コメントありがとうございます - ぼくたちの空とポポの木 by まつざわなおき マチともの語り-地域・物語り・短編小説
2005
19
Aug
Posted by 松沢直樹 on 05:41 / Category : diary
松下さま、コメントありがとうございます。

今回の作品だけでなく、拙著「埋もれ行く恋」もご覧いただいたそうで大変恐縮です。
他の作家さんに比べて遅筆なもので、ピッチをあげて書くのは、今後の課題ですね。プロットはたくさん書きためているのですが(ただ単になまけものだという説が^^;  うう、いかんですな。)

長崎の原爆は、北九州出身の私にとっても、決して他人事ではありません。
もともと、長崎に投下された原爆の投下目標は北九州の小倉でした。

たまたま、昭和20年8月9日の小倉の空は暗雲がたちこめて攻撃目標を目視できなかったため、当日になって急遽攻撃目標が長崎に変更されたそうです。

僕の生まれる二十三年前、僕の両親が、この物語りの主人公の子ども達と同じくらい幼かった日。
昭和二十年八月九日の小倉の空が、もし晴れ渡っていたら……

僕は間違いなく、この世に生まれてくることができなかったでしょう。

長崎に投下されたプルトニウム型原爆は、理論上、広島に投下されたウラン型原爆の約2倍の破壊力があると言われていました。
もし予定通り小倉に投下されたとしたら、小倉は長崎と違って全くの平地ですので、長崎とは比較できないほどの破壊と犠牲者をもたらしたでしょう。

(皮肉にも、広島型原爆よりも強力な原爆を投下されたにもかかわらず、長崎は、地形上多少起伏がある影響で、熱線や放射線が遮蔽されて広島よりも被害が少なくてすんだと言われています)

ちなみに、その前日の八月八日は、八幡市や戸畑市(※)が米軍の焼夷弾による徹底的な空爆で焼き払われてしまうという惨劇が起きました。そのことを考えると、私がこの世に生まれてこれたのは、宝くじの一等に当選するくらいの低い確率といっても過言ではないと思います。

(※当時は北九州市という市はなく、門司、戸畑、八幡、若松、小倉などは別個の市でした。これらは昭和38年2月10日に対等の立場で合併することを5市が合意し、世界初の5市合併、九州発の政令指定都市として注目を集めました。ちなみに、北九州市という名称は、市民の公募によって決められたもので、現在でも日本各地の都市合併の際に、名称の決定で問題が必ず起きる現状を見ると、当時としては極めて斬新で、民主的かつリベラルなものだったと言えます)

そのような中、この世に生まれてくることができたことを、「幸運」とか「運命」という言葉で語るのは、あまりにも悲しいですよね。

僕が子どものころは、8/9になると、北九州市のあちこちで、長崎の方へ向いて、原爆で亡くなられた方の冥福を祈るセレモニーが存在していました。

おそらく、いつ命を落とすかわからない厳しい戦争をリアルタイムに経験された世代の方は、生き残ることができたという喜びの気持ちの反面、長崎の方たちが自分たちの身代わりになってしまったという、自分を責める複雑な心境があったのでしょう。

鎮痛な面持ちで、8/9の午前11:02を迎える大人の方が多かったことを、今も記憶しています。

広島においても長崎においても、原爆は、すさまじいまでの惨劇をもたらしました。

さらに悲しいことに、私たちの社会は、戦後長い時代にわたって、被爆された方や、そのご子息を、あたたかく迎え、いたわるどころか、社会的な理解を示そうとせず、冷たく突き放してきました。

ここではその詳細にふれませんが、私が学生だった十数年前までは、そのような空気が厳然として存在していました。いわれのない猛烈な社会の逆風が吹く中、なすすべもなく失望していく友人達を何人も見てきました。

