2006
01
Jan |
春日通りと本郷通りが交わる本郷三丁目付近から、北にだらだら続く坂がある。これが菊坂。その長さは五、六百メートルはあろうか。けっこうな距離だ。
長禄年間(一四五七~一四六○年)、本郷周辺に町屋が開けた頃、この辺りは菊畑だったという。坂の名はそれに因むもの。現在の本郷四丁目付近は、かつては菊坂町とも呼ばれていたようだ。
また、明暦の大火、いわゆる振り袖火事の火元となった本妙寺も菊坂にある。江戸城はこの火事で天守閣を失い、以降天守閣が再建されることはなかった。
漱石の時代には、坂の途中から小川が流れていた。この小川はおそらく治水用で富坂の項目で触れた小石川大下水の東流に注ぎ込んでいたとおもわれる。現在、小川は道になっており、あたかも隠れ菊坂のような存在だ。
そのほか、菊坂には樋口一葉の旧居(明治二三~二五年)や、坪内逍遙が明治一七年から三年間住んだ家がある。さらに、漱石の晩年、大正三年には東京第三のホテル菊富士ホテルが開業。竹久夢二、尾崎士郎、谷崎潤一郎など、多くの文人が投宿した。菊坂は、なにかと明治・大正の文人との縁が深い。
さて、「こころ」の主人公である先生は、お嬢さんをKにとられてしまうのではないかと心配でしようがない。そこで、ある日、「奥さん、お嬢さんを私に下さい」と、下宿先の奥さんに言った。
その後、「黙って自分の机の前に坐って、二人のこそこそ話を遠くから聞いている私を想像してみると、何だか落ち付いていられないような気もする」、そこで先生は、神田の神保町方面へ散歩に出かけ、その帰り道に菊坂を通る。
「私には先刻の奥さんの記憶がありました。それからお嬢さんが宅へ帰ってからの想像がありました。私はつまりこの二つのもので歩かせられていたようなものです。その上私は時々往来の真中で我知らずふと立ち留まりました。そうして今頃は奥さんがお嬢さんにもうあの話をしている時分だろうなどと考えました。また或る時は、もうあの話が済んだ頃だとも思いました。
私はとうとう万世橋を渡って、明神の坂を上がって、本郷台へ来て、それからまた菊坂を下りて、しまいに小石川の谷へ下りたのです。私の歩いた距離はこの三区に跨がって、いびつな円を描いたともいわれるでしょうが、私はこの長い散歩の間ほとんどKの事を考えなかったのです」
菊坂を下りて、先生の下宿があるとおもわれる小石川(旧小石川表町あたり)に戻るには、富坂を経由せず蒟蒻閻魔の源覚寺から裏の坂道を上ったであろう。
「こころ」三十三の出だしは次のようになる。
「十一月の寒い雨の降る日の事でした。私は外套を濡らして例の通り蒟蒻閻魔を抜けて細い坂路を上って宅へ帰りました」
「例の通り」とは、これが学校と下宿間の定番コースだったことを示すことは明らか。作品の設定からして先生とKは帝国大学の学生だから、先生が辿った小石川-菊坂-本郷コースは、二人の通学路でもあったわけだ。
「細い坂路を上って」の坂は、蒟蒻閻魔、つまり源覚寺の境内を抜けたところにある堀坂か。下宿先は、おそらく現在の礫川小学校あたりに想定したとおもわれる。
となると、下宿先の正確な位置や、はたまた、結婚後の先生とお嬢さんの新居は、作品のもう一人の主人公である私の家はどこか気になるところだがその謎解きは別の機会にゆずりたい。
ところで、上記の先生の散歩コースでちょっと気になるのが萬世橋。明治四十年の地図を見ると、現在の万世橋と昌平橋の間にもう一つ万世橋がある。
実は昌平橋寄りのものは、旧万世橋。この橋は明治六年に造られた石造りの眼鏡橋で、万代橋(よろずよばし)とも呼ばれたが、現在の位置に新万世橋が完成したために明治三十九年に撤去された。
森鴎外の「雁」では、「その頃まだ珍らしい見物になっていた眼鏡橋の袂を、柳原の方へ向いてぶらぶら歩いて行く」とあるが、この眼鏡橋は旧万世橋のことだ。
では、「こころ」の先生はどうか。朝日新聞に「こころ」が連載されたのは大正三年四月から。ということは、明治三十九年には旧万世橋はないわけだから、タイミングとして、先生が渡ったのは新万世橋の可能性が高い。
しかし、「雁」の初出も明治四十四年ということもあるので断定はできないのだが。
旧と新の万世橋
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