百年の眠り - 浴槽 la baignoire by 天沼春樹 マチともの語り-地域・物語り・短編小説
2005
18
Sep
Posted by 天沼春樹 on 01:04 / Category : 浴槽 la baignoire
 まったく知りあいのいないパリで最初に目覚めたとき、アガサは生まれ変わったような気分になったものだ。或いは百年の眠りから覚めたよう。わずらわしい人間関係を断ち切り、ドーバーを越えて経度をすこし移動しただけなのに、まったくの独りになれたのだ。
 ところが、よく夢に出てくるのは子ども時代の故郷だった。コンウォールのセント・アイヴスの近く、ヴァージニア・ウルフが子ども時代によく訪れた穏やかな気候の村だ。もちろん、ヴァージニア・ウルフを読んだのは、大学にはいってからだったが。
 名前は忘れてしまった幼なじみの顔がよく夢にあらわれる。たわいのないことを喋りあいながら、うねうねとした丘陵地帯を歩き回っていたりする。
「あのね、タチジャコウ草の下に緑色の蛇がいたの」
「それ、エスメラルダって名前よ」
「蛇の目も緑だったの」
「エスメラルダって名よ」
 夢を見ながら、アガサはそれが早くに亡くなった従姉の名前であることに気がついた。エスメラルダは蛇に転生したのだろうか。
「あのね、砂浜を歩いていると蜥蜴が出てきたの」
「それ、ジャック・リボウスキって蜥蜴だわ」
「尻尾が切れてたわ」
 リボウスキは、森にすんでいて、ときどき村を徘徊していた気のふれた浮浪者の名だ。彼も死んだのだろうか。小さな森のなかから、背の高い、壊れたカカシみたいな姿がよろめき出てくると、子どもたちはジャック・ザ・ゴーストが来た!と、叫んで逃げたものだ。
「蜥蜴はまもなく死んだの」
「お墓をつくってやった?」
「蜥蜴にお墓なんかないわよ。ただ干からびていくだけ」
 アガサはそんな夢を見ると、自分が故郷から一歩も出ていないような気がして癪にさわった。どうして、故郷が追いかけてきたりするのだろうか。二度ともどりたくないと思っているのに。彼女が捨ててきた許嫁の名前もジャックだった。ジャック・ウエブスター。辞書みたいな角張った名前。
 長椅子にねそべっている今の恋人のジャンにそのことを話すと、ジャンは欠伸をして、「君がパリを捨てて、カトマンズにでも引っ越したら、こんどはぼくがカタツムリかなんかになって夢に出てくるんだろうな」と、見当外れなことを言う。
「むしろカエルじゃないかしら」
 ジャンの顔と、体型を見比べながら、アガサはそういってやる。
 ジャンはげらげら笑った。
「カタツムリは君のことかもね。どこへ移動しても、ちゃんと家をしょってあるいているんだから」
 阿呆なジャンにしては上出来な警句だった。
 いまのアガサは、どこかに行こうとは思わない。捨てたいのは町ではなくて、結局は人間関係だとわかっていたからだ。ジャンのやつにしたって、今度また一週間も風呂にはいらなかったらホウキでたたきだしてやろうと思っている。

photo by Yusuke Wakabayashi

 



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