心から愛していた友人達に、手を差し伸べることすらできず、自分の無力を悔いたことも一度や二度ではありません。

社会に対して何の力も持たない若い人がなす術もなく、未来を夢見ることすら失われてしまう時代がもう二度と来て欲しくないと思っています。

この物語を執筆するにあたって、多くの方から僕の個人サイトのメールアドレスに「原爆の被害について詳細な記述がほしい」というご意見をいただきました。

戦争の悲惨な記憶が風化しはじめている現在、戦争を経験された方の子どもだった私の世代が伝えなければいけない「事実」や「怒り」はたくさんあると思います。

私自身、民間人や自国の捕虜があきらかに犠牲になることを知っていながら、原爆の投下命令を下した当時の米国のトルーマン大統領をはじめ、米軍の首脳部が、国際法にのっとった法的責任や人道的な責任が追及されていないのは、決して納得できません。
(広島には、捕虜収容所があり、原爆の投下によって米国の兵士が犠牲になることを米国政府や米軍の首脳陣は知っていました)

また第二次大戦後、ベトナム戦争や湾岸戦争やイラク戦争などといった自国の国益だけを重視して戦争を続けるアメリカ政府のあり方を、私は決して容認するつもりはありません。

ですが、それは「国家」という集団の問題であり、そこで暮らす人たち個人個人に対して追求される問題ではないと考えています。

原爆についても全く同じことが言えると思います。

悲惨な事実を追い、ただ単に被害者や加害者としての面を綴るだけでは、人と人が殺し合う「戦争」という問題の本質を問うことは決してできないと考えています。

広島に原爆を投下したB29爆撃機「エノラ・ゲイ」のキャプテンだったポール・ティベッツ大佐をはじめ、クルーの方たち、そして原爆の開発に携わった多くの科学者の方たちは、現在でも「原爆が戦争を早く終結させることに大きく寄与した」としきりに主張しておられます。

私たち日本人としては、決して承伏できない意見ですが、その傲慢とも思える意見の影に、多くの苦悩があったことはあまり知られていません。

第二次大戦終結時は、戦争終結に大きく寄与した英雄として国家から祭り上げられたかと思うと、戦後一転して、彼らは一部のアメリカ国民から大量殺戮を行ったとして人道的な責任を問われるようになり現在に至っています。

軍隊に属する以上、上官の命令は絶対ですし、個人が思想を述べ、それを実践することは決して許されません。
彼らもまた「国家」という集団から自由を奪われた犠牲者だと言えると思います。

このような意見を述べると、必ず「きれいごと」だという反論をいただくのですが、もし自分が彼らと同じ立場に立たされたらどうでしょうか?

もし私が彼らと同じ立場に立たされ、国家の命令に従っただけで殺人者よばわりされるようになったとしたら、私は自分のしたことを正当化することで、自分のアイデンティティを保つことに必死になるでしょう。

そうでもしなければ、良心の呵責に苛まれて死ぬよりも辛い苦しみを、命がある限り味わうことになるでしょうから。

私はけっして彼らを責める気にはなれませんし、彼らをただ責める意見だけを述べる方にも共感できません。

原爆を開発した方も同様です。
原爆の開発に携わったオッぺンハイマー博士や理論を提供されたアインシュタイン博士は、「日本人は、戦時中ナチスの迫害からユダヤ人を世界で唯一守ってくれたのに、我々はその愛情に応えるどころか、自分の手を血で染め、多くの大恩のある日本の方たちを殺してしまった」と、戦後ノーベル賞を受賞した湯川博士や日本人科学者に対して、自らの心情を告白しておられます。

ナチスドイツの迫害を逃れるため、ヨーロッパからアメリカへ亡命するために、日本の通過ビザを求めるユダヤ人に、独自の判断でビザを発給したリトアニアに赴任していた外交官「杉原千敏」氏の話は多くの方が知るところとなりました。
実はその他にも、多くの日本人が同盟国であったナチスドイツの政策に反発し、人としての愛情を忘れることなく、多くのユダヤの方を救ったことは知られていません。
ユダヤ人亡命者を、独自の判断で満州国にかくまい保護した樋口季一郎少将や、着のみ着のままで日本にたどりついたユダヤ人たちをあたたかく迎えた福井県敦賀市の市民の方たち。
アメリカへ出発するために横浜へ向かうのを助けた群馬や長野の方たち、そして、アメリカへ旅立っていくユダヤの方たちを親身にお世話をした川崎や横浜の市民の方たちなど、ぎりぎりの生活が続いて苦しい中、人としての心を忘れなかった多くの日本人がいたことはあまり知られていません。
ですが、当時を知るユダヤ人亡命者の方たちは、今でもそのことが決して忘れられないとおっしゃっておられます)

