2005
28
Nov |
■ゲーセン
洋治が予想したとおり元町方面から彼女は姿を見せた。3インチのハイヒールの踵を鳴らして、背筋も膝も伸ばした歩きようはいつ見ても颯爽としていた。
世間の厄介ごとやしがらみなどを感じさせない雰囲気を身につけているが、しかし、ただ者でない香りも発散していた。
数分はやく到着して待ち受ける洋治を認めたのだろう、笑顔が徐々にひろがり瞳が光を増した。
真っ黒で膝下より長めのカシミアポンチョをオーバーコート代わりにまとい、ひと足ごとに前裾の打ち合わせを蹴るような歩き方だから、めくれた裏地のカーマインレッドが鮮やかに踊る。多分、神戸大丸前のオートクチュールKでのオーダーだろう。
クリスマスイブのこの日の昼に、バー木犀のマダム梨華からかかった電話を、洋治は複雑な思いで受けた。
「今夜、会いたいの」
別れを告げられたのが一カ月前、それ以後、洋治はバー木犀のドアを押していない。男の身勝手と言われようと別れ際にぐずぐずするのいやだった。当然、されるのも嫌いだった。
まして梨華のほうから切り出した別れだし、彼女の性格からも割り切りがす早いと思っていただけに、会いたいという電話は意外だったので、洋治はしばらく沈黙した。
「未練たらしいと思ったの? いいわよ思われても。明後日には行ってしまうので、クリスマスイブの乾杯ぐらい、いいじゃない」
「じゃあ、いつものバーで……」
「おばかさん。そこまではしなくていいの。コーヒーの美味しいお店へ連れていってちょうだい」
いつものバーとはオリエンタルホテルのバーのことで、それぞれがルームをキープしてバーで出会う。数杯の飲み物を楽しんだ後、どちらかが相手のルームを訪ねる。それが恋の手順であった。
「コーヒーでお別れの乾杯、か。わかった、三宮センター街で話題の店がある。東のそごう百貨店側からきたら京町筋に出るまでの浜側に、ゲーセンて店がある」

▲開店当初の三宮 ”G線”の外観。一九五二年ころ。(写真提供:「G線」梅崎明彦氏)
「なに? ゲーセンて。へんな名前の店ね」
「あ、ごめん。店の名はアルファベットのGに、阪急神戸線や東海道線の線という漢字。ジーセンと読ませるんだが、通は粋がって……」
ゲーセンと言おうとしたら、彼女の声がかぶさってきた。
「なんだ、バッハの『G線上のアリア』でしょう。あたしだってあの曲ぐらい知ってるわよ。元タカラズカの落第生だから」
うふふと笑う梨華の声が、しばらく受話器から流れた。
洋治は店の表で立っていると告げて、その夜の出会いを約束した。たしかに二人どちらにも未練があった。明後日には東京に旅立ち結婚する梨華である。
このひと月で彼女がマダムのトアロードのバー木犀を整理できたようだ。いい客がついている静かな店で、流れる時間を惜しみ飲み物の味を惜しみ、マダムやバーテンダーとの会話を惜しむ。
人生の余韻を楽しみ惜しむ雰囲気だから、三十歳代中ごろの洋治は若造として静かに控えていた。それでも十分に楽しい店だった。
マダム梨華と相愛になって三年、東京の財界人から結婚を申し込まれた梨華が人生の転針を決めて、洋治に別れを告げたのが先月だったのだ。
靴音が近づき笑顔が広がる。ポンチョの前が大きく広げられ、やや細めの体にフィットしたニットの真っ白なタートルネックワンピースがボディーラインを描いて見せる。大きくはないがバストの膨らみがかえって魅惑的に眼を引きつけた。
自分で道を切り開く意志が黒に、自らを高める情熱がカーマインレッド、可愛い女への願望を白に……さらにクリスマスを象徴した三色のコーディネートだなと、洋治は見てとった。
決して派手ではないがいつもながら意表をつく姿に、微笑みで声をかけようとしたとき、裏地のカーマインレッドが洋治の視覚に大きく踊るようにひるがえり体ごと包み込まれた。ポンチョの中にため込んだ温かさが、彼女の香りをたち昇らせた。
