歴史的な苦難を迎える。阪神大水害(昭和十三年)、神戸大空襲(二十年三月、六月)、そして阪神淡路大震災(平成七年)である。
かつての元町は道路を挟んで老舗が軒を並べ西日本の消費文化はここから始まるとばかりに、ハイカラモダンの商品と店舗が全国に発信され、抜群の集客力を誇ってきた。
三越(大正十四年)、大丸(昭和二年)、そごう(八年)と、一流百貨店も神戸での初の店出しは元町商店街であった。今、その一店も残らずそれぞれ自前の立地で立派に集客し、去られた元町には昔の話題だけが残った。それでも二○○四年現在、営業年数が百年を超える老舗二十三店、未満でも老舗と呼ぶにふさわしい九十四店を擁している街なのだが……
追い討ちをかけて第二次世界大戦後の交通機関革命は、一部のレジャー客を除き旅行者を船舶から航空機へと劇的に変換させた。
海外航路の衰退で、神戸港へ徒歩十分の最短距離にあった国鉄元町駅の乗降客の激減は、当然、商店街への客足を遠のかせた。三宮から地下を延伸していた阪神元町駅も閑散となる。
打開策に駅の地上に高層ビルを建設し、中央競馬会場外馬券売り場を誘致してテナント料と鉄道収入増を考えた。
馬券売り場! 誇り高い元町商店街を揺るがす大問題である。
三宮の磯上に誘致したが地元の大反対で断念した馬券売り場が、阪神元町駅ビルに再燃したのだから、三宮と元町はよくよく因縁めいたかかわりを持つ街同士であった。
さすがの旦那衆も馬券売り場は許せないと、その後十数年におよぶ反対運動に立ち上がる。このとき闘争の前線に、三宮のSとは立場を逆にする異色の人物が登場する。
■実践と発信こそ
島田誠。
神戸で生まれ育ち、神戸高校から神戸大学の純血種神戸っ子。三菱重工(神戸)のエリートサラリーマンを経て元町商店街の老舗海文堂書店社長に就任、書店に画廊を併設して神戸文化の発信拠点とし、文化支援組織アート・エイド神戸を設立。ここまでなら旦那芸なのだが、彼は猛然と実践に走る。

●元町通三丁目にある海文堂書店
文化不毛と言われる関西で、「神戸は違うよ」と積極的に声を上げ、実践に走るのが島田の特長であり、とやかく異論ばかりを口にする『文化人』を黙らせる武器でもあった。
元町場外馬券売り場構想は、すでに七七年に発表されていたのだが、ヘルメット武装の市民と工事業者が向かい合う臨戦化したのは八四年。ここでも旦那衆はそれまでの七年間に何をしていたかの疑問が残る。
「地域住民との合意がないかぎり馬券売り場は開設しない」と農林大臣談話があるから安心だ……本気で信じたのが旦那的思考だ。
このとき初めて、老舗書店の元気者の島田が駆り出された。
以降、三年の闘争期間中には、市民エネルギーと朝比奈隆や陳舜臣たち神戸ゆかりの文化人を結集し「元町文化の伝統を守る会」「元町ルネッサンス」「シンポジウム・元町をどやしつける」ついには阪神電鉄「一株株主運動」で七十二万株を集め馬券売り場設置反対議案提出など、およそ考えられる戦略戦術のすべてを動員して闘い抜き、彼は常に闘いの最前線に立った。
が……反体制運動の常道通りに切り崩され、分裂し、蹉跌の苦渋を嫌というほど味わい、島田自身も毀誉褒貶にまみれたあげく、阪神元町駅ビルは完成する。馬券売り場が入居して、開催日には競馬新聞に赤鉛筆、くわえ煙草族の大群に一帯を占拠される光景が日常化した。

