箱崎釜破故の世界(25) 梶原十郎兵衛、切腹を図る-武士道から見た黒田騒動 by 石瀧豊美 マチともの語り-地域・物語り・短編小説
箱崎釜破故の世界(25) 梶原十郎兵衛、切腹を図る
author: 石瀧豊美
Posted on 03/24
 ○梶原十郎兵衛、忠之公へ諫書の使者に参る事

 斯くて梶原十郎兵衛、翌日早朝栗山大膳より五拾弐ヶ条并諫書を受け取り、登城して先ず若年寄*1郡正次郎、木付きつき源兵衛、明石四郎兵衛、右三人へ大膳よりの諫書并五拾弐ヶ条を差し出す。
 三人の衆より此の趣を家老中え達し候所、美作みまさか*2、道柏どうはく*3、内蔵之允くらのじょう*4、其の外諸役人、打ち寄りて詮議の上、時枝主鈴しゅれいを以て忠之公の御覧に入るる時、美作、内蔵之允より大膳諫書の趣申し達す。
 其の後、郡正次郎諫書を御目通りに罷り出で、読むべき由、美作申され候え共、所存これある哉、辞退に付き、木付源兵衛、是を読みける。
 忠之公、大いに御怒り、既に座を立ちて、梶原十郎兵衛を御手討ちに成さるべき由、家老中御宥なだめ申す。尚又、明石四郎兵衛、黒田監物両人は十郎兵衛を引き立て、御次の間に下げ、其の後、郡正次郎来たり、一先ず十郎兵衛は御殿を退き申すべき旨に付き、
 梶原は御殿を退き直ちに大膳が宅に参り、右の次第を語り、私宅に帰り、内室を呼び候て、大切成る密談の客これあり、去るに依りて女童めわらべ立ち騒ぐ事成り難し。幸い湊町みなとまち*5の浜に船の早乗り早下りの稽古*6これあり、皆々見物に参る由、そなたも家内残らず召し連れて見物に参らるべし。
 留守に客取り持ちは同性*7角太夫呼びて饗応取り計らわせん。外に畳屋壱両人呼びて、少し表替え致さん*8とあれば、奥方悦んで夫れより俄に騒ぎ立ち、勇み悦んで見物に出で行きける。
 偖て角太夫は、急用有るに付き御出で候えと申し遣しければ、急用とは何事やらんと呼ばわり、使い共に十郎兵衛方へ来る。悦び奥の間に伴い、密かに申されけるは、
 我れ今度栗山大膳諫書を差し上げし所、御用いなく、然れば臣として君を諫め、御信用無き時は切腹致す事、今に始めざる事也とて、懐中より壱封を出し候て、是は我が家の系図、猶又右大将頼朝公より、先祖へ下されし壱紙、今迄我が家に持ち伝う。
 又た此の壱封は、長政公関ヶ原御陣功の節、家康公よりの御奉書、其の外御家宝書数通也。今度栗山大膳其の身必死を究め、此の書退転*9せん事を恐れ、我れを見立て預け置けり。我れ切腹の後、此の両書貴殿へ預ける也。
 若し忠之公御不行跡も直りなば捧げらるべし。左もなくば、国危うき時は此の御奉書と共に、江府表に立ち越し、危うきを救い給え、左も無き時は決して出だす事有るべからず、と秘して、自身系図と共に角太夫に渡しける。
 請け取りて押し戴き、受納して曰く。我れ与力の身として、此の両書を預かる事、軽きに非ず。誠に以て御同性の親類たるを以て也。我れ此の儀を疎略に思わんやとて、懐中に納め、国の危うきを見て、御命を全うして、倶に御力を添えらるべきを御切腹有らん事、是非なし。去りながら児女の如き思し召し堅められしを、歎き悲しむべきに非ず。然し何卒御活命の御工夫も是なしやといえば、
 我れとても好んで切腹すべきに非ず。され共無法の主人、如何成る罪科に行われんも計りがたし。主命の上はしばり首に討たるる共、ささえべからず。所詮潔く切腹にしかじと毛氈を敷き、座に直りて、
 角太夫、某それがし不肖の身として申し上ぐも憚り有れ共、今大膳大事を謀りて、未だ何たる是非も見えぬ折節、御生害ごしょうがい有らんは血気の笑いを取り給うべし。若し其の内、討っ手参らば其の節尋常に御腹召さるべし、と無理に押して諫めける所、
 家内は船場より見物終わりて、立ち帰り、懸かる様子を見て、妻女は夢共なくかけ寄りて、歎き入れば、角太夫も泪に沈みしが、漸く泪を払い、武士たる身の常ながら、切腹は我が身を潔くせんため、是ぞ君の御為とおし止どめ、先ず籠り居られて時代を待ち給えと、様々諫めければ、十郎兵衛も道理に伏し、さらば暫く切腹を延引し、世間の有様を見んと、閉門して慎み居たりける。