彼女の左腕が洋治の腰をしっかりたぐり寄せ、右手が思わぬところに伸びてとらえられた。洋治が思わず腰を引こうとしたが、計算ずみのように彼女の左腕に力が込められる。ドレープたっぷりのポンチョが二人の姿も行為も隠していた。
「……なに?」別れたくない、と、洋治には聞こえた。
「なんでもないわよ。あたしのこと忘れないでね」と、まるで手や体の動きとは無関係のように、梨華は平然と言葉を出していた。
二人の周囲を人の波が流れていた。さすがに時間が早いせいか酔っぱらいはいない。帰宅途中の男たちは一様にクリスマスケーキの箱を手に、家族連れはサービスで提供されたサンタ帽を子供にかぶせ、外国人たちはこの国のクリスマスの異様な盛り上がりに好奇の目つきで笑っていた。誰一人としてポンチョの中の二人のたわむれを知るものはなく、人波は二人の両側を流れていた。
意識に反して驚くばかり早く反応してしまったことに、やや憮然とした洋治の心をくすぐるように「忘れないでね」と彼女は耳元で繰り返した。
やがて「あたしも忘れないわ」と、自分に言い聞かせた彼女は洋治の始末を終えて、区切りをつけるように彼をポンチョの外に押しやった。
日本の『喫茶店』は多分、世界でも例の少ない商業店舗ではないかな。店舗の面積や雰囲気づくり、コーヒー一杯の値段など、どれとして世界に類似の店はないだろうね、と。
喫茶G線のテーブルに落ち着いた二人は、つい先ほどの行為などまるでなかったように向かい合い、「なんてモダンなお店なの」という梨華の歓声に答えるように、洋治は話し始めた。

▲開店五、六年後の店内。訪れたシャンソンの女王グレコが「ボンサンス!」と驚いたと女性誌が報じた。(写真提供:「G線」梅崎明彦氏)
コーヒーがわが国では独立した商品として、喫茶店と言う堂々の店構えで売られるようになったのは、原料のコーヒー豆の登場と関係がある。豆の原産地で最も馴染み深いのがブラジルであり、神戸はブラジル移民の送り出し都市。移民事業に情熱を捧げた政治家に感謝のしるしとしてサンパウロ市から、コーヒー豆を大正元年から十数年間無償提供されたのがきっかけで、全国にコーヒ―喫飲のための店出しが進められ喫茶店と名付けられた。神戸を本拠とする「パウリスタ」が喫茶店の創始だと言われている。
洋治の解説に、対面して座った梨華が目を細めた。
「なんだ、聞いているの?」洋治が眉をしかめた。
「聞いているわよ。でもそのお話で、つい、大阪の喫茶店を思い出したわ」
「どこの店?」と洋治が聞き返すと、「春風堂よ、知っている?」と、梨華も問い返した。
「あのお店は戦後の大阪で一番早い本格的な喫茶店。心斎橋筋の南端で、戎橋にかかる一筋手前の西角にあってね。ほんまに戦後復興のシンボルのように明るいお店やったわ。コーヒーも本格的な香りがしてたけど、それでもあれは進駐軍の出がらしを引き取ってきて再度焙煎したものやと……貿易再開前やからPX(進駐軍専用売店)から横流れの闇商品か、軍のキャンプの食堂の出がらしでなければ、日本にコーヒーがあるはずないでしょう。出がらしでも美味しかったわ。でも、戦争に負けるって悲しいことね」
彼女の目は一向に悲しんではいない。このあたりの思考回路の流れと結論の出し方が、洋治には楽しかった。
春風堂で毎日コーヒーを飲める身分になりたいと、南のバーの下働きだった彼女は、毎日、横目で喫茶店をにらみながら通ったという。進駐軍の出がらしのコーヒーでさえ、何とか再起しなければと敗戦国民の心を刺激する元になっていたのだ。
「戦後、神戸の闇市の屋台でカストリと同居したコーヒーは別として、一応、喫茶店として開いたのは宝塚歌劇のスターの『からかさ』、画家が開いた『アカネ』、阪急西口の『てつ』、高架下『コロンビア』『フロインド』と、四八年あたりから開店がつづき、カタカナ店名が三宮や元町の繁華街を埋めつくした」いずれも自家焙煎やサイフォン使用などとコーヒーの味にこだわった。
戦後七年目の一九五二年、神戸の喫茶店業界ばかりでなく建設業界や商業美術界に大きな衝撃をもたらす店が三宮に登場した。