●神戸風月堂、本高砂屋、柴田洋服店、赤壁商店など老舗が並ぶ賑も四丁目あたりまでで、その西は閑散となる。
彼は九三年発刊のエッセイ集『無愛想な蝙蝠』に、闘争の推移と敗北を検証している。
……(馬券売り場設置)計画の最初の段階から、商店街レベルの話ではなく市民レベルでの取り組として、駅という公共空間を通して「街のありかたそのものを問う」という展開をしておればと、悔やまれてならない(原文のママ)……
この闘争が彼本来の資質の底に根を張り、その後の神戸文化の育成と発信に向けてすさまじいほどの行動に立ち向かわせた。しかし本人は決して肩ひじ張る気配はなく、涼しげに楽しんでいる風情なのだ。
お上からお下げいただく文化にはまず疑問の眼を向けるが、市民から持ち込まれる文化活動には、常に同じ視線に立ち可能な支援に伴走する。しかも「自分は文化の創造者ではなく、伝達者に徹する」と、まさにサポーターの足場である。
もともとは音楽を目指し、経営学を勉強して就職した一流企業では経理マンとなり、義父に口説かれて書店社長、アートへの渇望からギャラリーを開設して画家や作家と交わり、積極的に神戸文化の発信源となる。
この間、文化支援基金「亀井純子文化基金」を立ち上げて事務長を引き受けたのも、彼が提唱していた市民メセナの具体化であったからだ。「文化」というおよそ金銭に変換できない価値に、彼は夢をかけているとしか思えない。
と、ここまで書けば、中央の文化に反抗の目を向けて、いじけた地方都市的嗜逆文化論者ともとれるが、彼はきわめて自然体で現実的なのだ。だから島田を数百文字で語ることは不可能だし、無意味な内容となる。そこで常に、本人に会うことを勧めている。

●北野ハンター坂にあるギャラリー島田、神戸文化の発信拠点。
二○○○年、海文堂書店社長を辞した島田は、年来の夢を果たして北野のハンター坂にギャラリー島田を開設し、活動の拠点とした。ギャラリーを訪ねた者は心地よく迎えられ、希望により無視されて、静かな絵画鑑賞の時間を楽しめ、遠慮なしに店主島田との対話も楽しめる。
小遣いていどの会費で、アートサポートセンター神戸からメルマガや通信(ペーパー)が送られ、月一、二回の火曜サロンに招かれる。有名無名を問わず、神戸ゆかりの者、ゆかりのない者の演奏やトークを聞き、その後の割り勘ワインパーティーを楽しむ。
戦後、日本最大の闇市の中からはい出して賑の新興商店街づくりに励んだ小林正信、手早く工務店にジュラルミンを手配させて商店街を作りあげた老舗の旦那衆に歯ぎしりした元町の島田誠。二人の肌合いの違いが、そのまま三宮と元町の姿を語っているようだ。(文中敬称略)

●平日も混雑する三宮センター街のにぎわい。
●参考資料
あれこれと三宮(小林正信著・八六年・三宮ブックス)
無愛想な蝙蝠(島田誠著・九三年・風来舎)
マーケティングや商業施設プランニングのプロが、意地の悪い質問を口にした。
……昔は新開地が華やかな繁華街で長田もそこそこの賑を見せる町だったようだが、戦災と阪神大震災の二度の災害や、都会消費層の移り気から、神戸のアミューズメントやショッピングのエリアが、三宮センター街、神戸大丸と旧居留地周辺、元町商店街、の三カ所に集約されたのは仕方のないことだろう。
大丸旧居留地エリアと、地下街のサンチカタウンから地上の三宮センター街につながるエリアも、混沌さのエネルギーを踏まえた強い姿勢が感じとれる。