【解説と要約】
 栗山大膳の諫書をたくされた梶原十郎兵衛は、若年寄を通じて家老へ提出し、忠之の前で読み上げられた。十郎兵衛の身分では家老または忠之に直接諫書を提出できないので、手続きを踏んだということになる。些細なことだが、このあたり、作者は福岡藩の慣行に通じていたことがよくわかろう。
 忠之は大いに怒り、目の前にひかえる十郎兵衛を手討ちにするといきまいた。家老らがそれをなだめ、十郎兵衛は次の間に控えた後、御殿を退出した。御殿は城内の忠之の執務場所を言う。それから大膳の屋敷に立ち寄ったが、この大膳宅は同じく城内の東側の一角にあった。現在は裁判所が建っている。
 私宅に帰り着いた十郎兵衛はすでに切腹を覚悟している。妻に子どもを連れて外出するよう促し、親類の梶原角兵衛を呼び寄せた。妻が取り乱すことを恐れている様子がうかがえる。軍船の乗組員の訓練を見物するよう促された妻が、浮き足だって出かけるところがおもしろい。作者のこういう場面での人物像の描写はとても巧みで、決して類型的ではない。
 角太夫が来ると、十郎兵衛は切り出した。はじめに出した一封。そこには梶原家の系図と源頼朝が先祖(梶原景時であろう)に与えた文書が入っている。
 もう一封には、関ヶ原の手柄に対して家康が長政に与えた奉書。これは黒田騒動の進行で最も意味を持つことになる文書である。他に、黒田家の家宝となる文書数通があったが、これらは栗山大膳が忠之の手に渡らないよう、ひそかに持ち出したものであった。
 今、切腹を決意した十郎兵衛はそれらを信頼できる角太夫にゆだねようとしているのである。この時、福岡藩の運命が危うい時は、江戸で幕府の要路に差し出すように、と指示したのが、家康の奉書である。
 角太夫は十郎兵衛の切腹を思いとどまらせようと、必死の説得を試みる。忠之の討っ手が来たわけでもないのに切腹するのは血気の笑いを受けるだろう、と。ここにも死ぬことだけが選択肢ではない、という発想がある。
 一方、忠之の描かれ方はこっけいですらある。
 「無法の主人、如何成る罪科に行われんも計りがたし。主命の上はしばり首に討たるる共」という状況が予想される以上、「潔く切腹にしかじ」なのである。「しばり首」を命じかねない「無法の主人」―常識の通じない人だから、どんなことをしでかすかわからない、と言うのだ。
 武士の場合は切腹が名誉の刑とされている。以前、政府高官の不祥事が相次いだ折、総理大臣が「責任の取り方は御自分でおわかりでしょう」と他人事のような言い方に終始し、マスコミの批判を受けたことがあった。総理大臣が、自分は責任の取り方を知っている人間を見込んで大臣にしているのだから、総理大臣が一々ああしろ、こうしろと指示する必要はない、という論理である。もちろん、実際にはそれを隠れ蓑にして、ほおかぶりをしてすませたというのが真実だろうが、論理的にはそれなりに筋が通っていた。
 しかし、その後の不祥事では、大臣が「任命権者」である総理大臣に任命されているので、その人から辞めろと言われない限り、自分から辞任するのは無責任だ、という論理でマスコミの追及を逃げおおせたということがあった。自分で責任の取り方を判断できない人物が大臣になっていることが露呈されたのである。
 ところで、武士にとっての責任の取り方は切腹しか予定されていない。切腹はまさに自決であって、自分で自分の運命を選択するのである。しかし、現実には武士が斬首に処せられる場合がある。その際は、武士の身分を奪っていったん庶人に落とすのだが、それは論理的に言って武士には切腹しかありえないためである。まさに、自分で責任の取り方のわかっていない人間は武士ではないという前提があった。
 したがって、武士をしばり首にしかねない殿様は「無法の主人」ということになるのだ。忠之に対する表現として、これ以上の侮辱はない。作者はあえて角太夫にそう言わせている。
 ついでに触れておけば、慶応元年(一八六五)の福岡藩勤王派への弾圧事件(乙丑いっちゅうの獄)では、加藤司書ら七名が切腹、月形洗蔵ら一四名が斬首となるが、切腹の場合は実子が後を継ぐことができず、娘が婿をとって跡継ぎとした。すでに娘が他家へ嫁入りしている場合は、家を絶やさないためには、離縁して実家にもどるしか方法がなかった。確かめてはいないが、斬首の場合は断絶となったことが予想される。
 福岡の変(西南戦争下での一事変)では加藤司書の子、堅武かたむが死刑になるが、やはり「士籍」から除いた上で、斬首となったのである。これらはあくまでも「武士とは何か」ということの帰結であり、論理の問題である。
 乙丑の獄で切腹した建部たてべ武彦の子、小四郎は建部家を継げず、養子が入った。明治維新の成就により、建部武彦らの名誉回復が成ると、小四郎は父の名の一字を取って、新たに武部家を起こした。福岡の変では武部小四郎も加藤堅武(小四郎の従兄弟でもある)ら四人と共に斬首となるが、刑執行の直前、小四郎は斬り手の役人に自分が「よろしい」と言った時に刀を振り下ろすよう頼む。そして実際にその通りになるのだが、これには死の瞬間をコントロールすることで、形の上での〝自決〟をめざす心情があったのかもしれない。