この当時はまだデザイナーという言葉が一般的でなく商業美術家と呼ばれ、コピーライターは広告文案家と呼んでいた時代。世間は店名に首をかしげて、やがて驚いた。喫茶店らしくないのだ。
その店は『”G”線』と書いて『ジ-セン』と読ませた。
バッハの名曲「G線上のアリア」がアイデアのソースだろうが、美しい旋律に対峙するようにインテリアデザインが強烈な奔放さを見せて目を引きつけ、その奔放はメニュー、パッケージ、ナプキンやコースターなどの小物にも踊っていた。コーヒーの味ばかりか、雰囲気も一体とした喫茶環境のアピールだ。

▲クッキーの缶とラッピングペーパー。早川良雄のデザインワールドが踊る。
グラフィックデザイナー早川良雄の名を一挙に広めたばかりか、閉鎖的で排他的な建築・土建業界にデザイナーが乗り込んだ初仕事として注目を浴びた。商業店舗は頭が柔軟で、建築のように法律上の肩書きや資格など不要な商業美術の世界に任せた方が素晴らしいものが発想されるじゃないかと、デザインという世界への認識が一挙に高まった。
いくらか建築界にかかわりのあった洋治は、店内の壁に驚いた。従来の喫茶店イメージからは考えられないクロームイエローの強い色彩。しかも資材に使っているのはどうやら市販で出始めたばかりの床材のビニールタイルのようだ。
用途にこだわらない自由な発想は、建築界のものではなくデザイナーの世界のものだと思った。
「そんなにすごい事なのね。あなたがそこまで言うのなら」
梨華はため息をついた。「せっかく今夜は道路の真ん中で、とんでもないことをしたのに。あなたという男は、あたしよりこのお店のほうに心を奪われているのね。このお水をかけてやろうかな」と、目の前でコーヒーと並んだグラスに手を伸ばした。
「ごめんごめん。そんなつもりではないよ。……でも、さっきは驚いた」
「よかった? あたしは素敵でした、でも驚いたやろね。あなたの姿が見えると、急にあなたを食べたくなったのよ、ごめんね」
■歳月三十年
「お元気でね。あたしを忘れないでね」と、彼女はコーヒーカップを目の高さに掲げた。
「僕のほうこそ、思い出をありがとう。マダムも、いや梨華さんもお元気で」洋治もカップを掲げて、そっと打ち合わせた。店の女の子が笑った。クリスマスですからね、と笑顔が語っていた。
「お願いがあるの、いま思いついたのだけど聞いてくれる?」
割り切りの早い梨華には、めずらしく後を引く言葉。
「三十年後のクリスマスイブに、ここで会わない? 無理はしないで、こられたら会いに来る。だってあたしすごいお婆ちゃんになってしまったら会うの嫌だから。ね、そうしょう」
洋治は微笑んだ。あなたは三十年後もきっと変わっていないよねと言葉にしたら、「嬉しいこと言わないで」と彼女は心から喜びの声を上げた。

▲三宮”G線”はこのあたりだった。
三十年後の一九九八年。阪神淡路大震災三年後の三宮センター街に、G線の姿はない。被災して全壊し、それ以前に開店した新神戸駅近くの布引店の一店だけの営業になっていた。
それでも九八年のクリスマスイブに、洋治は三宮センター街のG線があった跡地の前で一時間を過ごした。梨華のことだから元気ならきっと現れるにちがいないと、熱い思いも混じる心に言い聞かせて立ちつくした。何事も起こらずに時間が流れた。
神戸が地震で壊滅して三年、まだ荒廃の匂いが立ちこめていたが、流れる人の波にはあの敗戦後に満ちていた虚脱の臭気はない。
豊かになったのだと、わずか数年の付き合いだったが、梨華と出会い、そして別れた三十数年前を思い返していた。
奔放な生きざまを見せた女性だった。戦後の「女性解放」などのお題目以前に、自分の知恵と汗で底辺から……大連生まれのお嬢様が引き揚げてきて、三宮のジャン市(闇市)のカストリ屋から大阪ミナミの闇バーの下働の女給……這い上がってきた自信と、いつも可愛い女でありたいと願う心と行動を見せる。梨華は不思議で楽しい女性だった。