●神戸大丸西側の元町一丁目商店街入口
ところが近代神戸の代表的繁華街と言われた元町は、いったいどうなっているのだ? 賑(にぎわい) は一歩南側の南京町だけ。立派なアーケードも敷きつめた歩道のタイルも、広さばかりが目立ち、わびしくなるばかり。
特に距離一・二キロメートルの商店街の約半分の三丁目以西は、眼のやり場に困るほどの閑散さ。敗戦直後、航空機工場から持ち出したジュラルミンで商店街を復興させ、元町ジュラ街の名を全国に広めた熱気はいったいどこへいったのだ。
元町の老舗ブリッ子の沈滞と、三宮の若づくりの熱気。まるで背中を向けあった倦怠期の夫婦だぞ。
新橋から始まり銀座、京橋、そして日本橋にいたる(その逆でもいいが)繁華街が、百年を越えても魅力を保つ原因は、そこに店を構える者たちが町名は変わっても一筋の道として認めあってきたからだとする意見がある。売買いずれの側からも理にかなった考えだ。その意味からも元町と三宮には、過去、癒しがたい軋轢があったのかな? と、最後に彼は皮肉な笑いを浮かべた。

●JR元町駅
野次馬的視野で探ると、恨(ね)はかなり深い、と、見た。
神戸の『元町』と『三宮』の対立の構図、対立が穏当でなければ並立でも対峙でもいいが、面白そうなので探りを入れてみた。
公開された資料で、三宮と元町にふれた一文の要旨を紹介する。
小林正信著『あれこれと三宮』昭和六十一年刊の自家版。筆者から直接頂戴したものだ。
文中の「三ノ宮駅・元町駅物語」の章にそれはあり、もともと官営鉄道(現JR)時代の三ノ宮駅は、現在の元町駅の場所にあった。実はこれが遺恨の土壌となった。
当時の三宮通りは八百屋や米味噌屋、風呂屋、畳屋などが点在し、商店街というよりも生活町内の様子であり、町の西端は寂しい町並みだったと記されている。
この町の散髪屋のSは、実行力がある腹の太い世話役だった。
昭和初期、三ノ宮駅の高架化が鉄道局で計画され、噂が町内に流れた途端、Sは飛び出した。あらゆる縁故や役所へのつてを使い三ノ宮駅移転誘致の猛運動を起こした。
「鉄道と神戸の将来を考えれば、もっと東のゆとりのあるところこそ駅にふさわしい」と、ひたすら訴えた。
昭和五年高架完成と同時に駅も雲井通り(現在の三ノ宮駅)に移転して開業した。
駅移転が三宮興隆の呼び水となり、阪神電鉄(八年)がそごう百貨店完成に合わせて地下駅で乗り入れ、つづいて阪急電車も官営鉄道と平行の高架で三宮をターミナルとして、映画館や飲食・物販の総合アミューズメント施設の阪急会館や楽天地を完成。
ついには神戸市役所が三宮エリアに移転することで、三宮一帯は神戸のシンボルゾーンとして、不動の地位を築いてしまう。
駅移転で仰天した元町側だが、創業百年を超える老舗の旦那衆は、高架計画から駅移転審議、着工まで何をしたのか目立った行動の記録はない。神戸随一を誇っていた繁華街は顧客の足の便を奪われたばかりか駅名の三ノ宮まで持っていかれた。
地域社会に影響の大きい鉄道の大工事が、地元関係者の耳に入らないはずがない。つい旦那衆のやり口である政治家や顔役への他人頼みか金銭頼みに任せ、自分の体を張るわずらわしさを避けて時代の推移を見誤ったのだと言われても返す言葉もない。
Sの着眼と行動力が神戸の地図も人の流れも変えてしまった街づくりの根源について、小林は次の一文を書き残している。
……勢いと言うものか、続いて神戸新聞会館がくる。市役所が東へ移ってくる。さんちかや国際会館もできると、雪だるま式に栄えてきたが、そごうの東に三越がくることや、磯上(三宮のエリア内)に競馬の場外馬券場がくることを反対した人たちの思慮の浅いことを、私は悲しむ。
街の発展には、やはり交通、ショッピング、娯楽の三つを兼ね備えることが大事だと思う(原文のママ、傍点筆者)……
著者の小林は明治十八年創業の小林酒店の三代目、戦前の店は旧阪神電車神戸滝道駅前(現在のフラワーロードと中道筋の角)にあり現在は向かい側の三宮町で営業中、まじりけなしの三代目神戸っ子三宮族だ。