戦争は、人の醜い面が一気に吹き出すものですし、多くの人の命や財産が奪われてしまう忌み嫌われるべきものです。
しかしながら、教訓として歴史を振り返り、過去の戦争を凝視すると、国家という枠組みを越え、人が人として生きることの普遍的かつ崇高な愛を学ぶことができるとも思うのです。

ここに、私の手元にある、アメリカ人兵士の日記の一部を引用したいと思います。
正式な所属が分からないので、身元が判明しませんが、文面から察するに昭和20年3月10日の東京大空襲の攻撃に参加した方が奥様に書き残したものでしょう。

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ナンシーへ

明日、東京へ出撃することが決まった。
一緒に機に乗るクルーには何も言わないが、僕はパラシュートのハーネスをつけないつもりだ。
トーキョーに近づいたら、おそらく日本軍は徹底的な対空砲火を浴びせてくるだろう。

機が撃墜されたら、パラシュートで脱出しても、地上に着くまでに、まずまちがいなく命を落としてしまうだろうし、もし運良く地上に無事降りることができても怒りに満ちたトーキョーの市民は、まちがないく僕を殺すだろう。

死ぬのがこわくないといったら嘘になる。

でもそれより恐いのは、君に会えなくなるかもしれないことと、ジョージと同い年の子どもがトーキョーに何人いるのかということだ。

自分の機が投下する焼夷弾で、ジョージと同い年の子どもが一体何人死ぬんだろう。
僕は死んだ後、地獄へ落とされて焼き殺された子どもたちと同じ苦しみを味わうことになるんだろうな。考えただけで、気が狂いそうになるよ。

僕は、物心ついたころから、両親に教えられるままに、神の存在を信じてきた。
それなのに、いくら祈っても神は今の僕に救いを与えてくれない。
それどころかあれだけ身近に感じていた神の存在すら感じられないんだ。
神は僕に背を向けて去ろうとしているんだ。わからないよ。
神は実在するんだろうか。何のために神は、僕にこんなことをさせようとしているんだろう。

あと数時間しかない。
ナンシー、僕は、本当になにもかも分からなくなったよ
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この方がどのような未来をたどったのか、残念ながら知ることはできません。
ですが、彼が生きてその後の人生を天寿まで全うしたとしても、おそらく良心の呵責に苦しみ続けたのではないかと思います。

戦争という国家間の争いによって、人の命を絶つ人も
命を絶たれた人と同様の苦しみを背負うことになったのではないでしょうか。ここにもまた戦争という悲劇が存在するのは間違いありません。

この物語のヒロイン「ひろえ先生」は、幼い時に、原爆の被害に遭い、最終的には教え子たちの愛情や願いが届かず、若くして命を落としてしまうという、悲劇的な運命をたどってしまいます。

多くの人が、長い人生を謳歌できる今の時代から考えると、彼女の死は非業の死であり、理不尽なものでしょう。

ですが、彼女は、理不尽な自分の運命を呪うことは決してしませんでしたし、誰にも憎しみを伝えることはしませんでした。

おそらく彼女が子どもだったころは、いわれのない戦争によって、生活していくのにも事欠くほど物が与えられなかったでしょうし、また今の子どものように、大人からあふれるほどの愛情を注いでもらえることもなかったでしょう。

その彼女が、なぜ憎しみを伝えず、最愛の教え子達に惜しみない愛情を注ぎ続け、「お互いの過ちを許すこと」を伝えることができたのでしょうか。

なぜ、あれだけの年端もいかない子どもたちが彼女を一心に慕い、必死になって彼女を救おうとしたのでしょうか。

そのことを読者の方一人一人が、心のどこかで考えていただけたら、この物語は本当の命を得ることができるのではないかと考えています。


そうそう、余談になりますが、ポポの木というのは創作上の設定ではなく実在する植物です。

ひょっとすると、松下さんや、この物語を読んで下さったみなさんの住む街の片隅で、子ども達をそっと見守りながら、ポポの木は、今年の夏も甘い実を実らせているかもしれませんね。