あの日から三十年という歳月が流れていた。
震災の鎮魂イベントとされたルミナリエへの人波が神戸大丸方向へ、途切れずにつづいている。今年の光のページェントもまもなく終わるのだ。
人波の服装はほとんどが震災ルックと呼ばれたダウンの半コートにキャップとスニーカー、マスクに軍手姿だが、街なみは仮設建築から本建築へと急速に変貌をとげていた。
跡地で一時間を過ごした洋治は、いまは一店となったG線布引店に足を向けた。
繁華街から離れているせいか、イブだというのに店は空いている。ただ店頭のケーキ売り場はクリスマスケーキの買い物客で混雑している。
……もし何かメッセージが届いたら、お知らせください……と、梨華の名と自分の住所・電話番号のメモを、レジ係に渡して店を出た。
梨華との思い出にエンドマークをつけ、年が暮れ、明けた。
年末から新年への喧騒も過ぎた。神戸市中心のビジネスビルや商業施設復興にめどがついたので、今年は住宅地域の本格的復興だとマスコミが報じている。

▲現在の”G線”布引店。
二月末に一個の宅配便が洋治に届いた。
包装を開くとG線の華やかなクッキーのパッケージが現れた。
早川良雄独特のデザインワールドが手元で広がった。
贈物を受ける心当たりがなく、誰だろうかと開くと……一本のCDカセットとメモが出てきた。メモはG線からのものだった。
あなたにお渡しして欲しいと、震災直後の二月に、三宮店を閉鎖していたので布引店まで転送されてきたカセットです。昨年末がお約束をされた年だそうですが、あの震災ですから果たしてあなたがご無事かどうかも分からないままに過ぎました。
年末に布引店においでになったときはクリスマスの忙しさで保管場所も忘れていてお渡しできずに申し訳ありません。送り主の方にもお詫びを申し上げて下さい。当店の名物の『G線神戸サブレ』をご賞味ください。お暇ができましたらまた布引店のコーヒ―をぜひ。お待ち申し上げております。と、記されていた。

▲布引店の外壁にはめ込まれたレリーフ。
声が飛び出した。出だしはほとんど涙声だった。
……洋治さん大丈夫? 震災大丈夫だった? このテープを聞いてもらえると信じて録音しています。あたし今、北京にいるのよ。中国の北京よ。北京でサロンやってるの。一九八七年から来てるのよ。頼まれてね中国の偉い人から、こちら日本人が増えるのにその方達の憩いの場がないのね。中国は日本の技術や援助が欲しいのだけれど、まだ改革開放は十分ではない頃でしたからね。
ちょうどサロンを開いた翌年に天安門事件でした。すごかったわよ。やっと落ち着いてお店も繁盛してきたので、約束の年に約束の『ゲーセン』に行くわよと、決めていたのに……震災で神戸が、あたしの好きな神戸が……すぐに帰ろうと思ったのよ。
洋治さんのお見舞いと神戸のお見舞いに。ところがよく考えたらあたしあなたの住所も知らない。あなたとのつながりは昔のあなたの会社の電話番号と三宮ゲーセンだけなのね。電話かけても昔の番号ではかからないのよ。
泣いたわよ、ほんまに。せめて無事かどうかぐらい知りたいし。だから最期の一手はゲーセンさんにお願いするしかなくて。このテープをゲーセンに送ります。約束の年にはまだ早いけど心配だから、あなたに届きますようにとお祈りしながら録音したの。
結婚十年後に主人が先立ちました。あたしは三十年後の約束があるでしょう。お婆さんになれないじゃないの。そこでまたお店を銀座で始めたら、機械会社の社長といっしょに来ていた中国の偉い人から、北京でお店を出すお誘いをいただき……。
●参考資料
・あれこれと三宮……小林正信
・早川良雄の世界……大阪市立近代美術館コレクション展実行委員会
洋治が予想したとおり元町方面から彼女は姿を見せた。3インチのハイヒールの踵を鳴らして、背筋も膝も伸ばした歩きようはいつ見ても颯爽としていた。