●馬券売り場ビル
■元町を返せ
もちろん誇り高き元町が、泣き寝入りしたわけではない。
あわてた旦那衆は遅まきながら駅返還運動を始めた。が、あいかわらず地元政治家や有力者に任せて、自分で汗をかくことはなかったようだ。それが元町旦那のやりかただと、その後、元旦那だった者の述懐である。当然のように鉄道局の門前払いがつづく。
それではと、駅返還を新駅設置に変えて運動を再始動した。
しかしこの方策も、一キロ以内に二駅は置かない鉄道事業の原則に阻まれるが、旦那流の万策を使い、やっと特例として認めるかわりに、駅開設費用の地元負担で折り合いをつけた。約五億円という当時としては膨大な資金を集めてまで開設したのが、現在の元町駅であった。
ほとんど平行して阪神電鉄も三宮から地下鉄道を延長して元町に駅を設置。この地下駅が半世紀後に大問題発生の火種となる。
駅の移転・新設問題のあとも、元町・三宮繁華街は歴史的な苦難を迎える。阪神大水害(昭和十三年)、神戸大空襲(二十年三月、六月)、そして阪神淡路大震災(平成七年)である。
かつての元町は道路を挟んで老舗が軒を並べ西日本の消費文化はここから始まるとばかりに、ハイカラモダンの商品と店舗が全国に発信され、抜群の集客力を誇ってきた。
三越(大正十四年)、大丸(昭和二年)、そごう(八年)と、一流百貨店も神戸での初の店出しは元町商店街であった。今、その一店も残らずそれぞれ自前の立地で立派に集客し、去られた元町には昔の話題だけが残った。それでも二○○四年現在、営業年数が百年を超える老舗二十三店、未満でも老舗と呼ぶにふさわしい九十四店を擁している街なのだが……
追い討ちをかけて第二次世界大戦後の交通機関革命は、一部のレジャー客を除き旅行者を船舶から航空機へと劇的に変換させた。
海外航路の衰退で、神戸港へ徒歩十分の最短距離にあった国鉄元町駅の乗降客の激減は、当然、商店街への客足を遠のかせた。三宮から地下を延伸していた阪神元町駅も閑散となる。
打開策に駅の地上に高層ビルを建設し、中央競馬会場外馬券売り場を誘致してテナント料と鉄道収入増を考えた。
馬券売り場! 誇り高い元町商店街を揺るがす大問題である。
三宮の磯上に誘致したが地元の大反対で断念した馬券売り場が、阪神元町駅ビルに再燃したのだから、三宮と元町はよくよく因縁めいたかかわりを持つ街同士であった。
さすがの旦那衆も馬券売り場は許せないと、その後十数年におよぶ反対運動に立ち上がる。このとき闘争の前線に、三宮のSとは立場を逆にする異色の人物が登場する。
■実践と発信こそ
島田誠。
神戸で生まれ育ち、神戸高校から神戸大学の純血種神戸っ子。三菱重工(神戸)のエリートサラリーマンを経て元町商店街の老舗海文堂書店社長に就任、書店に画廊を併設して神戸文化の発信拠点とし、文化支援組織アート・エイド神戸を設立。ここまでなら旦那芸なのだが、彼は猛然と実践に走る。