  • 注1 福岡藩では若年寄という役職はあまり一般的ではないが、家老の次くらいをそう称したのであろう。
  • 注2 黒田美作。大老の家柄で、筆頭家老の位置にいる。三奈木黒田家と言う。
  • 注3 井上道柏。
  • 注4 小河おごう内蔵允。
  • 注5 現在西公園のある荒戸山の東、港に面した町を言う。
  • 注6 福岡藩の御用船、軍船の乗組員の訓練。
  • 注7 同姓に同じ。この場合は梶原。
  • 注8 明示されていないが、切腹の用意であろうか。
  • 注9 この場合は、書類が失われること。

本日:1 今週:8 累計:7040(5/9 15:00より)



on 08/15 at 23:02:PM
ページをめくるときとてもワクワクしています。ありがとうございます。
ところで、箱崎釜破故の世界(25)の解説中の慶応元年(一六〇五)は誤記ではないかと思いまして
ここに、おしらせいたします。
唐突ですみません。
on 08/16 at 12:07:PM
慶応元年の西暦表示に間違いがあったこと、ご指摘いただきありがとうございました。早速直しておきました。

ご注目いただいたことに感謝いたします。「箱崎釜破故」は終わりましたが、「武士道から見た黒田騒動」はこれで終わったわけではありません。

諸般の事情で一時休止です。この後、「お綱さんツアー」を企画中で、次に福本日南の説を紹介します。

今後ともよろしくお願いいたします。
TrackBack
トラックバック
このエントリにトラックバックはありません
このトラックバックURLを使ってこの記事にトラックバックを送ることができます。 もしあなたのブログがトラックバック送信に対応していない場合にはこちらのフォームからトラックバックを送信することができます。.