世間の厄介ごとやしがらみなどを感じさせない雰囲気を身につけているが、しかし、ただ者でない香りも発散していた。
数分はやく到着して待ち受ける洋治を認めたのだろう、笑顔が徐々にひろがり瞳が光を増した。
真っ黒で膝下より長めのカシミアポンチョをオーバーコート代わりにまとい、ひと足ごとに前裾の打ち合わせを蹴るような歩き方だから、めくれた裏地のカーマインレッドが鮮やかに踊る。多分、神戸大丸前のオートクチュールKでのオーダーだろう。
クリスマスイブのこの日の昼に、バー木犀のマダム梨華からかかった電話を、洋治は複雑な思いで受けた。
「今夜、会いたいの」
別れを告げられたのが一カ月前、それ以後、洋治はバー木犀のドアを押していない。男の身勝手と言われようと別れ際にぐずぐずするのいやだった。当然、されるのも嫌いだった。
まして梨華のほうから切り出した別れだし、彼女の性格からも割り切りがす早いと思っていただけに、会いたいという電話は意外だったので、洋治はしばらく沈黙した。
「未練たらしいと思ったの? いいわよ思われても。明後日には行ってしまうので、クリスマスイブの乾杯ぐらい、いいじゃない」
「じゃあ、いつものバーで……」
「おばかさん。そこまではしなくていいの。コーヒーの美味しいお店へ連れていってちょうだい」
いつものバーとはオリエンタルホテルのバーのことで、それぞれがルームをキープしてバーで出会う。数杯の飲み物を楽しんだ後、どちらかが相手のルームを訪ねる。それが恋の手順であった。
「コーヒーでお別れの乾杯、か。わかった、三宮センター街で話題の店がある。東のそごう百貨店側からきたら京町筋に出るまでの浜側に、ゲーセンて店がある」

▲開店当初の三宮 ”G線”の外観。一九五二年ころ。(写真提供:「G線」梅崎明彦氏)
「なに? ゲーセンて。へんな名前の店ね」
「あ、ごめん。店の名はアルファベットのGに、阪急神戸線や東海道線の線という漢字。ジーセンと読ませるんだが、通は粋がって……」
ゲーセンと言おうとしたら、彼女の声がかぶさってきた。
「なんだ、バッハの『G線上のアリア』でしょう。あたしだってあの曲ぐらい知ってるわよ。元タカラズカの落第生だから」
うふふと笑う梨華の声が、しばらく受話器から流れた。
洋治は店の表で立っていると告げて、その夜の出会いを約束した。たしかに二人どちらにも未練があった。明後日には東京に旅立ち結婚する梨華である。
このひと月で彼女がマダムのトアロードのバー木犀を整理できたようだ。いい客がついている静かな店で、流れる時間を惜しみ飲み物の味を惜しみ、マダムやバーテンダーとの会話を惜しむ。
人生の余韻を楽しみ惜しむ雰囲気だから、三十歳代中ごろの洋治は若造として静かに控えていた。それでも十分に楽しい店だった。
マダム梨華と相愛になって三年、東京の財界人から結婚を申し込まれた梨華が人生の転針を決めて、洋治に別れを告げたのが先月だったのだ。
靴音が近づき笑顔が広がる。ポンチョの前が大きく広げられ、やや細めの体にフィットしたニットの真っ白なタートルネックワンピースがボディーラインを描いて見せる。大きくはないがバストの膨らみがかえって魅惑的に眼を引きつけた。
自分で道を切り開く意志が黒に、自らを高める情熱がカーマインレッド、可愛い女への願望を白に……さらにクリスマスを象徴した三色のコーディネートだなと、洋治は見てとった。
決して派手ではないがいつもながら意表をつく姿に、微笑みで声をかけようとしたとき、裏地のカーマインレッドが洋治の視覚に大きく踊るようにひるがえり体ごと包み込まれた。ポンチョの中にため込んだ温かさが、彼女の香りをたち昇らせた。
彼女の左腕が洋治の腰をしっかりたぐり寄せ、右手が思わぬところに伸びてとらえられた。洋治が思わず腰を引こうとしたが、計算ずみのように彼女の左腕に力が込められる。ドレープたっぷりのポンチョが二人の姿も行為も隠していた。
「……なに?」別れたくない、と、洋治には聞こえた。