●元町通三丁目にある海文堂書店
文化不毛と言われる関西で、「神戸は違うよ」と積極的に声を上げ、実践に走るのが島田の特長であり、とやかく異論ばかりを口にする『文化人』を黙らせる武器でもあった。
元町場外馬券売り場構想は、すでに七七年に発表されていたのだが、ヘルメット武装の市民と工事業者が向かい合う臨戦化したのは八四年。ここでも旦那衆はそれまでの七年間に何をしていたかの疑問が残る。
「地域住民との合意がないかぎり馬券売り場は開設しない」と農林大臣談話があるから安心だ……本気で信じたのが旦那的思考だ。
このとき初めて、老舗書店の元気者の島田が駆り出された。
以降、三年の闘争期間中には、市民エネルギーと朝比奈隆や陳舜臣たち神戸ゆかりの文化人を結集し「元町文化の伝統を守る会」「元町ルネッサンス」「シンポジウム・元町をどやしつける」ついには阪神電鉄「一株株主運動」で七十二万株を集め馬券売り場設置反対議案提出など、およそ考えられる戦略戦術のすべてを動員して闘い抜き、彼は常に闘いの最前線に立った。
が……反体制運動の常道通りに切り崩され、分裂し、蹉跌の苦渋を嫌というほど味わい、島田自身も毀誉褒貶にまみれたあげく、阪神元町駅ビルは完成する。馬券売り場が入居して、開催日には競馬新聞に赤鉛筆、くわえ煙草族の大群に一帯を占拠される光景が日常化した。

●神戸風月堂、本高砂屋、柴田洋服店、赤壁商店など老舗が並ぶ賑も四丁目あたりまでで、その西は閑散となる。
彼は九三年発刊のエッセイ集『無愛想な蝙蝠』に、闘争の推移と敗北を検証している。
……(馬券売り場設置)計画の最初の段階から、商店街レベルの話ではなく市民レベルでの取り組として、駅という公共空間を通して「街のありかたそのものを問う」という展開をしておればと、悔やまれてならない(原文のママ)……
この闘争が彼本来の資質の底に根を張り、その後の神戸文化の育成と発信に向けてすさまじいほどの行動に立ち向かわせた。しかし本人は決して肩ひじ張る気配はなく、涼しげに楽しんでいる風情なのだ。
お上からお下げいただく文化にはまず疑問の眼を向けるが、市民から持ち込まれる文化活動には、常に同じ視線に立ち可能な支援に伴走する。しかも「自分は文化の創造者ではなく、伝達者に徹する」と、まさにサポーターの足場である。
もともとは音楽を目指し、経営学を勉強して就職した一流企業では経理マンとなり、義父に口説かれて書店社長、アートへの渇望からギャラリーを開設して画家や作家と交わり、積極的に神戸文化の発信源となる。
この間、文化支援基金「亀井純子文化基金」を立ち上げて事務長を引き受けたのも、彼が提唱していた市民メセナの具体化であったからだ。「文化」というおよそ金銭に変換できない価値に、彼は夢をかけているとしか思えない。
と、ここまで書けば、中央の文化に反抗の目を向けて、いじけた地方都市的嗜逆文化論者ともとれるが、彼はきわめて自然体で現実的なのだ。だから島田を数百文字で語ることは不可能だし、無意味な内容となる。そこで常に、本人に会うことを勧めている。

●北野ハンター坂にあるギャラリー島田、神戸文化の発信拠点。
二○○○年、海文堂書店社長を辞した島田は、年来の夢を果たして北野のハンター坂にギャラリー島田を開設し、活動の拠点とした。ギャラリーを訪ねた者は心地よく迎えられ、希望により無視されて、静かな絵画鑑賞の時間を楽しめ、遠慮なしに店主島田との対話も楽しめる。
小遣いていどの会費で、アートサポートセンター神戸からメルマガや通信(ペーパー)が送られ、月一、二回の火曜サロンに招かれる。有名無名を問わず、神戸ゆかりの者、ゆかりのない者の演奏やトークを聞き、その後の割り勘ワインパーティーを楽しむ。
戦後、日本最大の闇市の中からはい出して賑の新興商店街づくりに励んだ小林正信、手早く工務店にジュラルミンを手配させて商店街を作りあげた老舗の旦那衆に歯ぎしりした元町の島田誠。二人の肌合いの違いが、そのまま三宮と元町の姿を語っているようだ。(文中敬称略)

●平日も混雑する三宮センター街のにぎわい。
第六話 了
●参考資料
あれこれと三宮(小林正信著・八六年・三宮ブックス)
無愛想な蝙蝠(島田誠著・九三年・風来舎)
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