はかせや、ななちゃん、そして北九州から全国に転校していったクラスのみんなが植えたポポの木の種も、芽吹いて大きな木になって、たくさんの実をつけている時期になっているはずですから。

靖洋君や、三年二組の子ども達が蒔いた種から芽吹いたポポの木が、どこかの国や町で、これから未来を作っていく子ども達に愛されていると、すごくうれしいですね

 



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松下
今日、松澤さんの言葉を読みながらいろんなことを思い出しました。
私は長崎県出身なので、原爆についていろんな時にいろんなことを考えつつ育ったはずなのですが、正直に口に出して話したことはあまりありません。
思ったことを言葉にするのは非常に難しい作業で、ついつい考えただけでやり過ごしていたことを知りました。
言葉にしていかなければならないと思います。

私の「原爆」に対する記憶の最初は「怖い」
次に「悔い」⇀「知らんぷり」⇀「等身大の恐怖」と変わっていきました。その背景にはいろんな出来事や人との出会いがありました。それらをちゃんと言葉で残したいし、私が抱いている恐怖を甥っ子や周りの人にも伝えたいなと思いました。

ユダヤの話や兵士の手紙等、知らない話ばかりでしたが、そんな人たちがいたことはほっとすると同時に切ないことですね。そんな気持ちで戦闘機に乗ったり、戦争に加担せねばならないってのは。

中学生の頃は「もしあの時代に生まれていたら」ということをよく考えました。今と同じ認識で戦争を理解していたとしても、声を上げることは出来なかっただろうなという意識に苛まされました。今だって正直、長いものにはまかれると思います。
だからこそ、今のうちに声を上げておくことにします。

それからポポの木ですが、気になって実は調べてました。実在と知って、先日母にも聞いてみました。戦後生まれの彼女は知りませんでしたが・・・食べてみたいな~と未知の味への好奇心に燃えている所です。

長くなってしまいましたが・・・・・こんなことを思いました。
on 08/19/05 at 23:40:PM
たしかに戦争のことを語るのは難しいですね。いくら客観的な視点を保とうと思っても、加害者と被害者が存在するのは事実ですから。
私たちの国、日本は過去の戦争において、この物語の中で述べたように、当時の国際法で禁止されていた戦争とは無関係な一般の方が多数犠牲となる凄惨な経験をしました。
それと同時に、アジア諸国を植民地とした加害者としての面も持っています。
当時の思想や社会情勢を鑑みると、欧米のように略奪を繰り返すだけのものではなく、開発や現地の方の発展を願っていた一面もあるようですが、多くの方が犠牲になったのは事実です。

これらの凄惨な事実に、日本は真摯な反省と謝罪をし、黙してアジア諸国の発展に寄与してきたのもまた事実ですが、自国の罪を責め沈黙を守り通してきたため、新たな誤解と諍いを生んでいるのもまた事実だと思います。

歴史は科学ではありませんので、人それぞれ捉え方や考え方が違うことと思います。ただ、このような悲惨なことを繰り返したいと思っている方は一人もいないはずです。事実を掘り起こし、色々な方がご自分の視点で歴史について意見を語ることが、平和を実現する最良の方法になるのではないでしょうか。

そうそう、ポポの木ですが、最近はさすがに少なくなってしまったようです。ポポの木の実は、一個で鶏卵一つ分ほどの栄養があることから、こぞって植えられた時期があったそうですが、実がなるまでに相当の時間がかかるため、やがて食糧事情が回復してくると忘れられてしまったようですね。

ここにもまた、戦争という時代を見つめてきた物言わぬ時代の証人がいます。

ちなみに、グーグルで検索してみたら、写真が見つかりました

ホームページ「ふなばしの野草より引用」
http://kensk.web.infoseek.c...
on 08/22/05 at 13:04:PM