「なんでもないわよ。あたしのこと忘れないでね」と、まるで手や体の動きとは無関係のように、梨華は平然と言葉を出していた。
二人の周囲を人の波が流れていた。さすがに時間が早いせいか酔っぱらいはいない。帰宅途中の男たちは一様にクリスマスケーキの箱を手に、家族連れはサービスで提供されたサンタ帽を子供にかぶせ、外国人たちはこの国のクリスマスの異様な盛り上がりに好奇の目つきで笑っていた。誰一人としてポンチョの中の二人のたわむれを知るものはなく、人波は二人の両側を流れていた。
意識に反して驚くばかり早く反応してしまったことに、やや憮然とした洋治の心をくすぐるように「忘れないでね」と彼女は耳元で繰り返した。
やがて「あたしも忘れないわ」と、自分に言い聞かせた彼女は洋治の始末を終えて、区切りをつけるように彼をポンチョの外に押しやった。
日本の『喫茶店』は多分、世界でも例の少ない商業店舗ではないかな。店舗の面積や雰囲気づくり、コーヒー一杯の値段など、どれとして世界に類似の店はないだろうね、と。
喫茶G線のテーブルに落ち着いた二人は、つい先ほどの行為などまるでなかったように向かい合い、「なんてモダンなお店なの」という梨華の歓声に答えるように、洋治は話し始めた。

▲開店五、六年後の店内。訪れたシャンソンの女王グレコが「ボンサンス!」と驚いたと女性誌が報じた。(写真提供:「G線」梅崎明彦氏)
コーヒーがわが国では独立した商品として、喫茶店と言う堂々の店構えで売られるようになったのは、原料のコーヒー豆の登場と関係がある。豆の原産地で最も馴染み深いのがブラジルであり、神戸はブラジル移民の送り出し都市。移民事業に情熱を捧げた政治家に感謝のしるしとしてサンパウロ市から、コーヒー豆を大正元年から十数年間無償提供されたのがきっかけで、全国にコーヒ―喫飲のための店出しが進められ喫茶店と名付けられた。神戸を本拠とする「パウリスタ」が喫茶店の創始だと言われている。
洋治の解説に、対面して座った梨華が目を細めた。
「なんだ、聞いているの?」洋治が眉をしかめた。
「聞いているわよ。でもそのお話で、つい、大阪の喫茶店を思い出したわ」
「どこの店?」と洋治が聞き返すと、「春風堂よ、知っている?」と、梨華も問い返した。
「あのお店は戦後の大阪で一番早い本格的な喫茶店。心斎橋筋の南端で、戎橋にかかる一筋手前の西角にあってね。ほんまに戦後復興のシンボルのように明るいお店やったわ。コーヒーも本格的な香りがしてたけど、それでもあれは進駐軍の出がらしを引き取ってきて再度焙煎したものやと……貿易再開前やからPX(進駐軍専用売店)から横流れの闇商品か、軍のキャンプの食堂の出がらしでなければ、日本にコーヒーがあるはずないでしょう。出がらしでも美味しかったわ。でも、戦争に負けるって悲しいことね」
彼女の目は一向に悲しんではいない。このあたりの思考回路の流れと結論の出し方が、洋治には楽しかった。
春風堂で毎日コーヒーを飲める身分になりたいと、南のバーの下働きだった彼女は、毎日、横目で喫茶店をにらみながら通ったという。進駐軍の出がらしのコーヒーでさえ、何とか再起しなければと敗戦国民の心を刺激する元になっていたのだ。
「戦後、神戸の闇市の屋台でカストリと同居したコーヒーは別として、一応、喫茶店として開いたのは宝塚歌劇のスターの『からかさ』、画家が開いた『アカネ』、阪急西口の『てつ』、高架下『コロンビア』『フロインド』と、四八年あたりから開店がつづき、カタカナ店名が三宮や元町の繁華街を埋めつくした」いずれも自家焙煎やサイフォン使用などとコーヒーの味にこだわった。
戦後七年目の一九五二年、神戸の喫茶店業界ばかりでなく建設業界や商業美術界に大きな衝撃をもたらす店が三宮に登場した。
この当時はまだデザイナーという言葉が一般的でなく商業美術家と呼ばれ、コピーライターは広告文案家と呼んでいた時代。世間は店名に首をかしげて、やがて驚いた。喫茶店らしくないのだ。
その店は『”G”線』と書いて『ジ-セン』と読ませた。
バッハの名曲「G線上のアリア」がアイデアのソースだろうが、美しい旋律に対峙するようにインテリアデザインが強烈な奔放さを見せて目を引きつけ、その奔放はメニュー、パッケージ、ナプキンやコースターなどの小物にも踊っていた。コーヒーの味ばかりか、雰囲気も一体とした喫茶環境のアピールだ。

▲クッキーの缶とラッピングペーパー。早川良雄のデザインワールドが踊る。
グラフィックデザイナー早川良雄の名を一挙に広めたばかりか、閉鎖的で排他的な建築・土建業界にデザイナーが乗り込んだ初仕事として注目を浴びた。商業店舗は頭が柔軟で、建築のように法律上の肩書きや資格など不要な商業美術の世界に任せた方が素晴らしいものが発想されるじゃないかと、デザインという世界への認識が一挙に高まった。
いくらか建築界にかかわりのあった洋治は、店内の壁に驚いた。従来の喫茶店イメージからは考えられないクロームイエローの強い色彩。しかも資材に使っているのはどうやら市販で出始めたばかりの床材のビニールタイルのようだ。
用途にこだわらない自由な発想は、建築界のものではなくデザイナーの世界のものだと思った。
「そんなにすごい事なのね。あなたがそこまで言うのなら」
梨華はため息をついた。「せっかく今夜は道路の真ん中で、とんでもないことをしたのに。あなたという男は、あたしよりこのお店のほうに心を奪われているのね。このお水をかけてやろうかな」と、目の前でコーヒーと並んだグラスに手を伸ばした。
「ごめんごめん。そんなつもりではないよ。……でも、さっきは驚いた」
「よかった? あたしは素敵でした、でも驚いたやろね。あなたの姿が見えると、急にあなたを食べたくなったのよ、ごめんね」
■歳月三十年
「お元気でね。あたしを忘れないでね」と、彼女はコーヒーカップを目の高さに掲げた。
「僕のほうこそ、思い出をありがとう。マダムも、いや梨華さんもお元気で」洋治もカップを掲げて、そっと打ち合わせた。店の女の子が笑った。クリスマスですからね、と笑顔が語っていた。
「お願いがあるの、いま思いついたのだけど聞いてくれる?」
割り切りの早い梨華には、めずらしく後を引く言葉。
「三十年後のクリスマスイブに、ここで会わない? 無理はしないで、こられたら会いに来る。だってあたしすごいお婆ちゃんになってしまったら会うの嫌だから。ね、そうしょう」
洋治は微笑んだ。あなたは三十年後もきっと変わっていないよねと言葉にしたら、「嬉しいこと言わないで」と彼女は心から喜びの声を上げた。

▲三宮”G線”はこのあたりだった。
三十年後の一九九八年。阪神淡路大震災三年後の三宮センター街に、G線の姿はない。被災して全壊し、それ以前に開店した新神戸駅近くの布引店の一店だけの営業になっていた。
それでも九八年のクリスマスイブに、洋治は三宮センター街のG線があった跡地の前で一時間を過ごした。梨華のことだから元気ならきっと現れるにちがいないと、熱い思いも混じる心に言い聞かせて立ちつくした。何事も起こらずに時間が流れた。
神戸が地震で壊滅して三年、まだ荒廃の匂いが立ちこめていたが、流れる人の波にはあの敗戦後に満ちていた虚脱の臭気はない。
豊かになったのだと、わずか数年の付き合いだったが、梨華と出会い、そして別れた三十数年前を思い返していた。
奔放な生きざまを見せた女性だった。戦後の「女性解放」などのお題目以前に、自分の知恵と汗で底辺から……大連生まれのお嬢様が引き揚げてきて、三宮のジャン市(闇市)のカストリ屋から大阪ミナミの闇バーの下働の女給……這い上がってきた自信と、いつも可愛い女でありたいと願う心と行動を見せる。梨華は不思議で楽しい女性だった。
あの日から三十年という歳月が流れていた。
震災の鎮魂イベントとされたルミナリエへの人波が神戸大丸方向へ、途切れずにつづいている。今年の光のページェントもまもなく終わるのだ。
人波の服装はほとんどが震災ルックと呼ばれたダウンの半コートにキャップとスニーカー、マスクに軍手姿だが、街なみは仮設建築から本建築へと急速に変貌をとげていた。
跡地で一時間を過ごした洋治は、いまは一店となったG線布引店に足を向けた。
繁華街から離れているせいか、イブだというのに店は空いている。ただ店頭のケーキ売り場はクリスマスケーキの買い物客で混雑している。
……もし何かメッセージが届いたら、お知らせください……と、梨華の名と自分の住所・電話番号のメモを、レジ係に渡して店を出た。
梨華との思い出にエンドマークをつけ、年が暮れ、明けた。
年末から新年への喧騒も過ぎた。神戸市中心のビジネスビルや商業施設復興にめどがついたので、今年は住宅地域の本格的復興だとマスコミが報じている。

▲現在の”G線”布引店。
二月末に一個の宅配便が洋治に届いた。
包装を開くとG線の華やかなクッキーのパッケージが現れた。
早川良雄独特のデザインワールドが手元で広がった。
贈物を受ける心当たりがなく、誰だろうかと開くと……一本のCDカセットとメモが出てきた。メモはG線からのものだった。
あなたにお渡しして欲しいと、震災直後の二月に、三宮店を閉鎖していたので布引店まで転送されてきたカセットです。昨年末がお約束をされた年だそうですが、あの震災ですから果たしてあなたがご無事かどうかも分からないままに過ぎました。
年末に布引店においでになったときはクリスマスの忙しさで保管場所も忘れていてお渡しできずに申し訳ありません。送り主の方にもお詫びを申し上げて下さい。当店の名物の『G線神戸サブレ』をご賞味ください。お暇ができましたらまた布引店のコーヒ―をぜひ。お待ち申し上げております。と、記されていた。

▲布引店の外壁にはめ込まれたレリーフ。
声が飛び出した。出だしはほとんど涙声だった。
……洋治さん大丈夫? 震災大丈夫だった? このテープを聞いてもらえると信じて録音しています。あたし今、北京にいるのよ。中国の北京よ。北京でサロンやってるの。一九八七年から来てるのよ。頼まれてね中国の偉い人から、こちら日本人が増えるのにその方達の憩いの場がないのね。中国は日本の技術や援助が欲しいのだけれど、まだ改革開放は十分ではない頃でしたからね。
ちょうどサロンを開いた翌年に天安門事件でした。すごかったわよ。やっと落ち着いてお店も繁盛してきたので、約束の年に約束の『ゲーセン』に行くわよと、決めていたのに……震災で神戸が、あたしの好きな神戸が……すぐに帰ろうと思ったのよ。
洋治さんのお見舞いと神戸のお見舞いに。ところがよく考えたらあたしあなたの住所も知らない。あなたとのつながりは昔のあなたの会社の電話番号と三宮ゲーセンだけなのね。電話かけても昔の番号ではかからないのよ。
泣いたわよ、ほんまに。せめて無事かどうかぐらい知りたいし。だから最期の一手はゲーセンさんにお願いするしかなくて。このテープをゲーセンに送ります。約束の年にはまだ早いけど心配だから、あなたに届きますようにとお祈りしながら録音したの。
結婚十年後に主人が先立ちました。あたしは三十年後の約束があるでしょう。お婆さんになれないじゃないの。そこでまたお店を銀座で始めたら、機械会社の社長といっしょに来ていた中国の偉い人から、北京でお店を出すお誘いをいただき……。
第八話 了
●参考資料
・あれこれと三宮……小林正信
・早川良雄の世界……大阪市立近代美術館コレクション展実行委員会
day:1
week:10
total:3234(since 09/may/2005 15:00)
Comments
???
過去に女の人を殴り目の上を五針縫う怪我をさせておきながら謝罪なし。なんてご立派な企画部長さん。
G線ってこんな人が跡継ぎなんだ・・・。
先代もかなりの悪評だし。
もう少し色々調べて事件の事も是非小説に!!!
on 07/02/06 at 20:31:PM






